表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/11

第9話 花丸の採点

「あら、ここなんて素敵よ」


 サマンサの声だった。


「帰国が近づくにつれ、早くお会いしたい気持ちが日に日に募ってまいります。こうして手紙にしなければ、とても平静ではいられません」


 わざと少し甘く、遠慮がちに。私の声色を真似るような、気味の悪い抑揚だった。


 頭の中が、真っ白になる。


 それは、私の手紙だった。半月ほど前、エドガー様へ送った手紙。もうすぐ帰れるのだと思うと、どうしても今の気持ちをきちんと伝えたくて、何度も言葉を選び直した。あの人に届くように。少しでも、私の想いがまっすぐ伝わるように。そう思って、ようやく封をした一通だった。


 どうして。どうして、サマンサがそれを読んでいるの。


「あなたへの想いが日に日に抑えきれなくなっていくのです」


 次の瞬間、エドガー様が吹き出す。


「似てるな。声の作り方まで」


「でしょう?」


 サマンサが得意げに笑う。赤ペンが紙を走る音がした。


「恋慕の重さ、大変よくできました。A。情緒たっぷり」


 喉が、音を立てずに乾く。


「続きは?」


「ええと、それでも、これほど誰かを恋しく思えるのは、幸せなことなのだとも感じております」


「そこは花丸だな」


「やっぱり?」


 サマンサの持つ赤ペンが、紙の上でくるりと円を描いた。


 花丸をつけたのだと、すぐに分かった。


「依存度、非常に良好。A+、花丸。信頼度も満点。リディアちゃん、よくできました」


 サマンサが楽しそうに読み上げる。エドガー様が喉の奥で笑った。


「やめろ」


「どうして?」


「本人を目の前にしたら、笑ってしまうだろ」


 そこで、ようやく分かった。


 これはただ手紙を見ているのではない。読んでいるのでもない。採点をして笑い者にしているのだ。


 私が、胸の奥から絞り出すように書いた言葉を。何度も迷って、恥ずかしくて、それでも本当だからと残した言葉を。二人は、赤いペンで採点している。


「でも今回、なかなか良い出来よ。帰国前だから気持ちが盛り上がっているのね」


「毎回よく書くな」


「それだけあなたに会いたいのよ。リディアの、重くて一途なところ。本当は嫌いじゃないくせに」


 エドガー様は少し黙る。それから、低く笑った。


「嫌なら、二年も続けていない」


 心臓が、嫌な音を立てた。


 二年。続けていた。何を。


「ねえ。リディアとのやりとりなんて、もう半分くらい私がしているようなものじゃない?」


「半分?」


 エドガー様が鼻で笑う。


「下手したら全部お前だろ」


 息が止まる。


「そんなことないわ。あなたが書いたものもあるでしょう?」


「最初の頃はな」


「最近だって、最後の一文くらいはあなたが決める時もあるじゃない」


「それで十分だろ」


 十分。何が。


「でも本当よ。あの子は、あなたに向けて一生懸命に書いているつもりで、返ってくる言葉の大半は私が選んでいるの」


「俺の名前で届きさえすれば、中身が誰の言葉かなんて考えもしない」


 何を言われたのか、すぐには分からなかった。


 冷えた寝台。硬い枕。眠れずに、何度も封筒の端を撫でた夜。涙で少し滲んだ文字を、それでも大事に乾かしたこと。エドガー様の手紙を胸に抱いて、ようやく息ができた朝。


 あれは。あれは、いったい何だったのだろう。


 私は何を抱いて眠っていたのだろう。


「あなたの字、真似るの大変だったのよ」


 サマンサが、ふと思い出したように言う。


「最初は何枚も失敗したわ。あなた、意外と癖があるんですもの。少し角ばるところとか、最後を急ぐところとか」


「よくそこまで真似できるな」


「練習したもの」


 サマンサは楽しそうに笑った。


「リディアったら、鈍いところは鈍いくせに、そういうところは案外よく見ているでしょう。まして、あなたから贈られた文字よ。きっと撫でるみたいに見ているわ。少しでも違えば、首を傾げて考えてしまうもの」


「それを分かった上で真似るのか」


「ええ」


 サマンサは嬉しそうに笑う。


「あの子が何度も見返す文字を、私が作っているのよ。想像するだけでゾクゾクしない?」


「そこまで熱心だと、気味が悪いな」


「そう?」


 サマンサは少しも傷ついた様子なく、便箋を撫でた。


「私、リディアに最高の手紙を書くためなら何時間だって使えるわ」


「お前もリディアと別に手紙のやり取りをしているだろう」


「そうじゃないのよ」


 サマンサはゆっくり首を振る。


「リディアの愛するエドガー様の手紙が、私だというところがいいの」


「何がいいんだ」


「リディアが一番欲しがっている場所に、私の言葉が入っていくのよ」


 サマンサはうっとりと微笑む。


「私が書いた言葉を、あなたの言葉だと思って、大事そうに抱えているの。こんなに素敵なこと、ほかにある?」


 ぞっとした。


 けれど、エドガー様は止めない。怒らない。ただ、少し引いたように息を吐くだけだった。


「お前、相当歪んでるな。リディアも、厄介な奴に目をつけられたものだ」


「まあ」


 サマンサが目を細める。


「あなたに言われたくないわ」


「何がだ」


「あなた、本当にリディアの扱い方をよく分かっているもの」


 サマンサは赤ペンを指先でくるりと回す。


「さすが、リディアの調教師さんね」


 エドガー様の眉が、ぴくりと動いた。


「調教師?」


「違う?」


 エドガー様は、少しだけ考えるように黙る。それから、低く笑った。


「まあ、間違ってはいないな」


 その声を聞いた瞬間、背筋が冷える。


 エドガー様は、そこで少し考えるように目を細めた。


「犬の調教師の話を知っているか」


 犬。


 どうして、ここで犬の話になるのだろう。


 私は扉の外で、息を潜めたまま動けなかった。


「犬に餌をやる前に、必ず鐘を鳴らす。何度も繰り返すと、そのうち犬は、餌がなくても鐘の音だけで反応するようになるそうだ」


「何の話?」


「リディアだよ」


 サマンサが吹き出す。


「ひどいわね。婚約者を犬扱い?」


「たとえ話だ」


「で? あなたの鐘は何なの?」


「リディアを動かす言葉だ」


 エドガー様はあっさりと言った。


「『君なら大丈夫だ』『信じている』『君に支えてほしい』。ああいう言葉をかけると、あいつは自分から頑張り始める」


 サマンサが声を立てて笑う。


「最低」


「別に悪い意味じゃない」


 エドガー様は肩をすくめる。


「リディアは素直なんだ。言葉をそのまま受け取る。信じる。抱える。大事にする」


「まあ」


「少し励ませば、尻尾を振るみたいに嬉しそうに頑張る。褒めれば顔に出る。必要だと言えば、自分から役に立とうとする」


 エドガー様は低く笑う。


「そういうところが可愛い」


 可愛い。その甘い響きだけが、会話の中でひどく浮いていた。


「可愛い、ねえ」


 サマンサは面白そうに首を傾げる。


「犬なら鐘を聞いていい子にして、餌をもらって終わりでしょう。でもリディアは、一言餌をもらっただけで、何日も何週間も自分から尽くすんだもの。ある意味、犬より扱いやすいわ」


「お前は言い方が悪い」


「どの口が言うのよ」


「俺はいいんだよ」


 エドガー様は悪びれもしない。


「リディアは俺のものだ」


「あら、いやだ」


 サマンサは赤ペンの先を便箋の上で止める。


「私のリディアでもあるわ」


「共有する趣味はない」


「共有されるのはいいのに?」


 サマンサが楽しそうに笑う。


 エドガー様は答えなかった。


 私は扉の外で、息をすることも忘れていた。


 君なら大丈夫だ。信じている。君に支えてほしい。


 何度も何度も読んだ言葉。泣きそうな夜に、胸の奥へしまい込んだ言葉。


 あれは、鐘だった。私を何度でも立ち上がらせるために、鳴らされていた音だった。


「でも、鐘だけじゃ足りないでしょう?」


 サマンサが便箋をめくる。


「だから、たまに餌をやる」


 エドガー様の声は、ひどく落ち着いている。


「鐘は頑張らせるためのものだ。それだけじゃ、いつか疲れる」


 エドガー様は少し笑って続けた。


「だから最後に少しだけ甘い言葉をやる。『会いたい』『帰る日を待っている』『君がいないと寂しい』。そういう餌を落としてやれば、あいつは報われたと思って、また自分から頑張る」


「その一文を、あの子が何日も何週間も抱えるのね」


「そういう女だ」


 そういう女。


 私は、そういう女だった。


 大丈夫ではないのに、君なら大丈夫だと言われれば、そうなのだと思おうとした。もう無理だと思った日でも、信じていると書かれていれば、もう一度だけ机に向かった。


 それが、鐘だった。私を立ち上がらせるために、鳴らされていた音だった。


 そして、手紙の最後にたった一行だけ添えられた、優しい言葉。


 会いたい。帰る日を待っている。君がいないと寂しい。


 その一文だけで、その日一日を越えられた。次の朝も、また頑張ろうと思えた。


 それが、餌だった。


 この人は、知っていた。私がどの言葉で立ち上がり、どの言葉で報われた気持ちになるのかを。


 知っていて、使っていた。


「結婚したら、もっと楽になる」


 エドガー様が低く言う。


「今は手紙だから手間がかかる。だが、そばに置けばいい」


 サマンサが目を細める。


「褒めるのも、宥めるのも、叱るのも、その場で済む?」


「そうだ」


「本当に調教師みたい」


「扱い方を間違えなければ、リディアは従う」


「死ぬまで?」


「ああ」


 迷いのない声だった。


「死ぬまで俺の隣に置く。俺だけを見て、俺のために動けばいい」


「それは愛?」


「愛だろ」


 エドガー様は薄く笑う。


「俺が死ぬまでそばに置くと言っているんだ」


「まあ。どこからそんな自信が出てくるの?」


「あいつの俺を見る目が、そう言っている」


 サマンサが吹き出す。


「本当に自分勝手な人」


「お前に言われたくない」


「でも、便利?」


「ああ」


 エドガー様は何でもないことのように言う。


「便利だ」


 便利。


 その言葉が、扉の隙間からまっすぐ私の胸に入ってくる。


 好きだった人の声で。


 ずっと支えだと思っていた声で。


「では、今回のお返事はどうする?」


 サマンサが楽しそうに尋ねる。


「帰国前でしょう。少し多めに優しくしてあげる?」


「いや」


 エドガー様は少し笑った。


「甘すぎると効かなくなる」


「じゃあ、一文だけ?」


「ああ」


 エドガー様は、私の手紙を指先で軽く弾く。


「それで十分だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ