第9話 花丸の採点
「あら、ここなんて素敵よ」
サマンサの声だった。
「帰国が近づくにつれ、早くお会いしたい気持ちが日に日に募ってまいります。こうして手紙にしなければ、とても平静ではいられません」
わざと少し甘く、遠慮がちに。私の声色を真似るような、気味の悪い抑揚だった。
頭の中が、真っ白になる。
それは、私の手紙だった。半月ほど前、エドガー様へ送った手紙。もうすぐ帰れるのだと思うと、どうしても今の気持ちをきちんと伝えたくて、何度も言葉を選び直した。あの人に届くように。少しでも、私の想いがまっすぐ伝わるように。そう思って、ようやく封をした一通だった。
どうして。どうして、サマンサがそれを読んでいるの。
「あなたへの想いが日に日に抑えきれなくなっていくのです」
次の瞬間、エドガー様が吹き出す。
「似てるな。声の作り方まで」
「でしょう?」
サマンサが得意げに笑う。赤ペンが紙を走る音がした。
「恋慕の重さ、大変よくできました。A。情緒たっぷり」
喉が、音を立てずに乾く。
「続きは?」
「ええと、それでも、これほど誰かを恋しく思えるのは、幸せなことなのだとも感じております」
「そこは花丸だな」
「やっぱり?」
サマンサの持つ赤ペンが、紙の上でくるりと円を描いた。
花丸をつけたのだと、すぐに分かった。
「依存度、非常に良好。A+、花丸。信頼度も満点。リディアちゃん、よくできました」
サマンサが楽しそうに読み上げる。エドガー様が喉の奥で笑った。
「やめろ」
「どうして?」
「本人を目の前にしたら、笑ってしまうだろ」
そこで、ようやく分かった。
これはただ手紙を見ているのではない。読んでいるのでもない。採点をして笑い者にしているのだ。
私が、胸の奥から絞り出すように書いた言葉を。何度も迷って、恥ずかしくて、それでも本当だからと残した言葉を。二人は、赤いペンで採点している。
「でも今回、なかなか良い出来よ。帰国前だから気持ちが盛り上がっているのね」
「毎回よく書くな」
「それだけあなたに会いたいのよ。リディアの、重くて一途なところ。本当は嫌いじゃないくせに」
エドガー様は少し黙る。それから、低く笑った。
「嫌なら、二年も続けていない」
心臓が、嫌な音を立てた。
二年。続けていた。何を。
「ねえ。リディアとのやりとりなんて、もう半分くらい私がしているようなものじゃない?」
「半分?」
エドガー様が鼻で笑う。
「下手したら全部お前だろ」
息が止まる。
「そんなことないわ。あなたが書いたものもあるでしょう?」
「最初の頃はな」
「最近だって、最後の一文くらいはあなたが決める時もあるじゃない」
「それで十分だろ」
十分。何が。
「でも本当よ。あの子は、あなたに向けて一生懸命に書いているつもりで、返ってくる言葉の大半は私が選んでいるの」
「俺の名前で届きさえすれば、中身が誰の言葉かなんて考えもしない」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
冷えた寝台。硬い枕。眠れずに、何度も封筒の端を撫でた夜。涙で少し滲んだ文字を、それでも大事に乾かしたこと。エドガー様の手紙を胸に抱いて、ようやく息ができた朝。
あれは。あれは、いったい何だったのだろう。
私は何を抱いて眠っていたのだろう。
「あなたの字、真似るの大変だったのよ」
サマンサが、ふと思い出したように言う。
「最初は何枚も失敗したわ。あなた、意外と癖があるんですもの。少し角ばるところとか、最後を急ぐところとか」
「よくそこまで真似できるな」
「練習したもの」
サマンサは楽しそうに笑った。
「リディアったら、鈍いところは鈍いくせに、そういうところは案外よく見ているでしょう。まして、あなたから贈られた文字よ。きっと撫でるみたいに見ているわ。少しでも違えば、首を傾げて考えてしまうもの」
「それを分かった上で真似るのか」
「ええ」
サマンサは嬉しそうに笑う。
「あの子が何度も見返す文字を、私が作っているのよ。想像するだけでゾクゾクしない?」
「そこまで熱心だと、気味が悪いな」
「そう?」
サマンサは少しも傷ついた様子なく、便箋を撫でた。
「私、リディアに最高の手紙を書くためなら何時間だって使えるわ」
「お前もリディアと別に手紙のやり取りをしているだろう」
「そうじゃないのよ」
サマンサはゆっくり首を振る。
「リディアの愛するエドガー様の手紙が、私だというところがいいの」
「何がいいんだ」
「リディアが一番欲しがっている場所に、私の言葉が入っていくのよ」
サマンサはうっとりと微笑む。
「私が書いた言葉を、あなたの言葉だと思って、大事そうに抱えているの。こんなに素敵なこと、ほかにある?」
ぞっとした。
けれど、エドガー様は止めない。怒らない。ただ、少し引いたように息を吐くだけだった。
「お前、相当歪んでるな。リディアも、厄介な奴に目をつけられたものだ」
「まあ」
サマンサが目を細める。
「あなたに言われたくないわ」
「何がだ」
「あなた、本当にリディアの扱い方をよく分かっているもの」
サマンサは赤ペンを指先でくるりと回す。
「さすが、リディアの調教師さんね」
エドガー様の眉が、ぴくりと動いた。
「調教師?」
「違う?」
エドガー様は、少しだけ考えるように黙る。それから、低く笑った。
「まあ、間違ってはいないな」
その声を聞いた瞬間、背筋が冷える。
エドガー様は、そこで少し考えるように目を細めた。
「犬の調教師の話を知っているか」
犬。
どうして、ここで犬の話になるのだろう。
私は扉の外で、息を潜めたまま動けなかった。
「犬に餌をやる前に、必ず鐘を鳴らす。何度も繰り返すと、そのうち犬は、餌がなくても鐘の音だけで反応するようになるそうだ」
「何の話?」
「リディアだよ」
サマンサが吹き出す。
「ひどいわね。婚約者を犬扱い?」
「たとえ話だ」
「で? あなたの鐘は何なの?」
「リディアを動かす言葉だ」
エドガー様はあっさりと言った。
「『君なら大丈夫だ』『信じている』『君に支えてほしい』。ああいう言葉をかけると、あいつは自分から頑張り始める」
サマンサが声を立てて笑う。
「最低」
「別に悪い意味じゃない」
エドガー様は肩をすくめる。
「リディアは素直なんだ。言葉をそのまま受け取る。信じる。抱える。大事にする」
「まあ」
「少し励ませば、尻尾を振るみたいに嬉しそうに頑張る。褒めれば顔に出る。必要だと言えば、自分から役に立とうとする」
エドガー様は低く笑う。
「そういうところが可愛い」
可愛い。その甘い響きだけが、会話の中でひどく浮いていた。
「可愛い、ねえ」
サマンサは面白そうに首を傾げる。
「犬なら鐘を聞いていい子にして、餌をもらって終わりでしょう。でもリディアは、一言餌をもらっただけで、何日も何週間も自分から尽くすんだもの。ある意味、犬より扱いやすいわ」
「お前は言い方が悪い」
「どの口が言うのよ」
「俺はいいんだよ」
エドガー様は悪びれもしない。
「リディアは俺のものだ」
「あら、いやだ」
サマンサは赤ペンの先を便箋の上で止める。
「私のリディアでもあるわ」
「共有する趣味はない」
「共有されるのはいいのに?」
サマンサが楽しそうに笑う。
エドガー様は答えなかった。
私は扉の外で、息をすることも忘れていた。
君なら大丈夫だ。信じている。君に支えてほしい。
何度も何度も読んだ言葉。泣きそうな夜に、胸の奥へしまい込んだ言葉。
あれは、鐘だった。私を何度でも立ち上がらせるために、鳴らされていた音だった。
「でも、鐘だけじゃ足りないでしょう?」
サマンサが便箋をめくる。
「だから、たまに餌をやる」
エドガー様の声は、ひどく落ち着いている。
「鐘は頑張らせるためのものだ。それだけじゃ、いつか疲れる」
エドガー様は少し笑って続けた。
「だから最後に少しだけ甘い言葉をやる。『会いたい』『帰る日を待っている』『君がいないと寂しい』。そういう餌を落としてやれば、あいつは報われたと思って、また自分から頑張る」
「その一文を、あの子が何日も何週間も抱えるのね」
「そういう女だ」
そういう女。
私は、そういう女だった。
大丈夫ではないのに、君なら大丈夫だと言われれば、そうなのだと思おうとした。もう無理だと思った日でも、信じていると書かれていれば、もう一度だけ机に向かった。
それが、鐘だった。私を立ち上がらせるために、鳴らされていた音だった。
そして、手紙の最後にたった一行だけ添えられた、優しい言葉。
会いたい。帰る日を待っている。君がいないと寂しい。
その一文だけで、その日一日を越えられた。次の朝も、また頑張ろうと思えた。
それが、餌だった。
この人は、知っていた。私がどの言葉で立ち上がり、どの言葉で報われた気持ちになるのかを。
知っていて、使っていた。
「結婚したら、もっと楽になる」
エドガー様が低く言う。
「今は手紙だから手間がかかる。だが、そばに置けばいい」
サマンサが目を細める。
「褒めるのも、宥めるのも、叱るのも、その場で済む?」
「そうだ」
「本当に調教師みたい」
「扱い方を間違えなければ、リディアは従う」
「死ぬまで?」
「ああ」
迷いのない声だった。
「死ぬまで俺の隣に置く。俺だけを見て、俺のために動けばいい」
「それは愛?」
「愛だろ」
エドガー様は薄く笑う。
「俺が死ぬまでそばに置くと言っているんだ」
「まあ。どこからそんな自信が出てくるの?」
「あいつの俺を見る目が、そう言っている」
サマンサが吹き出す。
「本当に自分勝手な人」
「お前に言われたくない」
「でも、便利?」
「ああ」
エドガー様は何でもないことのように言う。
「便利だ」
便利。
その言葉が、扉の隙間からまっすぐ私の胸に入ってくる。
好きだった人の声で。
ずっと支えだと思っていた声で。
「では、今回のお返事はどうする?」
サマンサが楽しそうに尋ねる。
「帰国前でしょう。少し多めに優しくしてあげる?」
「いや」
エドガー様は少し笑った。
「甘すぎると効かなくなる」
「じゃあ、一文だけ?」
「ああ」
エドガー様は、私の手紙を指先で軽く弾く。
「それで十分だ」




