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第8話 赤いペン先

王都へ戻ったその日、私は屋敷で荷を解くより先に、エドガー様の屋敷へ向かった。


 港のある区画を離れ、王都の中心へ向かう馬車の中で、私は何度も膝の上の手を握り直していた。


 二年ぶりの王都だった。


 通りを行き交う人の声も、馬車の車輪の音も、遠くから聞こえる鐘の音も懐かしい。見慣れていたはずの街並みが、少しだけ違って見える。石造りの建物も、並木道も、大通りから貴族の屋敷が並ぶ一角へ続く道も、前より明るい。


 私が変わったのかもしれない。


 そう思うと、なんだかくすぐったい気持ちになる。


 普通なら、まず屋敷へ戻るべきなのだろう。荷を下ろして、父に挨拶をして、湯を使い、服を整えてから、改めて婚約者の屋敷へ伺う。


 それが正しい。分かっている。


 けれど、どうしても待てなかった。


 少しだけでいい。


 顔が見たい。


 帰ってきました、と言いたい。


 最後にエドガー様からもらった手紙には、帰ったら一番に顔を見たいと書かれていた。早く会いたい、とも。


 その言葉を、私は何度も読み返した。


 だから、今日くらいは許される気がした。少しくらい、浮かれてもいい気がした。


 馬車がエドガー様の屋敷の前で止まった時、胸が大きく鳴る。


 二年前と変わらない屋敷。重厚な門扉。磨かれた石段。玄関脇の植え込み。季節の花は変わっているのに、そこに流れる空気だけは記憶のままだ。


 私は深く息を吸い、馬車を降りた。


 家令は、突然訪ねてきた私を見て、驚いたように目を見開く。


「リディア様」


「ご無沙汰しております」


 私は旅の外套を押さえながら、なるべく落ち着いて見えるように微笑んだ。


「本日、王都へ戻りました。急な訪問で申し訳ありません。エドガー様はいらっしゃいますか」


 家令は少しだけ眉を下げた。


「申し訳ございません。エドガー様は、つい今しがたお出かけになりました」


「そうでしたか」


 思わず、膝の上で重ねた指に力が入る。


 知らせもなく来たのだから、会えないことだってある。そう分かっているのに、馬車の中で考えていた言葉が、行き場をなくしてしまった。


「お戻りは、いつ頃でしょうか」


「本日は、少し遅くなられるかと。ベルフォールで商談だと伺っております」


「ベルフォール……」


 聞いたことのある名前だった。


 王都の中央から少し外れた場所にある、品のよい宿。食事にも、内々の相談にも使われる。帰り道から大きく外れる場所ではない。


 商談なら、邪魔をしてはいけない。それは分かっている。


 けれど、つい先程屋敷を出たばかりなら、まだ商談も始まっていないかもしれない。宿の近くを通るだけなら、迷惑にはならないはずだ。


 もし会えたら、顔を見て、帰ってきました、と言う。


 会えなければ、そのまま屋敷へ帰ればいい。


「私が参りましたことは、どうかお伝えにならないでくださいませ」


 そう言うと、家令は一瞬だけ不思議そうな顔をした。


「よろしいのですか」


「はい。少し、驚かせたかっただけなのです」


 自分で言って、頬が熱くなる。


 家令はすぐに頭を下げた。


「かしこまりました」


 私は礼を言って、屋敷を後にした。


 馬車へ戻る途中、指先をぎゅっと握る。


 会えなかった。


 でも、もしかしたら会えるかもしれない。


 そう思うだけで、胸がまた弾み出す。


     ◇


 ベルフォールは、王都の賑やかな通りから一本奥へ入った場所にあった。ちょうど屋敷へ戻る道から大きく外れない場所だ。


 派手ではない。けれど、扉の金具も、窓辺の花も、入口に立つ従業員の所作も、すべてがよく整えられている。身分のある者が訪れても不自然ではなく、かといって人目を集めるほど華やかでもない。


 なるほど、と思った。


 商談には向いている場所なのだろう。


 私は宿の少し手前で馬車を止めてもらった。


 早く会いたい。顔が見たい。エドガー様もきっと、そう思ってくださっている。


 そんな気持ちのまま宿の前まで来て、ようやく自分がずいぶん浮かれていたことに気づいた。


 何をしているのだろう。


 会いたい気持ちだけで、ここまで来てしまった。


 屋敷へ戻ればいい。父に挨拶をして、荷を解いて、身支度を整えて、先触れを出してから訪ね直せばいい。


 そうしよう。


 帰ろう。


 そう思った時だった。


 宿の前に、一台の馬車が止まった。


 そこから降りてきた男性を見て、息が止まる。


 エドガー様だった。


 遠くからでも分かる。


 背筋の伸び方。外套の揺れ方。人の視線を気にしない歩き方。


 二年ぶりに見るその姿に、胸が弾けるように跳ねた。


 エドガー様!


 思わず、一歩踏み出した。


 帰ってきました。


 そう声にしようとして、けれど次の瞬間、足が止まる。


 エドガー様の後ろから、帽子を深くかぶった女が降りてきた。


「え……」


 上げかけた手を、私はゆっくり下ろした。


 顔はよく見えない。つばの広い帽子で、目元が隠れている。けれど、その人はエドガー様のすぐ隣に並んだ。


 近い。


 そう思ってしまった自分を、すぐに叱る。


 商談の相手かもしれない。


 商談相手を迎えに行って、一緒に来ただけかもしれない。


 ベルフォールは、そういう用件にも使われる宿なのだろう。家令も商談だと言っていた。


 だから、何もおかしくない。


 何も。


 宿へ入る直前、女性の指先が、エドガー様の二の腕へそっと添えられた。呼び止めるような、合図をするような、ごく自然な仕草。


 エドガー様は振り返り、何かを言った。


 何を言ったのかは聞こえない。ただ、二人の服が触れ合いそうな距離にあることだけが、どうしても目に残る。


 見間違いかもしれない。


 距離のある通りから見ているのだから。


 二人はそのまま宿の中へ入っていった。


 私は通りの端に立ったまま、しばらく動けなかった。


 今見たものだけで、何かを決めつけるべきではない。分かっている。


 けれど、このまま帰ったら、きっとずっと考えてしまう。


 あの女性は誰だったのだろう。何を話していたのだろう。どうして、あんなふうに腕へ触れたのだろう。


 私は馬車へ視線を戻した。


 御者には、少し待っていてほしいと頼んである。


 少しだけ様子を見るだけ。


 ただの商談に違いない。そう分かれば、安心して帰れる。


 そう自分に言い聞かせて、私はベルフォールの扉へ向かった。


     ◇


 宿の中は、外から見た印象と同じく、落ち着いていた。


 磨かれた床。低く抑えられた話し声。花瓶に活けられた白い花。受付の向こうには、上階へ続く階段がある。


 私はあまり目立たないように、外套の襟元を少し上げた。


 入口の従業員に声をかけられ、私は一瞬迷った。


「先ほど入られた方に、少しだけ用があって参りました」


 嘘ではない。けれど、声は少し硬かったかもしれない。


 従業員は私の旅装を見たあと、表へ待たせている馬車にも視線を向けた。すぐに戻る客だと思ったのか、深くは尋ねなかった。


「二階のお部屋でございます」


 そう示されて、私は礼を言った。


 階段を二、三段上がったところで、一度足が止まる。


 上がったところで、どうするのだろう。


 部屋に入るわけにもいかない。声をかけるわけにもいかない。自分でも何がしたいのか分からない。


 登るのも怖い。けれど、登り始めた足を止める勇気もなかった。


 私はゆっくり階段を上がる。


 一段上がるたび、足元が少しずつ頼りなくなっていく気がした。


 二階の廊下は、思ったより静かだった。厚い絨毯が敷かれていて、靴音が吸い込まれる。壁には小さな燭台があり、昼間なのに廊下の奥は少し薄暗い。


 何をしているのだろう。


 やはり帰ろう。


 そう思った時、奥の方から笑い声が聞こえた。


 女の声だった。


 楽しそうな声。


 親しい人にだけ向けるような、気安い笑い方だった。


 足が止まる。


 最初は、その声が誰のものか分からなかった。


 あまりに楽しそうだったからだ。あまりに、遠慮がなかったからだ。


 けれど次の瞬間、背筋が冷えた。


 知っている。


 私は、その声を知っている。


「あら、今回のはずいぶん熱烈ね」


 サマンサ。


 頭の中で名前が落ちた。


 どうして。


 どうして、サマンサがここにいるの。


 エドガー様とサマンサが親しいことは知っている。私がいない二年の間、二人が顔を合わせることもあっただろう。けれど、宿の一室で二人きりになる理由が分からなかった。


 商談だと聞いた。


 商談なら、なぜサマンサがいるのだろう。


 私の知らないところで、二人は何の相談をしているのだろう。


 声を出しそうになって、慌てて口元を押さえた。


 扉は、廊下の先の一室だった。閉まっている。けれど、完全には閉まりきっていない。ほんのわずかに隙間がある。


「どのあたりだ」


 エドガー様の声がした。


 聞き慣れた声だった。


 手紙を読むたび、頭の中で思い出していた声。会いたくて、聞きたくて、何度も胸の奥で繰り返した声。


 その声が、今、扉の向こうにある。


 なのに私は、嬉しいと思えなかった。


 廊下に立ったまま、指先が冷えていく。


 私はゆっくりと扉へ近づいた。


 隙間から、室内が少しだけ見える。


 サマンサの白い指先。


 淡い色の紙。


 細い赤ペン。


 赤ペン?


 なぜ、赤ペンがあるのだろう。


 サマンサは机に肘をつき、楽しそうに紙をを覗き込んでいた。帽子は外されている。あの女は、やはりサマンサだった。


 エドガー様は、サマンサのすぐ隣に座っていた。


 手紙らしきものが、二人の前に広げられていた。


 喉の奥が詰まり、息を吸う音だけがやけに大きく聞こえる。


 サマンサが、細い赤ペンを手に取る。


 赤いペン先が、紙の上を走った。

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