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7/11

第7話 帰国の日

 ヴェルニカで迎える二度目の冬が終わり、春が近づいていた。


 帰国の日が近づくにつれ、私の部屋は少しずつ片づいていった。


 初めてこの部屋で目を覚ました朝、知らない天井を見上げて、胸が潰れそうになったことを覚えている。声を殺して泣いた夜もあった。辞書を開いたまま机に突っ伏して眠ってしまった朝もあった。エドガー様の手紙を胸に抱いて、ようやく息ができた夜もあった。


 その部屋の棚から、私は一冊ずつ本を下ろしていく。


 書き込みだらけの教本。角の擦れた辞書。ロラン講師から返された添削済みの課題。アルノに見せる前に何度も書き直した確認文の控え。コルネリアの前で、俯かずに辞書を開いた日の紙。


 どれも、来たばかりの頃よりずっと使い込まれていた。けれど、その使い込まれ方が少し誇らしかった。


 私はここで、本当に二年を過ごしたのだ。


 泣いた。間違えた。耐えた。


 聞いた。書いた。読み直した。また間違えた。それでも、もう一度机に向かった。


 その時間が、ちゃんと物の形をして残っている。


     ◇


 帰国が近づいた頃、オルディス商会での仕事も最後になった。


 その日、アルノはいつものように書簡を机へ置いた。


「最後の確認をお願いします」


「はい」


 私は書簡を受け取り、一文ずつ追った。誰が何を引き受けているのか。どこまで断定しているのか。責任の逃げ道は残っていないか。


 以前なら緊張で見落としていたかもしれない言い回しも、今は順番に確かめられる。


「こちらは、問題ないと思います」


 私がそう言うと、アルノは頷いた。


「私も同じ判断です」


 その一言が嬉しかった。


 仕事の机の同じ側に立てた気がした。


 私が書簡を返すと、アルノはそれを受け取ってから、小さな包みを差し出した。


「送別の品です。商会から」


「私に、ですか」


「はい。大きなものではありませんが」


 包みの中には、薄い革表紙の小さな帳面が入っていた。


「使ってください」


 短い言葉だった。けれど、それだけでアルノらしかった。


 私は表紙を撫でた。新しい革の匂いがした。


 ここで終わるための品ではなく、これから先へ持っていくための品なのだと思った。


「ありがとうございます。大切に使います」


「大切にしすぎて、白紙のままにしないでください」


 思わず顔を上げると、アルノはほんの少しだけ微笑んでいた。


「書いて、間違えて、直すためのものです」


 その言い方があまりにアルノらしくて、私は笑ってしまった。


「はい。ちゃんと使います」


 アルノは、受け取ったばかりの書簡に視線を落とした。


「この二年、リディア嬢にはずいぶん助けていただきました」


「私が、ですか」


「はい。ベルティアの書簡は丁寧で、礼儀正しく、表向きはよく整えられている。ですが、その分、本音と建前も多い」


 アルノは書簡の一文を指で示した。


「相手が何を言い切って、何を曖昧に残しているのか。こちらへ不利になる一文が、どこに隠れているのか。リディア嬢の確認で、こちらが助かったことは何度もあります。今日の書簡もそうです」


 胸の奥が、ふっと熱くなった。


 自分の力が、誰かの役に立っていた。


「ありがとうございます」


「立派な戦力でした」


 その言葉が、胸の中にゆっくり広がった。


「ですが、ベルティアへ戻られるので、少し心配しています」


「心配、ですか」


「はい。リディア嬢は人が良いので」


 アルノは短く頷いた。


「今後は、読む相手が書面だけとは限りません」


「……人、ですか」


「ええ。先日、取引先の方が商会へいらしたでしょう。納期について話した時のことです」


「急ぎの手配でお困りだった方ですね」


「困ってはいたのでしょう。半分は」


「半分……ですか」


「残り半分は、こちらに引き受けさせるためです。はっきり約束はしない。けれど、こちらが動けば、あとでこちらの判断だったと言える」


 言葉が出なかった。そんなふうには、考えもしなかった。


「書面なら、気づけたはずです」


 その一言が胸に残る。


 書類なら読める。けれど、人の顔は読めなかった。


「人を疑うのは、苦手です」


「でしょうね」


 即答だった。思わず苦笑する。


「疑え、という話ではありません。ただ、この港町のやり取りは、まだ分かりやすい方です。ベルティアの社交の場は、もっと言葉が柔らかいはずです」


 アルノは淡々と言った。


「しかも母国語でしょう。聞き慣れた言葉は、かえって疑いにくい。優しい声で囁かれれば、なおさらです」


 私は黙っていた。


「親切な言葉をかける。心配するふりをする。相手が欲しい言葉を与えて、懐へ入る。そういう人もいます」


 きっと、いるのだろう。


 そういう人は。


「そのお顔だと、まだそういう方にお会いしていないようですね」


 アルノはそう言って、少しだけ息をついた。


「ですが、信じたい相手ほど、確かめてください」


「信じたい相手ほど……」


「信じることと、確かめないことは違います」


 すぐには飲み込めなかった。


 信じるなら、確かめる。確かめないことを、信じることにしない。


 商いの心得として聞けば分かる。けれど、人のこととして聞くと、少し難しかった。


「今すぐ分からなくても構いません。頭の隅に置いておいてください」


「……覚えておきます」


「できれば、帳面にも」


「白紙にしないためですね」


「はい」


 アルノは少しだけ笑って言った。


 私もつられて口元を緩め、帳面を抱え直した。革の表紙は薄いのに、手の中で不思議と重く感じた。


「それにしても、初めてここへ来られた日を思えば、ずいぶん変わられました」


 思わず頬が熱くなる。


「あの日のことは、忘れていただけると助かります」


「それは難しいですね」


「そんなにはっきり」


「褒めただけで泣かれましたので」


「それは……」


「忘れろという方が無理です」


 真顔で言われて、私は笑ってしまった。


「それ以来、未使用のハンカチを、すぐ取り出せる場所へ入れるようになりました」


「本当ですか」


「はい。また泣かれた時、すぐに渡せるように」


 そういう言い方をするところが、アルノらしい。


 からかっているようで、ちゃんと優しい。


「もう泣きません」


「それは頼もしい」


 アルノは満足そうに頷いた。


 初めてここへ来た日。あの時は、自分でも役に立てたのだと思えたことが嬉しくて、涙が出た。


 今は、あの頃より少しだけ強くなれた気がする。


「正直に申し上げると、最初は三日で来なくなるかもしれないと思っていました」


「そんなに頼りなく見えましたか」


「はい」


「そこも、はっきりおっしゃるのですね」


「嘘をついても仕方ありませんから」


 私は苦笑した。


「ですが、違いました」


 アルノは静かに続けた。


「迷っても、悔しそうでも、次には必ず書類の前に座っていました。あなたはとても努力家です。見た目よりずっと芯も強い」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと熱くなった。


 この二年の私を、ちゃんと見てくれていた人の言葉だった。


「二年間、お疲れさまでした。貴方に来ていただいて、助かりました」


 私は自然と笑っていた。


「こちらこそ、お世話になりました」


 深く頭を下げる。


 部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。


 書簡の控えが積まれた机。インクの匂い。窓の外から聞こえる、港のざわめき。


 初めてここへ来た時は、すべてが不安だった。今は、少しだけ名残惜しかった。


「アルノ様。本当にお世話になりました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


「またどこかでお会いできれば嬉しいです」


 そう言うと、アルノはわずかに目を見開いた。すぐには返事がなかった。


 それから、少しだけまぶしそうに表情をやわらげる。


「ええ。また、どこかで」


 その短い返事を聞いて、私は商会を後にした。


     ◇


 ロラン講師にも、最後の挨拶をした。


「よく最後まで投げ出さずに来ましたね」


 そう言われた時、私は思わず背筋を伸ばした。


「先生のおかげです」


「いいえ。あなた自身がやったのです」


 ロラン講師は、いつものように静かに言った。


「分からないところを分からないと言えるのは、強さです。ベルティアへ戻っても、それを忘れないでください」


「はい」


 私は深く頭を下げた。


「先生に何度も直していただいた課題も、持って帰ります」


「それが一番役に立つでしょう」


 ロラン講師は淡々と頷いた。


「できなかった跡は、できるようになった跡でもあります」


 ここへ来たばかりの頃、何度も赤を入れられた課題の山を思い出す。その赤は、私を傷つけるものではなかった。


 直す場所を教えてくれる印だった。


     ◇


 コルネリアにも、最後に挨拶をした。


「お帰りになるのね。少し寂しくなりますわ」


 いつものように、綺麗な微笑みだった。


「リディア様は、本当にしぶとくなられましたもの」


「ありがとうございます」


 私は静かに頭を下げた。


「あの時、皆さまの前で同じ言葉をもう一度言わせていただいたおかげです」


 コルネリアの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。けれど次の瞬間には、もういつもの優雅な微笑みに戻っていた。


「……まあ。そんな昔のことを、まだ覚えていらしたの?」


「ええ」


 私は微笑んだ。


「商いでは、一度間違えた言葉ほど忘れてはいけないと教わりましたので」


 コルネリアの目が、少しだけ細くなる。私はもう一度、丁寧に頭を下げた。


「では、ごきげんよう」


 彼女が何かを言おうと口を開く前に、私はその場を離れた。


     ◇


 帰国の日が近づく頃、私はエドガー様へ最後の手紙を書くことにした。


 机の上に便箋を広げるだけで、胸がふわりと浮いた。


 もうすぐ帰れる。


 その言葉を、何度も心の中で繰り返す。


 エドガー様に会える。サマンサに会える。父に会える。王都の空気を吸える。紅茶店へ行ける。庭園の東屋で、またエドガー様と話せるかもしれない。そう思うだけで、ペンを持つ手が少し震えた。


 親愛なるエドガー様。


 三月の下旬には、王都へ戻れる予定です。


 この手紙が、最後になるかもしれませんね。


 次はもう、顔を見て言えるでしょうから。


 そこまで書いて、私は少しだけペンを止めた。


 顔を見て言える。


 その言葉だけで、胸がいっぱいになった。


 手紙に救われた二年間だった。


 嬉しいことがあった日も、悔しくて泣いた日も、私は机に向かってペンを取った。声を聞きたいと思った朝がある。顔を見て話したいと思った夜がある。笑われた日のあと、君なら大丈夫だという文字を何度もなぞったこともある。


 その全部が、便箋の上にあふれてしまいそうだった。


 私は息を整えて、続きを書いた。


 この二年で、私はあなたを想う気持ちがどれほど深くなっていたかを、思い知りました。


 海より深い、なんて書いたら笑われてしまうかもしれませんね。


 それでも、本当なのです。


 遠く離れていたからこそ、あなたの言葉がどれほど私を支えてくれていたのか、何度も思い知らされました。


 会えない日々は寂しかった。けれど、あなたからの手紙があったから、私は机に向かえました。


 帰ったら、今度こそ少しでもあなたの役に立てる私でいたいのです。


 書き終えてから、私はしばらくその一文を見つめた。


 少し熱を持ったような文面に見えるかもしれない。それでも、消せなかった。


 今の私には、それが本当だったからだ。


 ありがとう、と。


 あなたの手紙があったから、私はここまで来られたのだと。


 あなたの隣に立てる私になりたくて、二年間、机に向かい続けたのだと。


 それを、今度は手紙ではなく、声で伝えたかった。


     ◇


 サマンサへの手紙も書いた。


 親愛なるサマンサ。


 もうすぐ帰れます。


 あなたに話したいことが、山ほどあります。


 こちらの料理のこと。最初は食べられなかった香辛料のこと。商会で初めて手当をいただいた日のこと。髪飾りを選ぶのに、ずいぶん迷ったこと。


 あなたならきっと笑うと思います。


 帰ったら、約束どおり二年分のお茶をしましょう。朝から夕方まで、なんて言ったらお店の方に叱られてしまうかもしれないけれど、それくらい話したいことがあるのです。


 最後に、少しだけ迷ってから書き足した。


 あなたが、誰より先に褒めてくれると言ってくれたことを、私は何度も思い出しました。


 帰ったら、約束どおり、ちゃんと褒めてくださいね。大きな花丸で。


 よく頑張りました、って。


 書き終えたあと、私は笑ってしまった。子どものようだと思った。


 けれど、それも本当だった。


 サマンサに褒めてほしかった。


 商会のことも、授業のことも、泣きながら覚えた言葉のことも、何から話そうか迷うほどだった。


 二通の手紙に封をして、私は机の上に置いた。


 翌朝、一番に出そう。そう決めて、私はその夜、久しぶりに早く眠った。


     ◇


 手紙を出してから、数日後のことだった。


 商業院から、帰国許可に関する書面が届いた。


 先に提出していた修了確認の申請が、思っていたより早く通ったらしい。帰国に必要な書類も、予定より早く受け取れることになった。


 さらに、数日後に出る王都行きの船に、ひとり分の空きが出たと知らされた。もともと商業院が帰国者用に押さえていた便で、急に日程を変えた学生がいたらしい。希望するなら、その席に入れるという。


 書面を読みながら、私は一度、意味を取り違えていないか確認した。読み直す。もう一度、日付を見る。


 間違いない。


 私は、予定より十日ほど早く王都へ戻れる。


 胸が弾んだ。


 もうすぐ帰れる。


 エドガー様とサマンサへ出した手紙は、普通の船便に乗せたものだ。途中の港で荷や手紙を積み替えるため、王都へ届くまでにはどうしても時間がかかる。けれど、私が乗れることになった船は、王都へ向かう早船だった。


 もしかしたら、手紙より先に、私の方が王都へ着けるかもしれない。


 そう気づいた瞬間、頬が勝手に緩んだ。


 驚かせたい。


 エドガー様は、どんな顔をするだろう。もう帰ってきたのか、と目を見開いて、それから嬉しそうに笑ってくれるだろうか。


 会いたかった、と。


 そう言ってくれたら、きっと私はそれだけで胸がいっぱいになる。


 屋敷に戻る前に、少しだけエドガー様のところへ顔を出してみよう。帰ってきました、と。そう言えたら、どんなに嬉しいだろう。


 サマンサもきっと、大げさに驚いてくれる。どうして教えてくれなかったの、と怒ったふりをして、それから私の手を取って笑うだろう。出迎えの準備をし損ねたわ、なんて言うかもしれない。


 父には、帰ってから直接伝えよう。


 今から知らせを出しても、きっと私の方が先に着いてしまう。


 父ならきっと、短く眉を上げるだけだ。


 早かったな。


 そう言って、それから何も言わずに、温かい食事を用意してくれる。そう思うと、父にも早く会いたくなった。


 私は書面を胸へ抱えた。


 この二年で得たものを、全部持って帰れる気がした。書き込みだらけの辞書。何度も読み返した手紙。ロラン講師の言葉。アルノからもらった帳面。コルネリアの前で、俯かずに辞書を開けたこと。


 全部、私の中にある。


 私は本当に、もうすぐ帰るのだ。


 王都へ。


 待ってくれている人たちのところへ。


 私は、もう一通知らせを送ることをしなかった。


 帰国の日まで、私は何度も荷物を確かめた。辞書。手紙の束。課題の控え。父への土産。王都へ持ち帰るために残しておいた、自分用の青い押し花。アルノからもらった小さな帳面。


 何度見ても、足りないものがあるような気がして、また開ける。


 それでも、心は軽かった。


 こんなに帰る日を待ち遠しく思ったことはなかった。


 もうすぐ会える。


 もうすぐ、ありがとうと言える。


 その時の私は、本当にそう思っていた。

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