第7話 帰国の日
ヴェルニカで迎える二度目の冬が終わり、春が近づいていた。
帰国の日が近づくにつれ、私の部屋は少しずつ片づいていった。
初めてこの部屋で目を覚ました朝、知らない天井を見上げて、胸が潰れそうになったことを覚えている。声を殺して泣いた夜もあった。辞書を開いたまま机に突っ伏して眠ってしまった朝もあった。エドガー様の手紙を胸に抱いて、ようやく息ができた夜もあった。
その部屋の棚から、私は一冊ずつ本を下ろしていく。
書き込みだらけの教本。角の擦れた辞書。ロラン講師から返された添削済みの課題。アルノに見せる前に何度も書き直した確認文の控え。コルネリアの前で、俯かずに辞書を開いた日の紙。
どれも、来たばかりの頃よりずっと使い込まれていた。けれど、その使い込まれ方が少し誇らしかった。
私はここで、本当に二年を過ごしたのだ。
泣いた。間違えた。耐えた。
聞いた。書いた。読み直した。また間違えた。それでも、もう一度机に向かった。
その時間が、ちゃんと物の形をして残っている。
◇
帰国が近づいた頃、オルディス商会での仕事も最後になった。
その日、アルノはいつものように書簡を机へ置いた。
「最後の確認をお願いします」
「はい」
私は書簡を受け取り、一文ずつ追った。誰が何を引き受けているのか。どこまで断定しているのか。責任の逃げ道は残っていないか。
以前なら緊張で見落としていたかもしれない言い回しも、今は順番に確かめられる。
「こちらは、問題ないと思います」
私がそう言うと、アルノは頷いた。
「私も同じ判断です」
その一言が嬉しかった。
仕事の机の同じ側に立てた気がした。
私が書簡を返すと、アルノはそれを受け取ってから、小さな包みを差し出した。
「送別の品です。商会から」
「私に、ですか」
「はい。大きなものではありませんが」
包みの中には、薄い革表紙の小さな帳面が入っていた。
「使ってください」
短い言葉だった。けれど、それだけでアルノらしかった。
私は表紙を撫でた。新しい革の匂いがした。
ここで終わるための品ではなく、これから先へ持っていくための品なのだと思った。
「ありがとうございます。大切に使います」
「大切にしすぎて、白紙のままにしないでください」
思わず顔を上げると、アルノはほんの少しだけ微笑んでいた。
「書いて、間違えて、直すためのものです」
その言い方があまりにアルノらしくて、私は笑ってしまった。
「はい。ちゃんと使います」
アルノは、受け取ったばかりの書簡に視線を落とした。
「この二年、リディア嬢にはずいぶん助けていただきました」
「私が、ですか」
「はい。ベルティアの書簡は丁寧で、礼儀正しく、表向きはよく整えられている。ですが、その分、本音と建前も多い」
アルノは書簡の一文を指で示した。
「相手が何を言い切って、何を曖昧に残しているのか。こちらへ不利になる一文が、どこに隠れているのか。リディア嬢の確認で、こちらが助かったことは何度もあります。今日の書簡もそうです」
胸の奥が、ふっと熱くなった。
自分の力が、誰かの役に立っていた。
「ありがとうございます」
「立派な戦力でした」
その言葉が、胸の中にゆっくり広がった。
「ですが、ベルティアへ戻られるので、少し心配しています」
「心配、ですか」
「はい。リディア嬢は人が良いので」
アルノは短く頷いた。
「今後は、読む相手が書面だけとは限りません」
「……人、ですか」
「ええ。先日、取引先の方が商会へいらしたでしょう。納期について話した時のことです」
「急ぎの手配でお困りだった方ですね」
「困ってはいたのでしょう。半分は」
「半分……ですか」
「残り半分は、こちらに引き受けさせるためです。はっきり約束はしない。けれど、こちらが動けば、あとでこちらの判断だったと言える」
言葉が出なかった。そんなふうには、考えもしなかった。
「書面なら、気づけたはずです」
その一言が胸に残る。
書類なら読める。けれど、人の顔は読めなかった。
「人を疑うのは、苦手です」
「でしょうね」
即答だった。思わず苦笑する。
「疑え、という話ではありません。ただ、この港町のやり取りは、まだ分かりやすい方です。ベルティアの社交の場は、もっと言葉が柔らかいはずです」
アルノは淡々と言った。
「しかも母国語でしょう。聞き慣れた言葉は、かえって疑いにくい。優しい声で囁かれれば、なおさらです」
私は黙っていた。
「親切な言葉をかける。心配するふりをする。相手が欲しい言葉を与えて、懐へ入る。そういう人もいます」
きっと、いるのだろう。
そういう人は。
「そのお顔だと、まだそういう方にお会いしていないようですね」
アルノはそう言って、少しだけ息をついた。
「ですが、信じたい相手ほど、確かめてください」
「信じたい相手ほど……」
「信じることと、確かめないことは違います」
すぐには飲み込めなかった。
信じるなら、確かめる。確かめないことを、信じることにしない。
商いの心得として聞けば分かる。けれど、人のこととして聞くと、少し難しかった。
「今すぐ分からなくても構いません。頭の隅に置いておいてください」
「……覚えておきます」
「できれば、帳面にも」
「白紙にしないためですね」
「はい」
アルノは少しだけ笑って言った。
私もつられて口元を緩め、帳面を抱え直した。革の表紙は薄いのに、手の中で不思議と重く感じた。
「それにしても、初めてここへ来られた日を思えば、ずいぶん変わられました」
思わず頬が熱くなる。
「あの日のことは、忘れていただけると助かります」
「それは難しいですね」
「そんなにはっきり」
「褒めただけで泣かれましたので」
「それは……」
「忘れろという方が無理です」
真顔で言われて、私は笑ってしまった。
「それ以来、未使用のハンカチを、すぐ取り出せる場所へ入れるようになりました」
「本当ですか」
「はい。また泣かれた時、すぐに渡せるように」
そういう言い方をするところが、アルノらしい。
からかっているようで、ちゃんと優しい。
「もう泣きません」
「それは頼もしい」
アルノは満足そうに頷いた。
初めてここへ来た日。あの時は、自分でも役に立てたのだと思えたことが嬉しくて、涙が出た。
今は、あの頃より少しだけ強くなれた気がする。
「正直に申し上げると、最初は三日で来なくなるかもしれないと思っていました」
「そんなに頼りなく見えましたか」
「はい」
「そこも、はっきりおっしゃるのですね」
「嘘をついても仕方ありませんから」
私は苦笑した。
「ですが、違いました」
アルノは静かに続けた。
「迷っても、悔しそうでも、次には必ず書類の前に座っていました。あなたはとても努力家です。見た目よりずっと芯も強い」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと熱くなった。
この二年の私を、ちゃんと見てくれていた人の言葉だった。
「二年間、お疲れさまでした。貴方に来ていただいて、助かりました」
私は自然と笑っていた。
「こちらこそ、お世話になりました」
深く頭を下げる。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
書簡の控えが積まれた机。インクの匂い。窓の外から聞こえる、港のざわめき。
初めてここへ来た時は、すべてが不安だった。今は、少しだけ名残惜しかった。
「アルノ様。本当にお世話になりました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「またどこかでお会いできれば嬉しいです」
そう言うと、アルノはわずかに目を見開いた。すぐには返事がなかった。
それから、少しだけまぶしそうに表情をやわらげる。
「ええ。また、どこかで」
その短い返事を聞いて、私は商会を後にした。
◇
ロラン講師にも、最後の挨拶をした。
「よく最後まで投げ出さずに来ましたね」
そう言われた時、私は思わず背筋を伸ばした。
「先生のおかげです」
「いいえ。あなた自身がやったのです」
ロラン講師は、いつものように静かに言った。
「分からないところを分からないと言えるのは、強さです。ベルティアへ戻っても、それを忘れないでください」
「はい」
私は深く頭を下げた。
「先生に何度も直していただいた課題も、持って帰ります」
「それが一番役に立つでしょう」
ロラン講師は淡々と頷いた。
「できなかった跡は、できるようになった跡でもあります」
ここへ来たばかりの頃、何度も赤を入れられた課題の山を思い出す。その赤は、私を傷つけるものではなかった。
直す場所を教えてくれる印だった。
◇
コルネリアにも、最後に挨拶をした。
「お帰りになるのね。少し寂しくなりますわ」
いつものように、綺麗な微笑みだった。
「リディア様は、本当にしぶとくなられましたもの」
「ありがとうございます」
私は静かに頭を下げた。
「あの時、皆さまの前で同じ言葉をもう一度言わせていただいたおかげです」
コルネリアの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。けれど次の瞬間には、もういつもの優雅な微笑みに戻っていた。
「……まあ。そんな昔のことを、まだ覚えていらしたの?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「商いでは、一度間違えた言葉ほど忘れてはいけないと教わりましたので」
コルネリアの目が、少しだけ細くなる。私はもう一度、丁寧に頭を下げた。
「では、ごきげんよう」
彼女が何かを言おうと口を開く前に、私はその場を離れた。
◇
帰国の日が近づく頃、私はエドガー様へ最後の手紙を書くことにした。
机の上に便箋を広げるだけで、胸がふわりと浮いた。
もうすぐ帰れる。
その言葉を、何度も心の中で繰り返す。
エドガー様に会える。サマンサに会える。父に会える。王都の空気を吸える。紅茶店へ行ける。庭園の東屋で、またエドガー様と話せるかもしれない。そう思うだけで、ペンを持つ手が少し震えた。
親愛なるエドガー様。
三月の下旬には、王都へ戻れる予定です。
この手紙が、最後になるかもしれませんね。
次はもう、顔を見て言えるでしょうから。
そこまで書いて、私は少しだけペンを止めた。
顔を見て言える。
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
手紙に救われた二年間だった。
嬉しいことがあった日も、悔しくて泣いた日も、私は机に向かってペンを取った。声を聞きたいと思った朝がある。顔を見て話したいと思った夜がある。笑われた日のあと、君なら大丈夫だという文字を何度もなぞったこともある。
その全部が、便箋の上にあふれてしまいそうだった。
私は息を整えて、続きを書いた。
この二年で、私はあなたを想う気持ちがどれほど深くなっていたかを、思い知りました。
海より深い、なんて書いたら笑われてしまうかもしれませんね。
それでも、本当なのです。
遠く離れていたからこそ、あなたの言葉がどれほど私を支えてくれていたのか、何度も思い知らされました。
会えない日々は寂しかった。けれど、あなたからの手紙があったから、私は机に向かえました。
帰ったら、今度こそ少しでもあなたの役に立てる私でいたいのです。
書き終えてから、私はしばらくその一文を見つめた。
少し熱を持ったような文面に見えるかもしれない。それでも、消せなかった。
今の私には、それが本当だったからだ。
ありがとう、と。
あなたの手紙があったから、私はここまで来られたのだと。
あなたの隣に立てる私になりたくて、二年間、机に向かい続けたのだと。
それを、今度は手紙ではなく、声で伝えたかった。
◇
サマンサへの手紙も書いた。
親愛なるサマンサ。
もうすぐ帰れます。
あなたに話したいことが、山ほどあります。
こちらの料理のこと。最初は食べられなかった香辛料のこと。商会で初めて手当をいただいた日のこと。髪飾りを選ぶのに、ずいぶん迷ったこと。
あなたならきっと笑うと思います。
帰ったら、約束どおり二年分のお茶をしましょう。朝から夕方まで、なんて言ったらお店の方に叱られてしまうかもしれないけれど、それくらい話したいことがあるのです。
最後に、少しだけ迷ってから書き足した。
あなたが、誰より先に褒めてくれると言ってくれたことを、私は何度も思い出しました。
帰ったら、約束どおり、ちゃんと褒めてくださいね。大きな花丸で。
よく頑張りました、って。
書き終えたあと、私は笑ってしまった。子どものようだと思った。
けれど、それも本当だった。
サマンサに褒めてほしかった。
商会のことも、授業のことも、泣きながら覚えた言葉のことも、何から話そうか迷うほどだった。
二通の手紙に封をして、私は机の上に置いた。
翌朝、一番に出そう。そう決めて、私はその夜、久しぶりに早く眠った。
◇
手紙を出してから、数日後のことだった。
商業院から、帰国許可に関する書面が届いた。
先に提出していた修了確認の申請が、思っていたより早く通ったらしい。帰国に必要な書類も、予定より早く受け取れることになった。
さらに、数日後に出る王都行きの船に、ひとり分の空きが出たと知らされた。もともと商業院が帰国者用に押さえていた便で、急に日程を変えた学生がいたらしい。希望するなら、その席に入れるという。
書面を読みながら、私は一度、意味を取り違えていないか確認した。読み直す。もう一度、日付を見る。
間違いない。
私は、予定より十日ほど早く王都へ戻れる。
胸が弾んだ。
もうすぐ帰れる。
エドガー様とサマンサへ出した手紙は、普通の船便に乗せたものだ。途中の港で荷や手紙を積み替えるため、王都へ届くまでにはどうしても時間がかかる。けれど、私が乗れることになった船は、王都へ向かう早船だった。
もしかしたら、手紙より先に、私の方が王都へ着けるかもしれない。
そう気づいた瞬間、頬が勝手に緩んだ。
驚かせたい。
エドガー様は、どんな顔をするだろう。もう帰ってきたのか、と目を見開いて、それから嬉しそうに笑ってくれるだろうか。
会いたかった、と。
そう言ってくれたら、きっと私はそれだけで胸がいっぱいになる。
屋敷に戻る前に、少しだけエドガー様のところへ顔を出してみよう。帰ってきました、と。そう言えたら、どんなに嬉しいだろう。
サマンサもきっと、大げさに驚いてくれる。どうして教えてくれなかったの、と怒ったふりをして、それから私の手を取って笑うだろう。出迎えの準備をし損ねたわ、なんて言うかもしれない。
父には、帰ってから直接伝えよう。
今から知らせを出しても、きっと私の方が先に着いてしまう。
父ならきっと、短く眉を上げるだけだ。
早かったな。
そう言って、それから何も言わずに、温かい食事を用意してくれる。そう思うと、父にも早く会いたくなった。
私は書面を胸へ抱えた。
この二年で得たものを、全部持って帰れる気がした。書き込みだらけの辞書。何度も読み返した手紙。ロラン講師の言葉。アルノからもらった帳面。コルネリアの前で、俯かずに辞書を開けたこと。
全部、私の中にある。
私は本当に、もうすぐ帰るのだ。
王都へ。
待ってくれている人たちのところへ。
私は、もう一通知らせを送ることをしなかった。
帰国の日まで、私は何度も荷物を確かめた。辞書。手紙の束。課題の控え。父への土産。王都へ持ち帰るために残しておいた、自分用の青い押し花。アルノからもらった小さな帳面。
何度見ても、足りないものがあるような気がして、また開ける。
それでも、心は軽かった。
こんなに帰る日を待ち遠しく思ったことはなかった。
もうすぐ会える。
もうすぐ、ありがとうと言える。
その時の私は、本当にそう思っていた。




