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第6話 初めての手当と贈り物

 紹介先のオルディス商会は、中堅の商会だった。


 古くから名を張る大商会ではない。けれど、契約書の扱いが丁寧で、近年はベルティア王国との取引を伸ばしていると、ロラン講師から聞いていた。


 そこで私を最初に案内してくれたのは、アルノという若い商会員だった。


 背は高いが、威圧感のある人ではなかった。声も歩き方も落ち着いていて、こちらの緊張にすぐ気づいたらしい。


「ハルストン嬢ですね。ロラン先生から伺っています」


「本日は、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ。最初は簡単な確認だけです。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてください」


 その言葉に、私は顔を上げた。


 分からないことを、分からないままにしない。


 父にも、ロラン講師にも言われたことだった。そして何より、発音を間違えて笑われたあの日から、私自身がそうしなければいけないと思っていた。


 通された部屋には、書簡の控えや取引記録が積まれていた。紙とインクの匂いがする。窓の外からは、遠く港のざわめきが聞こえていた。


 最初に任されたのは、ベルティア王国から届いた書簡の確認だった。


 翻訳そのものではない。オルディス商会には、ベルティア語を読める翻訳係がいる。私の役目は、その人たちが訳す前に、ベルティア側の書き方に誤解を招くところがないかを見ることだった。


 王都の商会がよく使う遠回しな表現。丁寧に見えて、実は断りの余地を残す言葉。一見すると承諾に見えるのに、責任を負わないための書き方。


 そういうものを、母国の者として確認する。小さな補助だった。


 アルノは一通の書簡を机に広げた。


「こちらはベルティア側から届いた返書です」


 私は頷き、紙へ目を落とした。


 そこに並んでいるのは、見慣れた母国の言葉だった。けれど、商いの手紙は、ただ読めればいいものではない。書かれている言葉と、実際に引き受けている責任が、必ずしも同じとは限らない。


 私は一文の上で指を止めた。


「……こちらですが」


「はい」


「前向きな返答に見えます。けれど、ベルティアでは、必ずしも承諾とは限りません」


 アルノが書簡へ視線を落とした。


「承諾ではない?」


「はい。あとで条件を変える余地を残す時にも使います。はっきり断ってはいませんが、確かに引き受けたとも言っていません」


 アルノは机の端に置かれていた翻訳係の下書きを引き寄せた。そこには、承諾に近い意味の訳語が添えられている。


「こちらでは、そのまま了承と受け取ってしまいそうです」


「このまま進めると、後になって認識が食い違うかもしれません」


 アルノは黙って書簡を読み返した。それから、小さく頷く。


「確かに。これは気づきませんでした」


 私は思わず顔を上げた。


「この含みは、こちらの人間だけでは拾いにくい。ハルストン嬢に見ていただいてよかった」


 その言葉に、胸の奥がぎゅっとなった。


 私が知っているのは、ただの言葉だけではなかった。王都で育ち、父のそばで商談記録を見てきたから分かるものが、少しはあったのだ。


「助かりました」


 その一言で、喉の奥がつまった。


 ここへ来てから、私はずっと足りない側の人間だった。聞き取れない。言い返せない。うまく話せない。そんな自分を、毎日のように思い知らされてきた。


 それなのに今、私の知っていることが、誰かに必要とされた。


 そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。


「……お役に立てて、よかったです」


 声が掠れた。


 アルノが、ぎょっとしたように目を見開く。


「ハルストン嬢?」


「すみません。泣くつもりでは」


「いえ、その、あの。もし、お気に障るようなことを申し上げていたら、すみません」


 どうしたらいいのか分からない、という顔でそう言われて、私は慌てて首を振った。


「違います。嬉しかっただけです」


 アルノは見るからに困っていた。ハンカチを渡そうとしたのか、一度、胸元へ手を入れかける。けれど、取り出しかけたハンカチが少し皺になっているのを見て、ぴたりと止まった。


 おそらく、自分が使ったものだと気づいたのだろう。


 今度は鞄へ手を伸ばしかける。


「未使用のものが、たしか――」


「大丈夫です。持っております」


 私が急いで自分のハンカチを出すと、アルノの手が行き場をなくしたように止まった。


「……すみません。スマートにできませんでした」


 その真面目な言い方が少しおかしくて、目元を押さえながら、私は小さく笑ってしまった。


「いいえ。お気遣い、ありがとうございます」


 アルノはまだ困った顔をしていた。けれど、私が落ち着くまで、何も言わずに待ってくれた。


 そのことが、思っていたよりずっとありがたかった。


 私は目元を押さえ、何度か息を整えた。それからもう一度、書簡に向き直る。


「すみません。続けられます」


「無理はなさらず」


「大丈夫です」


 そう言うと、アルノは余計なことを聞かなかった。ただ、私が読みやすいように、書簡の向きを少し直してくれた。


 その日の確認を終えると、アルノは小さな革袋を差し出した。


「本日の手当です」


 私は驚いて、それを受け取れなかった。


「いえ、いただけません」


「ですが、働いていただいたのですから」


「私はまだ、勉強させていただいているだけです。もし、いつか本当に役に立てると思っていただけたら、その時にいただけませんか」


 アルノは返事に迷うように視線を伏せた。それから、困ったように笑った。


「では、しばらくは見習い扱いにしましょう。ただし、こちらが助かると判断したら、その時は遠慮なく受け取ってください」


「はい」


 私は深く頷いた。


     ◇


 その小さな革袋を受け取ったのは、それからしばらく経ってからだった。


「今日は受け取ってください」


 アルノは、いつもの穏やかな顔でそう言った。


 問題は、納期の書き方だった。


 ベルティア側から届いた書簡は丁寧で、取引にも前向きに見えた。けれど、期日の部分だけが妙にぼかされている。


「この書き方ですと、ベルティア側は納期を確約していません」


 私がそう言うと、アルノの表情が変わった。


「確約ではない?」


「はい。相手を怒らせないために前向きに見せていますが、遅れた時には努力はしたと言える形です」


 このままオルディス商会側が承諾と受け取れば、船便や倉庫の手配まで進めてしまう。あとで「約束したつもりはない」と言われれば、損をするのはこちらだった。


 アルノは翻訳係を呼び、訳文の言い方を変えるよう伝えた。予定表に伸ばしかけていた手も、そこで止まる。


「止められてよかったです」


 書簡を閉じながら、彼はそう言った。


「これは見習いの確認ではなく、仕事でした。受け取ってください」


 その一言で、今度こそ受け取っていいのだと思えた。


 私は、そっと革袋を受け取った。掌に乗せると軽いのに、胸の奥ではずしりと重かった。初めて、自分の力で受け取ったお金だった。


 商会の石段を下りながら、私は留学したばかりの頃のことを思い出していた。


 言葉が聞き取れず、食堂へ入るだけで胃が痛み、発音を間違えて笑われた夜には、枕に顔を押しつけて泣いた。もう帰りたいと、何度も思った。机へ向かうたび、今日も駄目かもしれないと考えていた。


 それでも、毎晩、エドガー様からの手紙を開いた。


 君が積み重ねたものは、必ず君の力になる。


 滲んだ文字を、何度も読み返した。


 大丈夫じゃない。少しも大丈夫じゃない。


 それでも、エドガー様がそう信じてくれるなら、その私に近づきたいと思った。


 そう思いながら、あの言葉を胸に抱いて眠った。あの手紙がなければ、私はきっと、とっくに心が折れていた。


 私はこれまで、お金に困ったことがなかった。欲しい本も、必要な衣服も、学びにかかる費用も、父がすべて揃えてくれた。それは恵まれたことだった。


 けれど、このお金は違う。


 ベルティア語を読んだだけではない。ヴェルニカ語で、きちんと説明できた。こちらでは見落とされそうだった書簡のずれを、一つ止めることができた。


 その結果として、手の中に残ったものだった。


 金額ではなかった。


 私にも、できることがある。


 そう認めてもらえた気がした。


     ◇


 その夜、私はエドガー様へ手紙を書いた。


 今日は、お役に立てました。


 ベルティア側の書簡に、こちらでは承諾と受け取られそうな言い回しがありました。けれど、王都では必ずしもそうとは限らないため、そのことをお伝えできたのです。


 少しだけ、大きなお仕事をした気がしました。


 もちろん、私ひとりで何かを成し遂げたわけではありません。


 けれど、私の確認で、商会の方が予定を組み直してくださいました。


 私が見つけたことが、ちゃんと仕事の中で役に立ったのだと思えて、それがとても嬉しかったのです。


 書きながら、何度も手が止まった。


 嬉しかったことを伝えたい。けれど、誇らしげに書きすぎてはいないだろうか。まだ未熟なのに、大げさに見えないだろうか。


 そんなことを考えて、何度も言葉を選び直した。


 それでも最後には、素直に書いた。


 あの日、エドガー様がくださったお手紙を何度も読み返しました。


 君が積み重ねたものは、必ず君の力になる。


 その言葉があったから、私はまた机に向かえました。


 今日、ほんの一部ではありますが、その意味に触れられた気がします。


 本当は、手紙ではなく、直接お話ししたいです。


 うまくできたことも、迷ったことも、顔を見てお伝えできたらと思ってしまいました。


 目を閉じると、庭園の東屋でお話しした日のことを思い出します。


 お会いしたいです。


 あなたのお声が聞きたいです。


 書いてしまってから、私はしばらくその一文を見つめた。


 頬が熱くなる。


 少し素直に書きすぎただろうか。けれど、消せなかった。本当のことだったからだ。


 窓の外は静かだった。


 遠い王都へ、この手紙が届く。エドガー様が読んでくださる。そしてまた、返事をくださる。


 そう思うだけで、息が楽になった。


 サマンサへの手紙にも、今日のことを書いた。


 商会で初めて手当をいただいたこと。


 掌に乗せると軽いのに、不思議なくらい重く感じたこと。


 何に使えばいいのか、すぐには決められなかったこと。


 書きながら、私は机の上の革袋へ目を向けた。


 このお金で、エドガー様とサマンサに贈り物を選びたい。


 ふと、そう思った。


 父から持たされたお金ではなく、ここで働いて、初めて受け取ったお金で。


 そのことを考えると、胸の奥が少し弾んだ。


 エドガー様に会いたい。


 サマンサとお茶を飲みたい。


 父に、役に立てましたと直接伝えたい。


 けれど、その恋しさは、以前のように胸を締めつけるだけのものではなかった。


 机の上には、封をした手紙と、初めて受け取った革袋がある。


 明日も商会へ行こう。


 そう思えた。


     ◇


 それから、商会で手当をいただくようになってからは、贈り物を選ぶ時だけ、そのお金を使うようになった。


 エドガー様やサマンサへの品は、できれば父のお金ではなく、自分で働いて得たお金で選びたかったのだ。


 最初に選んだのは、エドガー様への万年筆だった。


 店の奥に置かれていたそれは、深い青の軸に、銀の細工が施されていた。派手すぎず、けれど手に取ると上品に光る。


「贈り物ですか」


 店主に尋ねられ、私は頬を熱くした。


「婚約者に」


「でしたら、こちらはよい品です。見た目は控えめですが、軸がしっかりしています。長くお使いいただけるかと」


 長く使える。


 その言葉が嬉しかった。


 エドガー様が商談の席でこの万年筆を使うところを想像した。契約書に目を通し、静かに何かを書き留める横顔。その手元に、私が選んだものがある。


 それだけで、胸が温かくなった。


 万年筆を包んでもらっているあいだ、私は初めて革袋を受け取った日のことを思い出していた。あれは大きな額ではなかった。けれど私には、どんな宝石より誇らしいお金だった。


 そのお金で、エドガー様に贈り物を選ぶ。


 私はここで、進んでいます。


 この万年筆を見るたびに、ほんの少しでも私のことを思い出していただけたら嬉しい。


 そんなことを、直接書く勇気はなかった。だから私は、できるだけ丁寧に包んでもらった。


 それから、手当がたまるたびに、私は小さな贈り物を選んだ。


 エドガー様には、手帳と、淡く青みを帯びた天然石のカフス。


 サマンサには、銀の縁に小さな花模様が彫られた手鏡と、王都ではあまり使われない花の香り袋。それから、彼女の髪によく映えそうな珊瑚色の石がついた髪飾り。


 サマンサは華やかなものが似合う。明るい色も、柔らかな香りも、少し凝った細工も、彼女なら自然に身につけられる。


 手鏡を紅茶店で取り出したら、きっと周りの令嬢たちが褒めるだろう。サマンサは得意げに笑って、それから私に「見る目があるわね」と言うかもしれない。


 そして、もしかしたら。


「でも、これはリディアにも似合いそう」


 そう言って、私にも手鏡を持たせようとするかもしれない。


 私はきっと笑って言うのだ。


「サマンサのために選んだのよ」


 そんなやり取りまで思い浮かんで、頬がゆるむ。


 手紙と一緒に小包を送るたび、早く届いてほしいと思った。


 エドガー様にも、サマンサにも、喜んでほしかった。遠くにいる私のことを、少しでも思い出してほしかった。


 万年筆も、カフスも、手鏡も。ひとつ選んで送るたび、王都へ帰る日が少しずつ近づいている気がした。


 この品が王都へ届く。エドガー様が箱を開ける。サマンサが手に取って笑う。


 その光景を想像するだけで、胸が弾んだ。


 泣きながら辞書を引いた時間も、眠れないまま朝を迎えた夜も、きっと無駄ではなかったのだと。


 だから私は、帰国の日を楽しみにしていた。


 頑張ってきた自分を、エドガー様とサマンサに、早く見てもらいたかった。

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