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第5話 胸に抱いて眠った手紙

泣き疲れて眠ったのは、空が白み始める頃だった。


 机には開いたままの辞書。

 書き込みだらけの紙。

 滲んだインク。


 朝、目を覚ました時、私は頬に紙の跡をつけたまま机に突っ伏していた。


 気づけば、手の中にはエドガー様からの手紙を握ったままだった。


 昨夜、何度も読み返した。

 滲ませないよう脇へ避けたはずなのに、途中からまた引き寄せて、胸へ抱え込むようにしていたらしい。


 薄い紙には、涙の跡が残っていた。


 それでも私は、指先でそっとその封を撫でた。


 目の奥が熱い。

 鏡を見るまでもなく、ひどい顔をしているのが分かった。


 桶の水で布を濡らし、しばらく目元へ押し当てる。

 少し冷えても、腫れは引かなかった。


 まぶたが重い。

 鼻の奥も痛い。


 それでも、講義を休む気にはなれなかった。


 休んだら、本当に負けてしまう気がした。


     ◇


 その日から、私は講義のあと、何度かロラン講師のもとへ質問に行くようになった。


 ロラン講師は、あの日、私が発音を間違えた時に教壇に立っていた講師だった。

 契約文や商業用語の扱いに詳しく、ヴェルニカ語の発音にも厳しい人だった。


 発音のこと。

 教本に出てくる言い回し。

 港ごとに違う品目名。

 同じ言葉でも、国によって意味の重さが変わる表現。


 分からないことは、分からないままにしたくなかった。


 ロラン講師は最初、少し驚いたようだった。


 それから、私の質問を書き留め、ひとつずつ答えてくれた。


「あなたは、話すことにはまだ苦労していますね」


「……はい」


 言われて、少しだけ身が固くなる。


 けれどロラン講師は、責めるようには言わなかった。


「ですが、文章を見る目は悪くありません。分からないところを、そのままにしないところもいい」


 私は顔を上げた。


「先日のことですが」


 ロラン講師は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


 講師は、あの時、途中で教室を出ていた。

 だから、そのあと何があったのかまでは知らない。


 私がもう一度言わされたことも、

 教室の笑い声も、

 コルネリアの声も。


 それでも講師は、最初の発音の間違いについてだけは、きちんと覚えていてくれたらしかった。


「あなたのあの時の発音も、今はもうきちんと直っていますよ」


 そのあとで、穏やかに続ける。


「発音の違いは、この国で育っていなければ難しいものです。意味の理解そのものは間違っていませんでした」


 胸の奥が、少しだけ緩んだ。


 笑われたことは消えない。

 恥ずかしかったことも消えない。


 けれど、全部が無意味だったわけではないのだと思えた。


「それに」


 ロラン講師は机の上の紙束を整えながら続けた。


「一度恥をかいた人間の方が、言葉を慎重に扱えるようになれます」


 私は、その言葉をしばらく忘れられなかった。


     ◇


 不思議なことに、あの日を境に、以前より少しだけ質問が怖くなくなった。


 もちろん恥ずかしい。

 間違えるのは今でも怖い。


 けれど、もう一度笑われたとしても、死ぬわけではない。


 あの日、私は一番知られたくない形で、自分の未熟さを大勢の前に晒してしまった。


 なら、もう、分からないまま黙っている方が怖かった。


 私は以前よりも辞書を引いた。

 以前よりも講師へ尋ねた。

 以前よりも、教本を読み返した。


 昼休みも、空いた時間も、私は机へ向かった。


 食堂の隅で単語を書き写し、

 廊下を歩きながら港名を覚え、

 夜には指が痛くなるまで商談記録へ書き込みをした。


 辞書の端は、何度もめくったせいで少し柔らかくなっていった。


 言葉は怖い。


 けれど、怖いからといって目を逸らしていたら、また何も知らないまま利用される。

 分からないまま笑われて、あとから傷つくことになる。


 それは嫌だった。


     ◇


「熱心ですのね」


 ある日の放課後、資料室で辞書を開いていた時だった。


 顔を上げると、コルネリアが棚の前に立っていた。


「……まだ覚えることばかりですので」


「あれほど熱心にお調べになっても、まだ足りませんのね。この国の言葉は難しいですもの」


 やさしい声だった。


 けれど、その響きには、親切に見せかけた薄い棘があった。

 難しいから仕方ない、と言いながら、私がまた知らない言葉に引っかかるのを待っているような声だった。


「リディア様は、本当にお勉強熱心ですものね」


 そばにいた令嬢が、くすりと笑った。


「ええ。分からないことを、そのままにしないのは良いことですわ」


 コルネリアはそう言った。


 言葉だけ聞けば、褒めているようにも聞こえる。


 普段は簡単な会話を丁寧にしてくれる。

 けれど彼女は時々、わざと聞き慣れない言葉を会話へ混ぜた。


 私が聞き返すと、意味を教えてくれる。

 発音を直してくれる。

 時には本当に役に立つこともあった。


 けれど、あとで辞書を引くと、別の言葉の方が自然だったこともある。

 文脈によっては、少し嫌味に近い意味や、まったく違う意味になる言い回しだったこともある。


 そして、その中へ時々、わざと小さな嘘を混ぜる。


 知らないなら教えてあげる。


 その形をして、私が知らないことを周囲へ示す。


 そのたびに私は、自分がまだこの国の人間ではないのだと思い知らされた。


 それでも、最近の私は、分からない言葉を聞き流さなくなっていた。


「今の言葉は、どういう意味でしょうか」

「この場合、別の表現はありますか」

「その言い方は、教本や契約文にも使われますか」


 そう尋ねるたび、コルネリアは少しだけつまらなそうな顔をすることがあった。


 恥ずかしさに耐えられなくなると思っていたのだろう。

 言葉に詰まって、俯くと思っていたのだろう。


 けれど私は、ただ意味を尋ねて、教えられた語を書き留めた。


 傷ついた顔も、困った顔も、そこにはなかった。

 あったのは、紙に残る新しい単語と、辞書を引くための印だけだった。


 その度に、コルネリアの声から、ほんの少し楽しげな響きが消えていた。


     ◇


 その日も、コルネリアは私の手元の紙へ視線を落とした。


「その言い回し、少し硬いですわね。こちらでは、あまり使いませんわ」


 そばにいた令嬢が、くすりと笑った。


「リディア様は本当に真面目ですものね」


「ええ。まるで教本をそのまま写したみたい」


 悪意と言い切るには弱い。

 けれど、親切と呼ぶには少し冷たい。


 以前なら、それだけで頬が熱くなっていたと思う。


 けれど私は、コルネリアから目を逸らさなかった。


「では、こちらではどの表現を使うのでしょうか」


 笑っていた令嬢の声が、そこで止まった。


 コルネリアが、ほんの少しだけ目を瞬いた。


「……そうですわね。一般的には、こちらかしら」


 彼女は別の語を書きつけた。


 私はそれを見て、横に小さく意味を書いた。


「ありがとうございます。覚えます。あとで辞書でも正しい意味を確認しておきます」


「……ええ」


 コルネリアの返事が、ほんの少し遅れた。


 先ほどまで口元を押さえていた令嬢たちは、顔を見合わせた。

 笑うところを失ったように、気まずそうに視線を逸らす。


「本当に、熱心ですのね」


「知らないまま口にして、また皆さまを驚かせてはいけませんので」


 私の声は、自分で思ったより落ち着いていた。


 コルネリアの笑みが、一瞬だけ止まった。


 あの日のことを、私が言っていると分かったのだと思う。

 けれど私は、それ以上は言わなかった。


 責めるためではない。

 忘れていないと、伝えるためだった。


「そう。では、頑張ってくださいませ」


 コルネリアは綺麗に微笑んだ。

 けれど、その笑みはさっきより少しだけ薄かった。


 去っていく背中を見送り、私はもう一度辞書へ目を落とした。


 胸は少し痛い。

 けれど、ちゃんと言えた。


 前のように手が震えることはなかった。


 指先で、彼女が書いた語をなぞる。


 笑われるためではなく、覚えるために。


 私はその言葉を、もう一度紙に写した。

 それから、本当にその意味で合っているのか、辞書のページをめくった。


     ◇


 つらい夜には、エドガー様の手紙を読み返した。


 最初にもらった頃より、手紙は少しずつ長くなっていた。


『ヴェルニカの港は、冬になると海鳥が多く飛ぶのだったか』


『この前書いてくれた市場の話は面白かった。君が夢中になって話している姿が目に浮かぶようだ』


『君が戻ったら、ヴェルニカで見聞きした港や商いの話を、私にも聞かせてほしい』


『無理をしすぎていないか心配している』


『君がいない王都は、思っていたよりもずっと静かだ』


『君が立派になって帰ってくる日を楽しみにしている』


 真面目な話ばかりではなかった。


 時々、思いがけずやわらかな言葉が混じっていることがあった。


 私が夢中になって話す姿が目に浮かぶ。


 私がいない王都は、思っていたよりもずっと静かだ。


 そんなことを、エドガー様が書いてくださるのだ。


 そばにいた頃には、改まって手紙を交わすことなどほとんどなかった。


 だから私は、その便箋の中に、まだ知らなかったエドガー様を見つけるような気持ちでいた。


 こんなところまで気にかけてくださるのだ。

 こんな言葉を選んでくださるのだ。


 そう思うだけで、胸の奥があたたかくなった。


 だから私は、その手紙を胸へ抱いて眠った。


 王都の空気ごと抱きしめるように。


 異国の言葉ばかりに囲まれて過ごす日々の中で、

 あの手紙だけは、何も気を張らずに読めるベルティアの言葉だった。


 笑われない言葉。

 意味を取り違えなくていい言葉。

 帰る場所があると思わせてくれる言葉。


 泣いた夜も、

 講義でうまく答えられなかった日も、

 笑われた日も、


 私は何度もその封筒を開いた。


 その時だけは、異国にいることを少し忘れられた。


 もし、あの手紙がなかったら。


 私は途中で心が折れていたかもしれない。


 それくらい、あの言葉は私を支えていた。


     ◇


 私も、何度も手紙を書いた。


『今日は、講義で少しだけ褒めていただけました。

 教本に出てきた責任の書き方について、以前より分かるようになった気がします』


『こちらでは、港ごとに品目名が変わることがあります。

 同じ布でも、北側では別の呼び方をするそうです。

 いつか戻ったら、面白かった話をたくさんお聞かせしたいです』


『今日は、古い港町の通りを歩きました。

 石畳が海水で白くなっていて、とても綺麗でした』


 サマンサへの手紙は、もう少し柔らかかった。


『そちらはもう春の花が咲きましたか?

 こちらでは、小さな青い花をよく見かけます』


『今日、少しだけ褒められました。

 嬉しくて、誰かに話したくなってしまって』


『帰ったら、また一緒に紅茶を飲みたいです』


 時には、押し花を手紙へ挟んだ。


 ヴェルニカで咲いていた、小さな青い花だった。


 食堂で白い粥を出された日。

 泣きそうになって中庭へ出た時、石畳の隅でその花を見つけた。


 細い茎だった。

 風に吹かれて、今にも折れそうだった。


 それでも、その花はしなやかに揺れながら立っていた。


 私も、あんなふうに立っていられたらいい。


 そう思って、自分用に一輪だけ摘み、押し花にした。


 それから、エドガー様とサマンサにも見せたいと思った。


 だから別の日に、同じ花を二輪摘んだ。

 押し花にして、それぞれの手紙へ挟んだ。


 サマンサは、こういうものを喜びそうだと思った。


 エドガー様は、きっと優しく笑ってくださる気がした。


 そんなことを考えながら封を閉じる時間が、私は好きだった。


     ◇


 ある日、講義のあと、ロラン講師に呼び止められた。


「ハルストン嬢。少し、お時間をいただけますか」


 私は机の前へ向かった。


 ロラン講師は書類を一枚取り出した。


「懇意にしている商会で、ベルティア王国側の書簡を確認できる学生を探しています」


「ベルティアの……ですか?」


「ええ。正式な翻訳ではありません。王都側の品目名や言い回しを確認する補助です」


 私は驚いて講師を見た。


「私に、でしょうか」


「あなたはまだ会話には苦労しています。ですが、文章を見る目は悪くない。それに、ベルティアで商業に携わる伯爵家の令嬢として、王都側の言い回しや取引の感覚を知っている」


 ロラン講師はそこで少し笑った。


「最初は手当も出ません。ほとんど見学のようなものです。ですが、勉強にはなるでしょう」


 胸の奥が、小さく鳴った。


 怖くないわけではない。


 また失敗するかもしれない。

 また笑われるかもしれない。


 けれど。


 私はもう、言葉を怖がるだけで終わりたくなかった。


「やってみたいです」


 そう答えると、ロラン講師は静かに頷いた。


「では、紹介状を書きましょう」


     ◇


 紹介状を受け取った帰り道、私は封筒に書かれた名を何度も見返した。

 

 オルディス商会。


 教本の中ではなく、実際の取引が動いている場所だ。


 きっとまた、分からないことがある。

 間違えることもある。


 それでも。


 私は封筒を胸へ抱えた。


 少し前の私なら、怖いだけだったかもしれない。


 けれど今は、少し違った。


 まだ、強くなれたわけではない。

 悔しくて泣く日もある。

 寂しくて、眠る前に涙がこぼれる日もある。


 けれど帰れば、机の引き出しには手紙がある。


 王都の言葉で、

 帰る場所があると教えてくれる言葉がある。


 エドガー様とサマンサが、私を待ってくれている。


 そう思えることが、私を何度も立ち上がらせてくれた。

 笑われても、間違えても、もう一度机に向かわせてくれた。


 だから私は、もう少しだけ頑張れる気がした。


 外へ出ると、空気はまだ少し冷たかった。


 それでも私は、その日初めて、

 ほんの少しだけ前を向いて歩けた気がした。

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