第4話 知らない言葉は刃になる
留学生活は、翌日から急に楽になるようなものではなかった。
朝、目を開けるたび、知らない天井があった。
天井の模様も、壁の色も、窓から入る光の角度も、王都の部屋とは違う。
朝早くから動き出す寮の気配も、まだ耳に馴染まなかった。
廊下を行き交う足音も、扉の向こうから聞こえる言葉も、すべて異国のものだった。
水の味も、呼び鈴の音も違う。
顔を洗い、服を整え、まだ慣れない朝食を少しだけ口にして、講義へ向かう。
それだけのことに、朝からいちいち小さな力が必要だった。
昼食の時間も、気が重くなった。
白い粥を差し出された日のことを思い出すたび、食堂へ向かう足が少し遅くなる。
講義の前には、胃の奥がキリキリ痛くなる日もあった。
今日は何を聞き落とすのだろう。
どこで笑われるのだろう。
また、何か分からないまま間違えるのだろうか。
分からないなら聞けばいい。
父はそう教えてくれた。
商いでは、見栄より確認が大事だ、と。
けれど、何を間違えたのか分からない時は、何を聞けばいいのかも分からない。
聞き返したその言葉まで笑われるのではないかと思うと、喉が固くなった。
そんなことを考えるだけで、講義室へ向かう足が重くなる。
それでも私は、机に向かった。
言葉を覚え、契約文を読み、恥をかき、また覚える。
分からなかった言い回しを写し、発音を繰り返す。
帰りたいと思わなかった日は、一日もなかった。
それでも帰らなかったのは、王都に戻った時、エドガー様の隣に立てる私でいたかったからだ。
君なら大丈夫だ。
出立前に、彼はそう言ってくれた。
私は、その言葉を何度も思い出した。
大丈夫だと言われた私でいたかった。
信じている、と言ってくれたあの人の前で、胸を張って帰りたかった。
だから、その日も私はいつものように講義室へ向かった。
廊下には、すでに何人かの学生が集まっていた。
まだ耳に馴染まない速さで言葉が交わされる。
笑い声が、ひとつ、ふたつ。
内容は分からない。
けれど、自分の話ではないと分かるだけで、少しだけ安堵した。
扉の前で、足が止まる。
中に入れば、また始まる。
分からない言葉。
追いつけない講義。
間違えれば、笑われるかもしれない時間。
それでも、入らないわけにはいかなかった。
私は息をひとつ整えて、扉を押した。
講義室の高い窓から、白い光が差し込んでいた。
壁には、この国の港と商路を示す古い地図が掛けられている。
王都の学び舎とは、何もかも違う。
――ここは、私の場所ではない。
そう思った瞬間、息が浅くなった。
帰りたい。
けれど、帰りたくない。
ここで戻ったら、あの人が信じてくれた私ではなくなってしまう気がした。
私は席に着き、教本を開いた。
指先が、少しだけ冷たかった。
その日の講義は、積荷の遅延と責任の所在についてだった。
荷が港に着いた時点で責任が移るのか。
受け取り側が検品を終えた時点なのか。
途中で破損があった場合、運搬側と受け取り側のどちらがどこまで負うのか。
内容は難しい。
けれど、私は少しだけほっとしていた。
この範囲なら、父から持たされた商談記録にも似た文があった。
昨夜の予習で、教本を何度も読んだ。
分からない語は辞書で引いた。
余白には、自分なりに注も書いた。
紙の上なら、分かる。
そう思っていた。
「では、この場合、責任が移る時点を答えてください。ハルストン嬢」
名を呼ばれ、私は立ち上がった。
椅子を引く音が、いつもより大きく聞こえる。
何人かの視線がこちらを向いた。
落ち着いて。
私は教本へ目を落とした。
「積荷が港に到着した時点ではなく、受け取り側が検品を終えた時点で、責任は――」
そこで、私はその語を口にした。
責任を負う側を示す語。
昨夜、何度も声に出して練習した語。
部屋では、正しく言えていると思っていた。
けれど、講義室で名を呼ばれ、何人もの視線を受けながら口にすると、同じ音のはずなのに少し違って聞こえた。
自分でも、ほんのわずかに舌が遅れた気がした。
言い終えた瞬間、教室が一瞬だけ静かになった。
講師の眉が、わずかに動く。
「……発音が、少し」
講師は言いかけて、言葉を止めた。
その時、扉が軽く叩かれた。
呼び出しだったらしい。
講師は短く返事をし、手元の資料を机に置いた。
「意味の取り方は合っています。発音に注意してください。少し外しますので、今の箇所は各自で確認しておいてください」
そう言って、講師は教室を出ていった。
扉が閉まる。
途端に、教室の空気が少し緩んだ。
誰かが椅子にもたれる。
隣同士で小さく話し始める。
紙をめくる音の中に、抑えた笑いのようなものが混じった気がした。
私は立ったまま、教本を握りしめていた。
発音を間違えたのだとは分かった。
けれど、どの音が違ったのかまでは分からなかった。
分からないままにしてはだめだ。
そう思った。
けれど、講師はもういない。
自分から誰かに尋ねるには、まだ言葉が足りなかった。
どの音がおかしかったのか。
どう直せばいいのか。
それを、この国の言葉でうまく聞ける自信がなかった。
「リディア様」
そこで、コルネリアが声を上げた。
穏やかな声だった。
「先ほどの語、もう一度お願いできます?」
「……先ほどの語、ですか」
「ええ。発音の違いは、皆さまにも分かりやすい方がよろしいでしょう? お手本にするためにも、まずは先ほどの響きを確認しておきませんと」
お手本。
そう言われて、私は少しだけ安堵した。
自分からは聞けなかった。
けれど、コルネリアが正しい音を示してくれるなら、覚え直せばいい。
そう思った。
コルネリアはこの国で生まれ育った令嬢だ。
この国の言葉も、商いに使う言い回しも、私よりずっと身についている。
彼女が正しい音を示してくれるなら、覚え直せばいい。
そう思った。
気づけば、ほとんどの学生がこちらを見ていた。
女子だけではない。
少し離れたところにいた男子学生たちも、話をやめてこちらを向いている。
私は教本に目を落とし、さっきよりも慎重に、その語を口にした。
喉の奥を意識する。
舌の位置を確かめる。
小さく濁さず、はっきり聞こえるように。
間違っているところを直してもらうためには、曖昧にごまかしてはいけない。
聞き取りやすいよう、今度はさっきよりはっきりと、その語を口にした。
先ほどと同じ発音を、もう一度。
言い終えた瞬間だった。
教室のあちこちで、堪えきれなかったような笑いが漏れた。
誰かが喉を鳴らす。
慌てたように咳払いが重なる。
けれど、下卑た空気までは隠しきれていなかった。
男子学生のひとりがくっと下を向く。
その隣の二人は、目を合わせてにやついていた。
令嬢のひとりは口元を押さえ、肩を震わせている。
別の令嬢は、少し気の毒そうな顔をして目を逸らした。
何が起きたのか、分からなかった。
ただ、笑われたのだと思った。
何を。
どうして。
そんなにおかしな発音ではないはずだった。
昨夜、予習してきた。
正確ではなかったとしても、近い音にはなっているはずだった。
それなのに、頬だけが熱くなっていく。
「あら」
コルネリアは、困ったように微笑んだ。
「やはり、少し違いますわね。そこの発音は、こうですの」
彼女は正しい音を、ゆっくりと示した。
その声は優しかった。
「難しい音ですもの。仕方ありませんわ」
仕方ありませんわ。
その言葉は、やさしい形をしていた。
けれど、周囲の笑いと一緒になると、どう受け取ればいいのか分からなくなる。
「……申し訳ありません」
「謝ることではありませんわ。慣れですもの」
コルネリアは、ゆっくりと言った。
ひとつひとつ、区切るように。
幼い子に言い聞かせるような速さだった。
「ただ、契約の場では、発音ひとつで意味が変わることもございますでしょう? 気をつけませんと」
「はい」
私は、そう答えるしかなかった。
教本を抱え直す指先が冷たい。
頬だけが熱い。
講師は、その時間のうちには戻らなかった。
やがて次の講義の講師が入ってきて、何事もなかったように別の授業が始まった。
私はそのあいだ、ほとんど声を出せなかった。
もう一度笑われるのが怖かった。
◇
夜、部屋へ戻ってから、私はその語を辞書で調べた。
正しい綴りなら、契約における責任の所在を示す、ごく普通の語だった。
けれど、昼間、私が口にした音に近い別の語が、辞書の端に小さく載っているのを見つけた。
意味を理解した瞬間、さあっと血の気が引いた。
それは、公の場で口にするような言葉ではなかった。
契約にも、荷の責任にも、何の関係もない。
男女の戯れを、下品に匂わせる言葉だった。
私は辞書を開いたまま、動けなくなった。
あの時の笑い。
目を合わせてにやついていた男子学生たち。
下を向いて笑いをこらえていた者。
口元を押さえた令嬢。
気の毒そうに目を逸らした令嬢。
コルネリアの、もう一度、という声。
ひとつひとつが、今になって意味を変えた。
訂正してくれたのではなかった。
私が分からないのを知っていて、もう一度言わせたのだ。
それなのに私は。
真剣な顔で。
意味も知らないまま。
人前で。
恥ずかしかった。
ただ発音を間違えた恥ずかしさではなかった。
知らないまま下品な言葉を口にして、それをもう一度、人前で言わされた。
その事実が、時間を置いてからじわじわと体の中に入り込んでくる。
思い返す度、胸の奥がぞわりと粟立った。
今すぐどこかへ隠れたいのに、もう取り消せない。
あの場にいた全員の中で、自分だけ意味を知らなかったこと。
真面目な顔で、必死に発音していたこと。
それを分かった上で見られていたこと。
顔が熱い。
耳の奥まで熱い。
なのに、胸の奥だけが冷えていく。
服を剥がされたわけでもない。
触れられたわけでもない。
それでも、人前で尊厳を薄く削られたような感覚だけが残っていた。
口の中が、急に気持ち悪くなる。
昼間自分が出した音が、まだ喉の奥に残っている気がした。
知らない言葉は、刃になる。
しかも、刺されたことにすぐ気づけない。
そのことが、一番怖かった。
「……悔しい」
声に出した途端、留学してからずっと押し込めていたものが崩れた。
悔しい。
悔しい、悔しい。
悔しい、悔しい、悔しい。
私は遊びに来たわけではない。
見世物になるために来たわけでもない。
父の資料を読み、辞書を引き、何度も発音を練習して、ここまで来たのに。
それなのに、意味も知らないまま、下品な言葉を言わされた。
何も分からないまま、大勢の前で笑われた。
「帰りたい……」
言ってしまった瞬間、涙が落ちた。
帰りたい。
帰りたい、帰りたい。
父のいる屋敷へ帰りたい。
王都の言葉だけで話せる場所へ帰りたい。
笑い声の意味が分かる場所へ帰りたい。
エドガー様に会いたい。
サマンサに会いたい。
帰りたい。
帰りたい。
声を出して泣いたら、隣の部屋に聞こえてしまう。
私は慌てて口元を押さえた。
喉の奥が震える。
息を吸うたびに引っかかって、吐くたびに、うっと嗚咽が漏れそうになる。
袖口で目元をこすった。
けれど涙は止まらない。
鼻の奥がつんと熱くなって、息がうまくできなくなる。
ひく、ひく、と喉が勝手に痙攣した。
袖はすぐに湿って、冷たくなった。
それでも拭うしかなかった。
その時、机の端に置いた封筒が目に入った。
エドガーからの手紙だった。
今朝、寮の玄関で受け取ったものだ。
講義に遅れそうで、封を切ることもできず、ひとまず部屋へ置いて出た。
震える指で封を開く。
エドガーから、こうしてちゃんとした手紙をもらうのは初めてだった。
これまでは、会えば直接話せた。
庭園でも、紅茶店でも、父の屋敷でも。
だから、あの人がどんな文字を書くのか、私はほとんど知らなかった。
封に記された名だけで、胸が少し熱くなる。
『慣れない場所で、君はきっと今も真面目に頑張っているのだろう。
悔しいことや、うまくいかないこともあると思う。
けれど、君が机に向かって積み重ねた時間は、必ず君自身の力になる。
私は、君が私の隣に立つ日を待っている。
君なら大丈夫だ』
その一文を見た瞬間、また涙が落ちた。
大丈夫じゃない。
そう思ってしまった。
少しも、大丈夫じゃない。
今日の私は、笑われた。
意味も知らずに、下品な意味に聞こえる言葉を口にした。
帰りたいと、何度も思った。
ぽとり、と涙が落ちる。
黒い文字の上で、じわりと滲んだ。
「あ……」
いけない、と思った。
大事な手紙なのに。
慌てて袖で拭う。
けれど、擦ったところで、余計にインクが広がった。
文字が、少し崩れる。
――エドガー様が、私のことを思って書いてくれた手紙なのに。
そう思った途端、また涙が落ちた。
ぽた、ぽた、と続く。
止めようとしても、止まらない。
私はもう片方の手で口元を押さえた。
喉が震える。
息を吸うたびに引っかかって、吐くたびに崩れそうになる。
鼻先まで濡れて、袖口で押さえるしかなかった。
袖に押しつけた頬も鼻も、涙でぐしゃぐしゃになっている。
私はそっと指で、その一文に触れた。
君なら大丈夫だ。
滲んで、少し輪郭の甘くなった文字をなぞる。
指先に、紙の感触と、かすかなインクのざらつきが残った。
大丈夫じゃない。
そう思ってしまう。
少しも、大丈夫じゃない。
それでも、指先はその一文から離れなかった。
大丈夫になりたい。
エドガー様が信じてくれた私に、なりたかった。
私は手紙をそっと脇へ寄せた。
これ以上、滲ませたくなかった。
まだ涙は止まらない。
鼻も目元もぐしゃぐしゃで、息も上手く整わない。
それでも、私はもう一度、辞書を引き寄せた。
正しい語を書き写す。
その下に、昼間、自分が出してしまった音を小さく書いた。
さらに横に、似た音の下品な語も記す。
もう二度と、混同しないために。
もう二度と、知らないまま笑われないために。
声には出せなかった。
またあの下品な意味に聞こえるのではないかと思うと、喉が固まった。
だから、唇だけを動かす。
何度も。
何度も。
音の形だけをなぞる。
正しい音を。
正しい意味を。
誰にも笑わせないために。




