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第3話 白い粥と異国の食卓

 留学先の国、ヴェルニカ共和国へ着いた最初の日、私は、自分がどれほど甘く考えていたのかを知った。


 言葉は学んできた。

 挨拶も礼儀も、商いに使う単語も、王都にいるあいだにできる限り覚えたつもりだった。


 けれど、それは紙の上の言葉だった。


 実際の会話は速い。


 ひとつ単語を拾ったと思ったときには、もう別の話題へ移っている。

 音はつながり、ところどころ消え、知っているはずの単語が違うものに聞こえた。


 笑い声が上がる。


 ――今、何が面白かったのだろう。


 考えているあいだに、もう終わっていた。


 一緒に笑うべきだったのか、聞き返すべきだったのか、それさえ分からない。


 私は一日中、気を張っていた。


     ◇


 最初に失敗したのは、挨拶だった。


 教室へ入る前、廊下で顔を合わせた学生に、私は作法書どおりに声をかけた。


「本日よりこちらで学ばせていただきます、ベルティア王国より参りました、リディア・ハルストンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 短く、はっきりと。

 目を見て、少しだけ微笑む。


 そのつもりだった。


 一瞬、間が空いた。


 それから、何人かが顔を見合わせた。


「……式典みたい」

「大げさ……」


 聞き取れたのは、その二つだけだった。


 けれど、空気だけが変わった。


 誰かが口元を押さえる。

 声には出していないのに、笑っているのが分かる。


「……こちらこそ」


 返された言葉は丁寧だった。


 そのあと、早口でまた何か続いた。

 聞き取れない。


 ただ、さっきと同じように、短く笑いが漏れた。


 聞けばよかったのだと思う。


 父は、分からないことを分からないままにするなと言っていた。

 商いでは、見栄より確認の方が大事だ、と。


 その言葉が胸をよぎった。


 けれど、その時の私は、どうしても聞き返せなかった。


 何を笑われたのかも分からない。

 そのうえでさらに分からない顔をさらすことが、たまらなく惨めに思えた。


     ◇


 講義が始まると、今度は遅れないようにするだけで精一杯だった。


 黒板の文字は読める。

 教本で見た語もある。


 けれど、講師の口から続けて言われると、とたんに追えなくなる。


 ひとつ聞き取れない語がある。

 その語を頭の中で探しているうちに、次の説明が過ぎていく。


 慌てて顔を上げると、周りの学生たちはもう頁をめくっていた。


 私も遅れて頁をめくる。


 分かったふりをしたかったわけではない。

 ただ、そこで止まれば、次の一文まで失う。


 隣の学生は、迷っている私の教本の行をそっと指で示してくれた。


 席を少し詰めてくれる人もいた。


 私は小さく礼を言った。


 助かった。


 けれど、そのあと彼女たちはすぐに自分たちの速さへ戻っていく。


 私はそこへ入れない。


 出立前、父の書斎で辞書を引いた。

 何度も発音を書き取り、契約文も写した。


 それでも、ここでは足りなかった。


 努力してきたことは、自分の支えだった。

 だからこそ、それが簡単に役に立たなくなるのが悔しかった。


 当然だ。

 来たばかりなのだから。


 そう思おうとした。


 けれど、すんなり納得できない自分にも、少し苛立った。


 最後の講義が終わったあと、私は深く息を吐いた。


 頭の奥が熱く、まぶたの裏まで重い。


 言葉を聞く。

 意味を考えているうちに、講義は進む。

 追いつけない。

 笑い声がする。

 今のは笑っていいところなのか考える。

 聞き返そうとして、口を閉じる。


 その繰り返しだった。


 まだ初日なのに。


 もう、疲れたと思ってしまった。


     ◇


 それから一週間ほど経った。


 食堂では、入口で盆を取り、並んだ料理から自分で皿を選ぶことになっていた。

 食事代は滞在費に含まれているらしく、時間内であれば、学生は好きな皿を取れる。


 濃い色の煮込み、油の浮いた赤いスープ、焼いた肉に強い香りの粉を振ったもの。

 果物の酢漬けや、香草を混ぜた冷たい野菜の皿もある。


 見た目は鮮やかで、匂いはどれもはっきりしている。


 食堂に入るたび、鼻の奥がつんとした。


 最初の日ほど立ち止まらなくなった。

 けれど、平気になったわけではない。


 盆を取ろうとしたとき、横から声がした。


「リディア様」


 振り向くと、コルネリア・ヴァルクレイが微笑んでいた。


 出立前に父から聞かされた、いくつかの有力商家のひとつだった。

 港湾管理と通商で名を馳せた家。


 彼女は初日から目立っていた。

 慣れない学生に声をかけ、席を示し、自然に輪の中心にいる。


 親切な人なのだと、最初は思った。


「こちらをどうぞ。選んでおきましたの」


 差し出された盆には、白い皿がひとつ乗っていた。


 ミルクで煮たパンのスープだった。

 崩れたパンの上に、細かく刻まれた野菜が少しだけ浮いている。


「こちらの料理は香りが強いものが多いでしょう?」


 穏やかな声だった。


「食欲がない方や、体調を崩された方のために、こうしたものも用意されておりますの。慣れるまでは、無理をなさらない方がよろしいかと思って。ベルティアの方は、もっとやさしいお味にしか慣れていらっしゃらないのでしょう?」


 親切にしてくれたのだと思った。


 少なくとも、聞き取れた言葉はそうだった。


「まあ、さすがですわ」

「本当に細やかなお気遣い」


 周囲の令嬢たちが頷く。


「ご無理はなさらなくてよろしいのよ」

「ベルティアは、それはそれはお上品なお国柄ですものね」


 やわらかい声だった。


 けれど、そのあとに、手で口元を隠す気配がした。

 小さな笑いが重なる。


 私は、皿を見下ろした。


 体調を崩した者のための皿。

 食べられない者のための皿。


 そして今、それを差し出される側に、自分はいる。


「……ありがとうございます」


 私はそう言って、盆を受け取った。


 席に着き、スープをすくう。


 やわらかい。

 ほとんど噛まなくても崩れる。


 あたたかいのに、味は薄い。


 同じ食堂にいるのに、私だけが別のものを与えられている。


 その感覚が、指先を冷やした。


 私はもう一口すくった。


 ここでこれだけ食べれば、明日も同じ皿が用意される気がした。


「……他のものも、いただいてよろしいでしょうか」


 一瞬だけ、空気が止まる。


 コルネリアは微笑んだ。


「ええ、もちろん。無理をなさらない程度に」


 私は席を立ち、料理を取りに行った。


 濃い色の煮込みを皿に取る。


 湯気だけで、鼻の奥がつんとした。


 戻って、口に運ぶ。


 瞬間、喉がきゅっと縮んだ。


 熱が鼻へ抜ける。

 胃の奥がひっくり返りそうになる。


 それでも、止めなかった。


 噛む。

 飲み込む。


 喉が熱い。

 目の奥が、少し滲む。


「ご無理はなさらないでくださいね」


 コルネリアが言った。


「港には各地の香辛料が入ってまいりますでしょう? こちらでは、初等の子どもでも少しずつ食べ慣れていきますのよ」


 言葉は、きちんと聞き取れた。


 ゆっくり話してくれているからだ。


 だから、意味も分かる。


 善意に聞こえる。


 そのはずなのに。


 周りの令嬢たちは、口元を隠して笑い合っていた。


 何かを共有しているのが分かる。


 その中に、自分が含まれている気がした。


 善意なのかもしれない。


 本当にそうなのかもしれない。


 そう思おうとするほど、喉の奥に、さっきの香辛料とは別の引っかかりが残った。


「……ありがとうございます」


 声に出すと、少しだけつかえた。


「ですが、慣れたいのです」


 もう一口、運ぶ。


 喉が焼ける。


 無理やり飲み込む。


 それでも、私は最後まで匙を置かなかった。


     ◇


 食堂を出てからも、喉の奥には香辛料の熱が残っていた。


 胃も、胸の中も、頭の奥も、うまく落ち着かない。


 ただ、講義を受けた。

 ただ、昼食を取った。


 それだけの一日だったはずなのに。


 それなのに私は、もう折れそうになっている。


 そのことが、何より情けなかった。


 私は、どれほど守られた場所で生きてきたのだろう。


 父の屋敷で。

 エドガーとサマンサのいる場所で。

 王都の言葉の中で。

 意味が分かる笑い声の中で。


 知らないうちに、それを当たり前だと思っていた。


 たった一週間。

 何か決定的なことが起きたわけではない。


 それなのに、笑い声の意味が分からないだけで、食卓でひと皿を差し出されただけで、こんなにも足元が揺らぐ。


 自分がこんなに弱い人間だと、ここへ来るまで知らなかった。


     ◇


 最後の講義を終えて、部屋へ戻る途中、裏庭の端で、小さな花を見つけた。


 青白い花だった。


 石壁の影に隠れるように咲いている。

 華やかではない。

 誰かが足を止めて褒めるような花でもない。


 それでも、細い茎をまっすぐ伸ばしていた。


 傾きかけた光の中でも、花びらは静かに青かった。


 風が吹くたび細い茎はしなり、それでも折れずに立ち直った。


 その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 ――私も、こうありたい。


 そう思った。


 笑われても。

 子どものように扱われても。

 うまく言い返す言葉が見つからなくても。


 それでも、折れずに立っていたい。


 エドガー様は、出立前に言ってくれた。


 君なら大丈夫だ、と。


 いつか私の隣に立つとき、きっと無駄にはならない、と。


 その言葉にふさわしい私になりたかった。


 エドガー様に、この花を見せたいと思った。


 今日、私はうまくできませんでした。

 少しだけ、泣きそうになりました。

 けれど、こんな花を見つけました。

 だから、明日ももう少しだけ頑張れそうです。


 そう書けたら。


 この一日を、ただ苦しかっただけの日にしなくて済む気がした。


 私はその花を一輪だけ摘んだ。


 部屋へ戻ると、辞書の間にそっと挟む。


 花びらが折れないように。

 青白い色が少しでも残るように。


 辞書を閉じると、さっきまで浅かった息が、少しだけ深く入った。


 明日も、机に向かおう。


 そう思えた。

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