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第2話 君なら大丈夫だ

 留学先は、隣国ヴェルニカ共和国だった。


 私が生まれ育ったベルティア王国から見れば、海を隔てた先にある商業国家である。


 順風なら船で三日。

 風が悪ければ五日、ときにはそれ以上かかる。


 近いと言えば近い。

 けれど、十八年を王都で過ごしてきた私には、十分すぎるほど遠かった。


 ベルティア語とヴェルニカ語は、もとは同じ古い言葉から分かれたものだという。


 使っている文字は同じだった。

見慣れた綴りに近い単語も、ところどころにある。


 今すぐ読めるわけではない。

 それでも、一つずつ覚えていけば、きっと届く。


 最初は、そう思っていた。


 けれど父は、早くからその考えをたしなめた。


「似ている言葉ほど、間違える」


 父はそう言って、古い商談記録を机に置いた。


「同じ綴りに見えても、向こうでは別の意味を持つことがある。発音が少しずれるだけで、まるで違う言葉に聞こえることもある。分かったつもりが一番危ない」


「……はい」


「特にヴェルニカは、港の国だ。言葉が短い。早い。余計な飾りを嫌う」


 ベルティア語は、王国らしく格式と礼儀を重んじる。

 文は整い、言い回しは丁寧で、遠回しな表現も多い。


 一方のヴェルニカ語は、港と市場で磨かれた言葉だった。


 短く。

 速く。

 必要なことから先に言う。


 分かっているつもりだった。


 けれど、紙の上で分かることと、その場で聞き取り、返すことは違う。


 それを本当に思い知るのは、もう少し後のことだった。



     ◇



 ヴェルニカは、王が治める国ではない。


 いくつもの有力な商家と、港を管理する評議会によって動いている国だ。


 船が着く。

 荷が下ろされる。

 帳簿が動く。

 契約が交わされる。


 そこでは、貴族の血筋よりも、約束を守れるか、数字を読めるか、損得を判断できるかの方が重い。


 私が通うことになったのは、ヴェルニカ商業院だった。


 ベルティアの王都で基礎の学院を卒業した者や、各地の商家で実務を学んだ者が、さらに通商を学ぶために入る学び舎である。


 商人、通訳官、契約官、港湾管理に関わる者たちを育てる、実務寄りの学院だ。


 学院は男女混合で、講義室には商家の子息や若い実務官見習いも多いという。


 ただし、遠方から来た女子学生は、学院指定の宿舎で暮らすことになっていた。


 宿舎には、各国や地方から集まった令嬢たちの小さな輪がある。

 食堂にも、談話室にも、夜の勉強会にも、そこでの作法がある。


 父は、その話を聞いて少し眉を寄せた。


「学問だけでは済まないな」


「はい」


「言葉だけでも苦労するだろうに、食堂の席順、会話の入り方、誘いを断る言い方まで違うだろう。覚えることは山ほどある」


「覚えます」


 私がそう答えると、父はため息をついた。


「お前はすぐ、覚えます、と言う」


 責める声ではなかった。


「できなければ、できるまでやればいいと思っているだろう」


「……違いますか」


「間違ってはいない。だが、それだけで全部を背負おうとするな」


 父はそう言って、机の上に一冊の古い帳簿を置いた。


 革表紙の角が擦り切れた、古い商談記録だった。


「私が若い頃、ヴェルニカの商人とやり取りした記録だ。今の言い回しとは違うだろうが、契約の癖は少し分かる」


「見てもよろしいのですか」


「そのために持ってきた」


 父は帳簿を私の方へ押しやった。


「ただし、今日は一刻だけだ。夜更かしは禁止」


「お父様」


「返事は」


「……はい」


 私は素直に頷いた。


 けれど、その夜も結局、灯りの前からなかなか離れられなかった。



     ◇



 ヴェルニカへ行くと決めたのは、王都の学院を卒業する半年ほど前だった。


 卒業した春に、十八歳で海を越える。


 そう決まってから、私は学院の課題をこなしながら、空いた時間のほとんどを父の書斎で過ごすようになった。


 ヴェルニカ語の文法書。

 港で使われる定型句。

 品目表。

 関税率の控え。

 契約文の写し。

 父が若い頃にやり取りした商談記録。


 知らない語に印をつける。

 似た語を並べる。

 ベルティア語で意味を書き込む。


 何度も書き写し、声に出し、また読み直す。


 準備はしていた。


 少なくとも、私はそう思っていた。


 それでも、頁をめくるたびに、自分がこれから向かう場所の広さを思い知らされた。


 書物で覚えた言葉と、港で飛び交う言葉は違うのだろう。

 王都で丁寧とされる言い回しが、ヴェルニカでは遅いと取られることもあるのだろう。

 同じように見える語が、契約の中ではまったく別の重みを持つこともあるのだろう。


 分かっているつもりだった。


 その「つもり」が、あとでどれほど薄いものだったかを知ることになる。



     ◇



 出立の数日前、父は一束の書類を私に渡した。


 半年前から何度か見せてもらっていた港の取引が、ちょうど一区切りついたところだった。


「本当は現場を見せたかったが」


 父はそう言って、書類の一枚を指先で押さえた。


「今のお前には、まずこちらだ」


 それは、その取引で実際に使われた積荷目録の写しだった。


 知らない品名が並んでいる。

 数字も多い。

 端には、王都ではあまり見ない略記がいくつも書かれていた。


「読むだけならできるかもしれない。だが商いでは、読んだ先を考える必要がある」


「先、ですか」


「この品が遅れたら、誰が困るか。保管料はどこにかかるか。責任は売り手か、運び手か、受け取り手か。紙に書かれていることだけでは済まない」


 父の声は静かだった。


「ヴェルニカでは、それを早く求められる」


「はい」


「分からないときは、分からないと言いなさい」


 私は顔を上げた。


「分かったふりをして進める方が危うい。商いでは、見栄より確認の方が大事だ」


「はい」


「それから、体を壊すな」


「はい」


「それだけだ」


 父は短く言った。


 慰めるような言い方ではなかった。

 けれど、その方が父らしかった。


「お前は、できないことを恥じる癖がある」


 胸の奥が少し詰まった。


「……そうでしょうか」


「そうだ」


 即答だった。


「できないことより、できない自分を許せないのだろう」


 何も言えなかった。


 母を早くに亡くしてから、父は私をずっと一人で見てきた。


 多くを語る人ではない。

 けれど、私が無理をしているときは、たいてい気づいていた。


「リディア」


「はい」


「学びに行くのだ。完璧である必要はない」


 その言葉が、なぜか胸に痛かった。


「失敗してもいい。間違えてもいい。ただし、放置するな。恥ずかしくても調べなさい。悔しくても聞きなさい。それができるなら、行く意味はある」


「……はい」


 父は資料を棚へ戻した。


 それ以上、余計なことは言わなかった。


 けれど、その方が父らしかった。



     ◇



 出立の日の朝は、よく晴れていた。


 空は高く、雲は薄い。

 王都の屋根の色まで、いつもより明るく見えた。


 馬車のそばには、荷が積まれていた。


 衣類の入った箱。

 教本。

 辞書。

 父から預かった紹介状。

 ヴェルニカ商業院から届いた入学許可証。


 それらを見て、ようやく本当に行くのだと思った。


 胸の奥が、すっと冷える。


 怖い。


 そう思った。


 けれど、口には出さなかった。


 父はいつもより少し厳しい顔をしていた。


「無理はするな」


「はい、お父様」


「食事はきちんと取りなさい」


「はい」


「体調を崩したら、すぐに知らせなさい」


「はい」


「困ったことがあれば、学院の教官にも、宿舎の管理人にも、紹介状の相手にも頼ること」


「はい」


「何でも一人で片づけようとしない」


「……はい」


 返事が少し遅れたせいか、父は目を細めた。


「今の返事は信用できないな」


「お父様」


「お前は、自分で抱えた方が早いと思うところがある」


「そんなことは」


「ある」


 また即答だった。


 私は何も言えなくなる。


「行ってきなさい」


「……はい」


「胸を張って行け」


 そこで父は一度、言葉を切った。


「それでも、どうにもならなくなったら戻ってこい。戻ることと、投げ出すことは違う」


 私は、すぐには返事ができなかった。


「……はい」


 父はそれ以上言わず、私の肩を軽く叩いた。


 短い言葉だった。


 けれど、父の手の重みが肩に残った。


「行ってまいります」


 そう言うと、父は静かに頷いた。



     ◇



 サマンサとエドガーも、見送りに来てくれていた。


 サマンサは、私の両手を握りしめた。


「本当に行ってしまうのね」


「二年よ」


「二年は長いわ」


「手紙を書くわ」


「たくさん?」


「たくさん」


 そう答えると、サマンサは少しだけ安心したように笑った。


「エドガー様へのお手紙ばかりでは駄目よ」


「分かっているわ」


「本当?」


「本当よ」


「約束して。私にもちゃんと書いて」


 サマンサは、握った手に少しだけ力を込めた。


「嬉しかったことも、困ったことも、見つけたお菓子の話も、変わった花の話も、全部」


「全部は多すぎない?」


「多すぎるくらいでちょうどいいの」


 彼女は、いつものように少し大げさに言った。


「あなたはきっと、つらいことをつらいと書くのが下手だから」


 私は言葉に詰まった。


「そんなこと」


「あるわ」


 サマンサは微笑んだ。


「だから、私には少しくらい弱音を書いて」


 その言葉に、胸の奥があたたかくなる。


「ええ」


「帰ってきたら、二年分のお茶をしましょうね。王都の紅茶店で、朝から夕方まで」


「そんなに居座ったら、お店の方に迷惑よ」


「では、お菓子をたくさん頼めばいいわ」


 サマンサは笑った。


 その笑顔を見て、私はとうとう涙ぐんでしまった。


「泣かないで、リディア」


「あなたが泣かせるようなことを言うから」


「だって、寂しいんですもの」


 彼女は私の手を、もう一度ぎゅっと握った。


「でも、行ってらっしゃい」


 その声は、いつもより少しだけ真剣だった。


「あなたが頑張って帰ってきたら、誰より先に褒めてあげる」


「本当に?」


「もちろん。二年分、たくさん褒めてあげるわ」


 私は小さく笑った。


「子どもみたい」


「いいじゃない。大切な友達だもの」


 その言葉を、私は疑わなかった。



     ◇



 最後に、エドガーの前に立った。


 人目があるからか、彼は最初、私の手を取るだけだった。


 長い指が、私の手をそっと包む。


 それだけで、胸の鼓動が少し早くなった。


「リディア」


「……はい」


「手紙を待っている」


 静かな声だった。


「君から来た手紙は必ず読む。必ず返す」


「お忙しいのに」


「忙しさを理由にするほど、不誠実なつもりはない」


 その言葉に、胸の奥がきゅっと詰まった。


「君が向こうで見たものを、私にも分けてほしい」


「分ける、ですか」


「ああ」


 彼は少しだけ目元をやわらげた。


「君が覚えたものを、私にも教えてくれ」


「……はい」


「きれいに整えなくていい」


 彼は続けた。


「君はきっと、相手に心配をかけないように、言葉を選びすぎる」


 私は返事に困った。


 見透かされたような気がしたからだ。


「でも、私には少しくらい崩れた言葉を見せてくれていい」


「崩れた言葉なんて」


「いいんだ」


 彼の声が、少しだけ低くなる。


「私は、君が遠い場所でひとりで我慢している方が嫌だ」


 その一言で、胸の奥が熱くなった。


 言葉が出てこない。


 エドガーは、私の手をそっと持ち上げた。


 指先に、ほんの短く唇が触れる。


 それだけで、息が止まりそうになった。


「リディア」


 馬車へ乗る直前、彼はほんの少しだけ身を屈めた。


 そして、私の肩をやさしく抱いた。


 抱きしめる、というほど強いものではなかった。

 礼儀を越えすぎない、短い抱擁だった。


 けれど、彼の腕が背中に回った瞬間、体の内側が一気に熱くなる。


 外套越しなのに、触れられている場所が分かった。


 近い。


 彼の匂いがする。


 耳元に、低い声が落ちる。


「君なら大丈夫だ」


 静かな声だった。


「私が信じている。君は必ず、向こうで学んだものを自分の力にできる」


「……エドガー様」


「怖くなったら、私の言葉を思い出してくれ」


 背中に回された腕が、ほんの少しだけ私を引き寄せた。


 これ以上強く抱きしめれば、私が困ってしまう。

 そう分かっているように、彼の腕はぎりぎりのところで留まっていた。


 それなのに、足元が頼りなくなる。


「離れていても、私は君の手紙を読む」


 声が近い。


「君が見たものも、悔しかったことも、嬉しかったことも、私に聞かせてほしい」


 私は小さく頷いた。


 声を出したら、震えてしまいそうだった。


「君が泣きたくなる夜に、私の言葉が少しでも君を支えられるなら、私は何度でも書く」


 胸の奥が熱くなる。


 泣きそう、とは少し違った。


 息の仕方が分からなくなるような、甘い苦しさだった。


「私は、君が私の隣に立つ日を待っている」


 耳元で、彼は声をやわらげた。


「だから、怖がらなくていい。リディア。君はひとりではない」


 たったそれだけで、私はもう駄目だった。


 何か言わなければと思うのに、うまく声にならない。


「……はい」


 ようやくそう答えると、エドガーは私からそっと離れた。


 ほんの短い抱擁だった。


 それなのに、背中に触れた腕の感触も、耳元に落ちた声も、指先まで熱として残っていた。


 二年くらいなら頑張れる。


 そんなふうに、私は本気で思ってしまった。



     ◇



 馬車が動き出した。


 窓の外で、父と、エドガーと、サマンサが遠ざかっていく。


 父は静かに立っていた。

 サマンサは両手を振っていた。

 エドガーは、私を見ていた。


 私は何度も振り返った。


 見えなくなるまで、手を振った。


 王都の屋根が遠ざかる。

 通い慣れた道が遠ざかる。

 父のいる屋敷も、紅茶店も、庭園も、少しずつ後ろへ流れていく。


 寂しかった。


 怖くもあった。


 けれど、その痛みすら、少し誇らしかった。


 私は学びに行くのだ。

 変わって帰ってくるのだ。


 エドガーの隣に立てる人間に。

 サマンサに胸を張って報告できる人間に。

 父に、行かせてよかったと思ってもらえる人間に。


 そうなって帰ってくる。


 戻れる場所があると思っていた。

 待ってくれる人がいると思っていた。


 手紙を書けば、届く。

 言葉を送れば、返ってくる。


 そのときの私は、そう信じていた。


 信じていたからこそ、遠くへ行けた。

 信じていたからこそ、笑って旅立てた。


 それがどれほど残酷な勘違いだったのかを知るのは――


 私の手紙に、赤い花丸がつけられているのを見たときだった。

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