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第1話 帰る場所があると思っていた

 帰国したら、まず最初に伝えたい言葉があった。


 ありがとう、と。


 苦しい日々のあいだ、私は何度もエドガーからの手紙を読み返した。


 あの人の言葉は、遠い異国の地にいる私に、王都にはまだ自分の帰る場所があるのだと思わせてくれた。


 サマンサから届く優しい便りにも、何度となく救われた。


 眠れない夜にはエドガーの手紙を胸に抱き、泣きたい朝にはサマンサの封筒の端を撫でて、


 私はひとりではない。

 帰る場所は、ちゃんとある。


 そう言い聞かせてきた。


 帰国の日が、予定より少し早まった。


 もうすぐ戻ります、という手紙はすでに出してある。

 けれど、もう一通知らせを送るより先に、私自身が王都へ着けそうだった。


 そう思うと、かえって嬉しくなったのだ。


 驚かせたかった。


 帰ってきたのか、とエドガーが目を見開く。

 それから、ほんとうに嬉しそうに笑ってくれる。


 サマンサもきっと、嬉しそうに私の手を取ってくれるだろう。


 早く会いたかった。


 顔を見て、声を聞いて、伝えたかった。


 あなたたちのおかげで、私は頑張れたのだと。

 二年間、何度も折れそうになったけれど、あなたたちの手紙があったから、それでも立っていられたのだと。


 ――本当に、そう思っていた。



     ◇



「君には、もっと広い場所が似合う」


 留学を迷っていた私にそう言ったのは、婚約者である伯爵令息エドガーだった。


 春のやわらかな陽が差し込む庭園の東屋で、彼は白い石造りの長椅子に腰かけ、まっすぐ私を見ていた。


 私の家も、エドガーの家も、通商に関わる伯爵家だ。

 父同士の仕事の縁から婚約が決まった。


 家同士の結びつき。

 そう言ってしまえば、それまでの婚約だったのかもしれない。


 けれど、私はエドガーが好きだった。


 少し年上の彼は、私にはずっと大人に見えた。


 ただ立派なことを口にするだけではなく、言ったことを、きちんと形にする人なのだと、私は信じていた。


 私の努力を、ただの頑張りで終わらせず、意味のあるものとして見てくれる人だった。


 父はよく、彼のことを「商いをただの金勘定で終わらせない人だ」と評していた。


 その言葉を聞くたび、私は少し誇らしかった。

 この人の隣に立つのだと、胸の奥が明るくなるような気がした。


「隣国との通商は、これからもっと増える。外国の言葉だけじゃない。商いに使う言い回しや、契約の読み方まで分かる人間は少ない。君は向いているよ」


 向いている。


 その言葉が、どれほど嬉しかったことか。


 私は自分に特別な才があるとは思っていなかった。


 華やかな話術があるわけでもない。

 ひと目で誰かを惹きつけるような美貌や才覚があるとも思っていなかった。


 真面目だとは言われる。

 努力家だとも言われる。


 けれど、それは裏を返せば、努力しなければ何も得られないということでもある。


 分からないことは調べる。

 できないことは繰り返す。

 間違えたところは書き直す。

 人より遅いなら、人より長く机に向かう。


 そうやって積み上げることだけが、私にできることだった。


 私から努力を取ったら、何も残らない。

そんなふうに思っていた私に、彼は「向いている」と言ってくれた。


 その言葉が、思っていたより深いところに落ちた。


 胸の奥がじんわり熱くなる。

 嬉しい、と思うより先に、どうしてか少し泣きそうになった。


 だから、エドガーにそう言われたとき、何を返せばいいのか、すぐには分からなかった。


「でも、わたくしが行って、本当に意味があるでしょうか」


 ようやくそう尋ねると、エドガーは迷いなく答えた。


「あるに決まっている。君が学んだことは、君自身の力になる」


「それに、いずれ夫婦になるなら、私は君に支えてもらえると心強い」


「わたくしが、エドガー様を?」


「君が隣にいてくれるなら、私はきっと助けられる」


 そう言って、エドガーは少し目元の力が抜けたように微笑んだ。


 その一言と、無防備に見えたその表情が、心のいちばん弱いところへ触れた。


 それだけで、私は行こうと思った。


 単純だったのだと思う。

 けれど、そのときの私にとって、それは何より強い言葉だった。


 好きな人の役に立てる自分になりたい。

 彼の隣に立っても恥ずかしくない自分になりたい。


 本気でそう思った。


「もちろん、無理をしてほしいわけじゃない」


 エドガーはそう続けた。


「向こうで困ったことがあれば、すぐに手紙を書いてくれ。私で分かることなら返すし、必要なら父上にも相談する」


「そこまでしていただくわけには」


「君は私の婚約者だろう」


 静かな声だった。


「君は、自分のことを後回しにしすぎるところがある。遠慮するのは美点かもしれないが、頼ることまで遠慮する必要はない」


 その言葉に、思わず指先に力が入った。


 頼っていい。

 困ったときに手紙を書いていい。

 自分ひとりで全部抱え込まなくていい。


 そう言われたような気がした。


「手紙も、上手く書こうとしなくていい」


「それでは、読みにくいものになってしまいます」


「構わないよ。むしろ、そのままの方がいい。講義のことでも、街のことでも、困ったことでもいい。君が何を見て、何を考えたのかを知りたいんだ」


 私はすぐには返事ができなかった。


 そんなふうに言ってもらえるとは思っていなかったからだ。


「わたくしの困りごとばかり書いては、退屈ではありませんか」


「退屈なわけがない」


 エドガーの声には、迷いがなかった。


「君はいつも、相手に伝わるように言葉を選ぶだろう。そういうところを、私は好ましく思っている」


 好ましく思っている。


 その言葉が、しばらく耳の奥に残った。


「けれど、すべてを綺麗に包んでしまわなくていい。悔しかったことも、分からなかったことも、嬉しかったことも、書いてくれ」


 彼はまっすぐ私を見ていた。


「君がひとりで抱え込まないように、私にも分けてほしい」


 慕っている人に、そんなふうに言ってもらえる。


 それが嬉しくて、私は泣きそうになった。


「……はい」


 ようやくそう答えると、エドガーは満足したように頷いた。


「私も書く」


「エドガー様も?」


「ああ。君が向こうで心細くなった時、せめて私の手紙が少しでも支えになればいいと思う」


 彼は静かに言った。


「言葉だけで君を抱きしめることはできない。けれど、遠くにいても、君がひとりではないと思えるようにしたい」


 胸の奥にあった不安が、ゆっくりほどけていった。


「だから、必ず返事を書く。君が悔しかったことを書いてくれたなら、私は一緒に悔しがる。嬉しかったことを書いてくれたなら、私も一緒に喜ぶ」


 エドガーは、声をやわらげた。


「君がつらくなった時、私の手紙が君の心の拠り所になれるように、毎回、きちんと気持ちを込めて書くよ」


「……ありがとうございます」


「礼を言うことじゃない」


 彼は小さく笑った。


「君を待つ婚約者として、当然のことだ」


 その時の私は、もう十分だった。


 遠くへ行っても、手紙を書けば届く。

 返事が来る。

 その向こうに、この人がいてくれる。


 そう思えただけで、留学という言葉の重さが、かなり軽くなった。



     ◇



「行くべきよ、リディア。絶対に」


 そう言って背中を押してくれたのは、親友のサマンサだった。


 王都でも評判の紅茶店で、彼女はいつものように柔らかく笑っていた。


 華やかで、人目を引く。

 それなのに、不思議と近寄りやすい。


 それがサマンサだった。


 学院に入ったばかりの頃、彼女が周囲から微妙に距離を置かれているのを見たことがある。


 誰かがはっきり悪口を言うわけではない。

 けれど、甘えた声や、男の子への距離の近さは、同年代の令嬢たちに確かに嫌われていた。


 彼女のまわりには、いつも薄い線が引かれていた。


 ある日の昼食時には、目の前の令嬢がわざとサマンサの盆に肘をぶつけた。

 スープが揺れ、パンが床に落ちた。


 周囲は一瞬だけ静まり、それから何事もなかったように目を逸らした。


 そういうやり方が、私は嫌いだった。


 私は彼女の向かいに座り、自分の盆を置いた。


「これ、半分こにしましょう」


 サマンサは驚いたように私を見た。

 それから、泣きそうなほど嬉しそうに笑った。


 それがきっかけで、彼女はよく私に声をかけてくれるようになった。


 昼食の席でも、休み時間でも、気づけば一緒にいることが増えていった。


 そうして私たちは、自然に友人になった。


「あなたが向こうで素敵になって帰ってきたら、私、誰より先に褒めてあげる」


 サマンサはそう言って、私の手を包んだ。


「それに、エドガー様だって嬉しいはずよ。お仕事を分かってくれる奥方って、きっと心強いもの」


「奥方だなんて、まだ早いわ」


「あら、婚約者でしょう?」


 サマンサはくすくす笑った。


 私は顔が熱くなって、胸の内がそわりと揺れた。


「それに、エドガー様のことなら任せて」


 不意にサマンサが、いたずらっぽく片目を細めた。


「あなたがいないあいだ、私がちゃんと目を光らせておくから。悪い女に取られないようにね」


「何を言っているの」


 思わず笑ってしまった。


「エドガー様は、そんな方ではないわ」


「分かっているわよ。だから冗談で言っているの。あの方は真面目で、外から見れば退屈なくらい誠実な方でしょう? でも時々、びっくりするくらい意地悪なことを言うのよね」


「……そうかしら」


 何気なくそう返すと、サマンサは一瞬だけ目を瞬いた。

 けれどすぐに、いつもの笑みに戻る。


「そうよ。あなたが気づいていないだけ」


 サマンサは楽しげに肩をすくめた。


「あなた、エドガー様のことになると夢中なんだもの。本人より、隣にいる私の方が、かえって冷静に見えているのかもしれないわ」


「……そういうものかしら」


「そういうものよ。それに、あなたと一緒に、何度もお茶をご一緒しているもの。少しくらい分かるわ」


 そう言われれば、そうだった。


 私はエドガーのことを、よくサマンサに話していた。


 それに、父の仕事の縁でエドガーが我が家を訪れたときや、王都の紅茶店で待ち合わせたときなど、三人で顔を合わせることは珍しくなかった。


 サマンサは人との距離を縮めるのが上手い。

 私が少し緊張してしまう場でも、彼女は自然に笑いかけることができる。


 エドガーも、彼女の明るさには少し気を許しているようだった。

 サマンサが軽口を言えば、彼は呆れたように返す。


 私が真面目に考え込んでいると、サマンサが笑って場を軽くしてくれて、エドガーが「そこまで悩まなくても」と穏やかに言うこともあった。


 私が少しむくれて抗議すると、サマンサは楽しそうに笑い、エドガーは仕方なさそうに肩をすくめる。


 私が大切に思う人たちが、同じ場所で笑っている。


 この先も、こんなふうに三人で笑えるのだろうと思っていた。


 けれど、ふと不安がこぼれた。


「……エドガー様と二年も離れるのよ。手紙だけで、気持ちは離れないかしら」


 言ってから、少し恥ずかしくなって、私はカップを持つ指先に力を込めた。


「離れないわよ」


 サマンサは軽く言った。


「あなたが書くんだもの。きっと毎回、真面目で、丁寧で……一生懸命なお手紙になるわ」


「一生懸命?」


「そうね。あなたの手紙って、そういうところがあるもの」


「私の手紙が?」


 思わず聞き返すと、サマンサは嬉しそうに目を細めた。


「ほら、前にも私の誕生日にお手紙をくれたでしょう? あれ、今でも時々読み返しているのよ」


「え」


 思わず瞬きをすると、サマンサは少しだけ照れたように笑った。


「嬉しかったの。あなたの手紙って、丁寧で、まっすぐで、読んでいると、あなたが目の前で話してくれているみたいなんだもの」


「そんな、大げさよ」


「大げさじゃないわ」


 サマンサはくすくす笑った。


「だから向こうへ行っても、ちゃんと私にも書いてね。エドガー様にばかり長いお手紙を書いて、私へのお手紙が短くなったら寂しいもの」


「そんなことしないわ」


「本当?」


 サマンサは少しだけ唇を尖らせた。


「あなた、もうエドガー様のことになると真面目に一直線なんだもの」


「そんなこと」


「あるわよ。あなた、自分では気づいていないだけ」


 サマンサは笑いながら、少しだけ身を乗り出した。


「今のあなたにとって、一番はエドガー様でしょう?」


 私は言葉に詰まった。


 一番。

 二番。


 そんなふうに、大切な人を順番に並べて考えたことがなかった。


「いいのよ。分かっているもの」


 戸惑っているあいだに、サマンサは先に言葉を継いだ。


「エドガー様からのお手紙を、あなたが一番待つことくらい」


「サマンサ、そんな言い方――」


「いいの。悔しいけれど、今は私が二番手ね」


「二番手だなんて」


「でも」


 彼女は指先でカップの縁をなぞりながら、くすりと笑った。


「最後はどうなるか、分からないわよ?」


「分からない?」


「人の気持ちって、案外、簡単に並び替わるものだもの」


 冗談のように言って、サマンサは私の手を包んだ。


「だから私、待っているわ」


 待つ、という言葉が少し不思議に聞こえて、私は思わず瞬いた。


「あなたが最後に戻ってくる場所が、やっぱり私だって思い出すまで」


 そう言って、彼女は甘えるように笑った。


 まるで、片思いの相手に振り向いてもらうのを待つような言い方だったので、私は思わず笑ってしまった。


「大げさね。あなたは最初から、私の大切な親友よ」


「本当?」


「もちろんよ。向こうへ行っても、あなたへの手紙はきちんと書くわ」


「約束?」


「約束するわ」


「よかった。私、あなたと手紙をやり取りするの、好きなんだもの」


 そう言って、彼女は私の手を包み直した。


「向こうで見たものも、嬉しかったことも、悔しかったことも、頑張ったことも、ちゃんと私にも教えてね」


「もちろんよ」


「それから、リディア」


「なあに?」


「あなたは、自分で自分を褒めるのが下手でしょう?」


 不意にそう言われて、私は言葉に詰まった。


「そんなこと……」


「あるわ。あなた、できたことより先に、できなかったことを数えるもの」


 本当に根が真面目なのよ、とサマンサは笑った。


「そういう努力家なところが、あなたの魅力でもあるのだけれど」


 否定しようとしたけれど、確かにそうかもしれない。


 うまく言葉が出なかった。


「だからね、あなたが頑張ったことは、私が代わりにちゃんと見つけてあげる」


「サマンサが?」


「ええ。エドガー様より先に、私が見つけてあげたいの」


「エドガー様より?」


「だって、私はあなたの大親友でしょう?」


 サマンサは少しだけいたずらっぽく目を細めた。


「あなたが本当に一生懸命頑張って帰ってきたら、誰より先に褒めてあげる。よく頑張りました、えらかったです、って」


 それから、彼女は楽しそうに笑った。


「とびきり大きな花丸だって、つけてあげるわ」


「花丸?」


「そう。誰より先に、私が」


 その言い方があまりに優しくて、胸の奥が少しあたたかくなった。


「子どもみたいね」


「いいじゃない。大切な親友だもの」


 サマンサは、包んだ手にほんの少しだけ力を込めた。


「あなたが大事にしているものは、私にとっても大事よ。あなたの頑張りも、エドガー様のことも、ちゃんと見ているわ」


「サマンサ」


「あなたの頑張りを一番に見つけるのは、私でいたいの」


 私は頷いた。


 エドガーがいる。

 サマンサがいる。

 手紙を書けば、二人に届く。


 離れていても、ちゃんと繋がっていられる。


 そう信じていた。

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