第18話 もう、疑いません
それから二か月ほど経った頃、エドガーとサマンサがそろってハルストン家を訪ねてきた。父はその日、商会へ出ていて留守だった。
取り次ぎに来た使用人には、最初、帰ってもらうよう伝えた。
「ですが、どうしても一度だけお嬢様にお会いしたいと。お帰りいただくよう申し上げても、玄関から動こうとなさいません」
ベルフォール以来、二人とは一度も顔を合わせていない。あの時は、近づかれるだけで胃がひっくり返りそうだった。肌が粟立ち、同じ空気を吸っていることさえ嫌だった。
今は、どうなのだろう。それだけが少し気になった。
「分かりました。応接室へ通してください」
そう告げてから、私は護衛を一人呼んだ。
応接室の扉を開けると、二人が同時に立ち上がった。椅子の脚が床を鳴らす。
「リディア」
エドガーが私を見た。次いで、その視線がすぐ後ろの護衛へ移る。動きが止まった。サマンサも護衛を見て、唇を結んだ。
以前なら、二人と会うために護衛を連れてくることなど考えもしなかった。エドガーの目が護衛から私へ戻る。サマンサも何も言わない。
今では、私一人で二人と会うことすら避ける相手になった。二人にも、その意味は伝わっただろう。
二人を改めて見ると、ずいぶん変わっていた。
エドガーは頬が削げ、目の下には濃い影が落ちていた。以前なら乱れ一つなかった髪も今日はまとまりを失い、上等な服を着ているのに、どこかくたびれて見える。
サマンサも、泣き腫らした瞼を化粧で隠しきれていなかった。頬は痩せ、艶やかだった巻き髪にも以前の輝きがない。明るい色を差した唇だけが浮き、あれほど目を引いた華やかさは消えていた。
「リディア」
エドガーがこちらへ出ようとした。護衛が一歩、私の前へ出る。エドガーの足が止まった。
二人を見ても、胃は何ともなかった。鳥肌も立たない。嫌なものを見たとは思う。けれど、それだけだった。
「どのようなご用件でしょうか」
先に口を開いたのはサマンサだった。
「私、領地へ行くことになったの」
「そうですか」
「いつ戻れるかも分からないの。向こうで縁談を探すって。二十も年上の人とか、子供のいる人とか……私、そんなところへ行きたくない」
私は黙って聞いた。
「お願い。叔父様に言って。もう十分だって。あなたがこれ以上望んでいないって言ってくれれば、きっと――」
「お断りします」
サマンサが固まった。
「リディア……でも……私、王都を離れたくないの」
声が震える。
「そんな遠くへ行ったら、もうあなたに会えないかもしれない。私は、あなたのそばにいたいの」
「だから、叔父様に?」
「ここへ残してほしいって言って。お願い」
「いたしません」
「どうして……」
「私とあなたには、もう何の関係もありません。あなたの今後について、私が叔父様へお願いする理由はございません」
サマンサの唇が震えた。
私はエドガーを見る。
「エドガー様も、何かご用件が?」
「俺も領地へ行く」
「そうですか」
「支所だ。いつ戻れるかも分からない。その前に……会いたかった」
私は答えなかった。
「最初の頃の手紙は、俺が書いていた」
エドガーは続けた。
「君に会いたかったのも、頑張ってほしかったのも本当だ。万年筆も……嬉しかった。売りたくなかった」
サマンサが横からエドガーを睨んだ。
「何よ。今さら自分だけ惜しんでたみたいな顔しないでよ」
「売ってもいいかと言い出したのはお前だろ」
「そっちこそ、売る時はひどいこと言ってたじゃない」
「サマンサ!」
「何よ。今さら私のせいにしないでよ」
エドガーの顔が険しくなる。
「最初にベルフォールへ誘ったのはお前だろ」
「ほら、やっぱり私のせいにする!」
「事実を言っただけだ」
「行くって決めたのはあなたでしょう!」
「今はやめろ」
「自分だってその気だったくせに、今さら何よ!」
エドガーは言い返しかけ、そこで私が見ていることに気づいたらしい。私へ視線を戻した。
「……リディア。君が父上に一言言ってくれればいい」
「何をですか」
「これ以上は望んでいないって。俺を王都に残してくれって」
「王都に残りたいのですか」
「……離れたくない」
「王都から?」
「君からだ」
「君がここにいるのに、俺だけ何年も戻れないところへ行くのは嫌だ。君の近くにいたい」
一度、言葉が途切れる。
「だから、父上に君から言ってほしい。君の力が必要なんだ」
妙に懐かしい言葉だった。
君なら大丈夫だ。君の力が必要だ。君にしか頼めない。
言われるたび、嬉しかった。期待されていると思った。役に立てると思って、もう少し頑張れた。
ベルフォールで、エドガーはそれを鐘だと言っていた。本人は今、自分がまた同じ言葉を使ったことにも気づいていないのかもしれない。
「もう、誰にも何を言っても信じてもらえない」
エドガーが低く言った。
「父上もそうだ。謝っても弁解しても、また自分に都合のいいことを言ってるんだろうって、何もかも疑ってかかる」
「私もよ」
サマンサがすぐに続けた。
「叔父様も全部疑うの。謝っても、反省してるって言っても、今さら信じられるかって。何を言っても、どうせ口先でしょうって」
私は二人を見た。それから、昔そうしていたように柔らかく微笑んだ。
「まあ……皆に疑われて、お辛いのですね」
二人の顔が上がる。
「かわいそう……」
「リディア……」
エドガーが、やっと分かってもらえたというように私を見た。サマンサの目にも、みるみる涙が溜まっていく。
「ご安心ください」
二人の顔に希望が戻った。
「私はもう、お二人を疑うこともございませんから」
「……本当?」
「本当か?」
「ええ」
私は微笑んだまま頷いた。
「疑うというのは、本当かもしれないと思うからすることでしょう?」
二人の顔が固まる。
「私はもう、お二人の言葉が本当なのか嘘なのかを確かめようとも思いません。本当でも、嘘でも、どちらでもいいのです」
「……リディア」
「助けません。口添えもしません。心配もしません」
サマンサが首を振った。
「そんな……」
「王都へ戻れるのか。領地で何をするのか。誰と暮らすのか。そこで幸せになるのか、何もかも失うのか。その先でどんな人生を送られようと、私には何の関係もございません」
「……嫌だ」
エドガーの顔色が変わった。
「それだけは嫌だ。怒っていてもいい。嫌われていてもいい。許さなくてもいい。だけど、俺を君の人生の外に出さないでくれ」
「リディア、私も……!」
サマンサも身を乗り出す。エドガーが私へ一歩近づき、護衛がすぐに間へ入った。
「近づかないでください」
私がそう言うと、エドガーはその場で止まった。
ベルフォールでも、同じことを言った。あの時は、触れられると思うだけで身体が拒んだ。
今は違う。身体はもう、あの時のような反応をしなかった。ただ、もうこちらへ来てほしくなかった。
「私が何を言われれば喜ぶのか。何を言われれば頑張るのか。お二人は、よくご存じだったのでしょう」
「リディア、それは――」
「ですが、今は違います」
私はエドガーを見る。
「どんな言葉をいただいても同じです。鐘を鳴らしても、私は動きません」
彼の顔から血の気が引いた。
「餌をいただいても同じです」
「……リディア」
「何も要りません」
サマンサが激しく首を振った。
「いやよ。そんなのいや。少し前まで、あんなに私たちのことを――」
「今は違います」
「お二人がこの先どこまで落ちていかれるのか、私は知りません。奈落の底まで行かれるのでしたら、どうぞご自由に」
二人とも黙った。
「引き止めるつもりも、引き上げるつもりも、見届けるつもりもございません」
私は微笑んだ。
「ただ、そこから私のところへ這い上がってこられないよう、蓋だけはきちんと閉めておきますわ」
「リディア……」
サマンサの目から涙が落ちた。
「私、あなたが好きなのよ。今だって好き。あなたに嫌われたままなんて嫌なの。もう一度、親友に戻りたい」
「お願い……」
それが本心なのか、この場で私を引き止めるための言葉なのか。もう、どちらでもよかった。
もし本当に私が好きなのだとしても、なおさら分からない。ばれなければ裏切ってもいい。大切な相手の真心を笑っていい。信頼されているから、その信頼を利用して遊んでいい。
そんな考え方で人を好きになれること自体、私には理解できなかった。たぶん、根本から違うのだ。分かり合う必要もない。関わらなければいい。
エドガーが掠れた声で言った。
「俺は今も君が好きだ」
「そうですか」
「……もう、それを聞いても何も思わないのか」
「はい」
エドガーの顔が歪んだ。
「本当に、もう戻ってきてくれないのか」
「戻りません」
「俺がどれだけ君を好きでも?」
「それは、私があなたの元へ戻る理由にはなりません」
私は立ち上がった。
「では、失礼いたします」
「リディア!」
振り返らない。
「待ってくれ!」
護衛とともに扉へ向かう。
「あなたが余計なことを言うからよ!」
背後でサマンサの声が弾けた。
「俺が!?」
「最初から私のせいみたいに言うから!」
「最初にベルフォールへ誘ったのはお前だろ!しかも、リディアが出発したその日に!」
「まだ言うの!?」
「事実だ!」
「来るって決めたのはあなたでしょう!私が首に縄でもつけて連れていったの!?」
「『ばれなければ大丈夫』って最初に言ったのはお前だろうが!」
「私のせい!?」
私は廊下へ出た。扉はまだ閉まりきっていない。
「リディアにはできないからって、あの子にしたかったことを私で散々やってたのは誰よ!」
「お前だって乗り気だっただろうが!もっとって煽ってたのは誰だ!」
「何よ、それ!あの子の前じゃ善人ぶった顔して、私のところじゃ飢えた犬みたいだったくせに!」
「お前がそういう俺を面白がったんだろ!」
「あなたも楽しんでたでしょう!」
二つの声がぶつかる。私は歩いた。
「手紙に赤を入れ始めたのもお前だ!」
「止めもしなかったくせに! A+だの花丸だの、あなたもあの子が自分にどれだけ夢中か確かめてたでしょう!」
「毎回嬉しそうに採点してたのはお前だろ!」
「だから何よ!一緒にあの子の気持ちを弄んでたでしょう!」
「お前ほど面白がってなかった!」
「何よ今さら!」
「リディアの婚約者じゃなかったら、誰があんたなんか相手にするもんですか!」
「何だと」
「あなたがリディアの男だったからよ!」
「最低だな」
「あなたに言われたくない!」
「それで俺と寝たのか」
「そうよ!」
サマンサの声がさらに高くなる。
「あの子があんなに大事にしてるエドガー様が、こんなクズでよかったわ! 本当に誠実で、リディアだけしか見ない男だったら、私なんか入れなかったでしょう!」
「うるさい!」
「図星じゃない!」
まだ声が続く。
「それに、あんたこそ何よ! リディアの前じゃ、あの子が欲しがる立派な婚約者。お父様の前じゃ出来のいい跡取り。私の前じゃ、私が面白がるクズ!」
「やめろ」
「結局いつだって、相手が欲しがる顔してるだけじゃない!」
「それ以上言うな」
「リディアに化けの皮が剥がれて、嫌われるのが怖かっただけでしょう!」
「サマンサ!」
「あの子には綺麗なところだけ見せて、汚いところは私のところへ持ってきた卑怯者!」
「お前こそ何なんだ!」
今度はエドガーの声だった。
「親友のふりして何でも聞いて、俺の名前を使ってリディアの恋人にまで入り込んで!」
「何よ!」
「お前は、俺とリディアの間に、お前の入り込めないものがあるのが嫌だったんだろ!」
「違う!」
「違わない。親友として何でも話してもらうだけじゃ足りなかった。俺に向ける気持ちにまで、自分も入りたかったんだろ!」
「違うって言ってるでしょう!」
「結局、お前はリディアにとって特別でいたかったんだろ。誰より近くて、何でも話してもらえて、必要とされる自分でいたかった!」
「ちが……」
「じゃあ、それが全部なくなった今でも好きなのか!?」
「さっき言われてただろ。もうお前とは何の関係もないって。親友でもない。必要ともしてない。それでもリディアが好きなのか!」
私は廊下を曲がる。
「この先、別の女を親友って呼んで、そいつに何でも話すようになっても、それでも好きなのか!」
「やめて!」
「答えろよ!」
「じゃああなたはどうなのよ!」
サマンサの声が追いかけてくる。
「あなたもさっき言われてたでしょう! もう戻らないって!」
「あの子が二度とあなたを好きにならなくても!?信じなくても!あなたのために何もしなくても!」
「黙れ!」
「別の男を好きになっても、それでも好きなの!?」
「黙れって!」
「答えなさいよ!」
二人の声はまだ続いていた。けれど、もう言葉として拾う気にはならなかった。
何かが後ろでキャンキャンと騒いでいる。それだけだった。
道端の泥が、そこで何を言い争っているのかなど興味はない。誰かに踏まれるのか、雨に流されるのか、そのまま乾いていくのか。どれでもいい。
ただ、うっかり踏んで靴を汚したくない。
私のところへさえ来なければ、それでいい。
背後では、まだ二人の声がしていた。私は一度も振り返らなかった。




