第19話 それぞれのその後
王都を離れてから半年も経たないうちに、サマンサには新しい縁談が持ち込まれた。
相手はサマンサより二十歳近く年上だった。家柄も資産も申し分なく、広い領地を持つ、この地方では名の知れた家の当主でもある。ただし、二度の結婚歴があった。二人の妻とは、どちらもすでに離縁していると聞かされた。
初めて会った男は、想像していたよりずっと穏やかだった。
「あなたのことはいろいろ聞いています」
サマンサの指が膝の上で動いた。
「……そうですか」
「安心してください。私は、世間の噂だけで人を決めつけるつもりはありません」
男は柔らかく笑った。
「あなたは本当は、とても情の深い女性なのでしょう。大切に思う相手に一生懸命になりすぎて、少し間違えてしまっただけだ」
サマンサは顔を上げた。王都を離れてから、そんなふうに言われたのは初めてだった。
「過ちの一つや二つで、その人間のすべてが決まるわけではありません。私は、あなたのことをきちんと知った上で、大切にしたいと思っています」
「……ありがとうございます」
叔父はその縁談を断らなかった。ほどなくして婚約が決まり、男は「結婚までまだ時間があるのだから、今のうちに屋敷や土地に慣れておいた方がいい」とサマンサを自分の屋敷へ招いた。叔父も、その方がよいだろうと了承した。
男の屋敷へ移って間もなく、最初に用意されたのはドレスだった。
「これを私に?」
「君に似合うと思ってね」
上等な生地で仕立てられたドレスだった。翌週には靴、その次にはアクセサリーが部屋に増えていた。下着まで一式揃えられた時、サマンサはさすがに箱を前にして戸惑った。
「下着まで、あなたが選ばれたのですか」
「店に選ばせたよ。私が希望を伝えてね」
「そこまでしていただかなくても……」
「何を言っているんだ。これから私の妻になる人なんだ。服も、下着も、アクセサリーも、できるだけ良いものを身につけてほしい。それくらいさせてくれ」
男は嬉しそうだった。
数日後、サマンサは衣装棚を開いて首を傾げた。王都から持ってきたドレスが何着かなくなっている。
「以前の服は?」
「古いものは整理してもらったよ」
「まだ着られましたけれど」
「でも、新しい方が君に似合う」
「……そうですか」
「気に入らなかった?」
心配そうに尋ねられ、サマンサは首を振った。
「いいえ」
「よかった」
男は安心したように笑った。
食事でも似たようなことが増えた。
「それはもう十分だろう」
「……これですか?」
「ああ。君は甘いものが好きなんだね」
「ええ。今日はもう一つ――」
「駄目だよ」
幼い子を諭すような口調だった。男は笑顔のまま菓子皿を遠ざける。
「身体を大切にしてほしいんだ。好きだからといって、好きなだけ食べていいわけではないだろう? 君には健康でいてもらいたいんだよ」
何を着るのか。何を食べるのか。何を買うのか。どこへ行くのか。誰から手紙が来たのか。誰へ返事を書くのか。男が知りたがることは、少しずつ増えていった。
「私は君のことを全部知っていたいんだ」
ある日、男はそう言ってサマンサの手を取った。
「好きなものも、嫌いなものも。何を着るのかも、何を食べるのかも、誰と親しくしているのかも。せっかく縁があって君を迎えるんだ。余すところなく知って、全部大切にしてあげたい」
その頃、サマンサは近隣の令嬢と少しだけ話すようになっていた。何度か茶を飲み、一度だけ町へ出かける約束もした。リディアとはまるで違う。まだ友人と呼ぶほどの相手ですらない。それでも、他愛のない話をしている間だけは、空いたままのところがほんの少し埋まるような気がした。少なくとも、その時間だけは穏やかだった。
ところが、ある頃から相手の態度が変わった。会えば挨拶はするが、足を止めて話そうとはしない。約束していた外出も、急な用事ができたと断られた。
あとになって、婚約者が先方の家を訪ねていたことを知った。
「どうして、あの方のお宅へ?」
「ああ、そのことか」
「何をお話しになったのですか」
「たいしたことではないよ。君は今、環境が大きく変わったばかりだから、あまり頻繁に連れ出さないでもらいたいとお願いしただけだ」
「私は、あの方と出かけるのを楽しみにしていました」
「分かっている」
「では、どうして……」
「誰と付き合うかは大切なことだからね」
男はごく当たり前のことを説明するように言った。
「君にとって良い相手なら、私だって喜んで付き合ってもらうよ。そうでない相手なら、君が傷つく前に私が気をつけてあげた方がいい」
「良いかどうかを、あなたがお決めになるのですか」
「君のためなら、そのくらいはしてあげたい」
男は本当に親切をしたつもりらしかった。
さらにしばらくして、今度は王都から持ってきた箱がなくなった。サマンサは衣装箱の中も、机の下も、棚の奥も探したが見つからない。
「あの……私が王都から持ってきた箱をご存じありませんか」
夕食のあとで尋ねると、男はすぐに思い出した。
「ああ。あれか」
「どこにありますの?」
「もうないよ」
「……ない?」
「中に入っていたものも、全部処分してもらった」
サマンサは動かなかった。
「全部……ですか」
「そうだよ」
「あの中には、大事なものがたくさん入っていたのに」
声が大きくなった。
「どうして……どうして勝手にそんなことをするのですか」
「サマンサ」
男は怒らなかった。むしろ、取り乱した子供を宥めるように手を伸ばした。
「王都から持ってきたものだろう?」
「だから何ですの」
「見れば、いろいろ思い出してしまうじゃないか」
「……」
「君はもう、王都へ戻って以前のように暮らすわけではないんだ。昔のものを抱えていたら、そのたびにつらくなるだけだろう?」
「でも、あれは……」
「私は、君が悲しむのを見たくないんだよ」
男はサマンサの手を包んだ。
「これから必要なものなら、私がいくらでも用意してあげる。もっと良いものをね。服も、下着も、アクセサリーも。使うものも、食べるものも。君に一番合うものを私が用意してあげる」
「……」
「友人だってそうだよ。君にとって本当に良い相手なら、私も大切にする。そうでない相手なら、君が傷つく前に遠ざけてあげる」
「私に聞かずに?」
「わざわざ君を悩ませる必要はないだろう?」
男は微笑んだ。
「私は、君のことを全部愛してあげたいんだ」
サマンサは何も言えなかった。
そんなある朝、部屋を出ようとしたサマンサは、扉の横に護衛が立っていることに気づいた。夕方になっても男はそこにいた。
「なぜ、私の部屋の前にまで護衛がいるのですか」
「君の安全のためだよ」
「屋敷の中ですけれど」
「何があるか分からないからね」
婚約者は紅茶を飲みながら、何でもないことのように続けた。
「以前の妻が、ある朝いなくなったことがあるんだ」
サマンサは顔を上げた。
「……いなくなった?」
「何も言わずに屋敷を出てね。私があれだけ何不自由なく暮らさせてやったのに」
男は困ったように息をついた。
「一人目とは離縁している。今は隣国で暮らしているらしい。二人目も離縁の手続きは済んでいるが、屋敷を出たきり、今もどこにいるのか分からない」
「今も?」
「ああ。探しているよ」
「どうして……」
「話さなければならないことがあるからね」
その時だけ、男の目から笑みが消えた。
「あの人は、何か大きな勘違いをしたままなんだ。見つかったら、今度こそきちんと分からせないと」
しばらくして、またいつもの穏やかな顔に戻った。
「でも、君には関係のない話だ」
男はサマンサの手を取った。
「君は、私を裏切ったりしないだろう?」
サマンサは答えなかった。扉の外には護衛がいる。王都へ戻れる見込みもない。叔父はこの婚約を良縁だと言い、今のサマンサを受け入れてくれるだけでもありがたいと思うべきだと言った。
「サマンサ?」
男は笑ったまま、返事を待っていた。
「返事は?」
「……はい」
「そうだろう」
男は満足そうに笑った。
◇
エドガーが送られたのは、レイフォード家の領地でも端に近い場所だった。その中でも、さらに隅にある小さな部署で、本家の重要な取引に触れることはない。
回ってくるのは、古い帳簿、倉庫の在庫、細かな仕入れ、回収の遅れた代金、長く放置された小口の取引先。本家の人間が経験を積むために送られる部署ではなく、昔から、扱いに困った者や本家に置いておきたくない者が回される場所だった。
それでもエドガーは働いた。
誰より早く来て帳簿を洗い直し、滞っていた取引先へ自分から足を運んだ。小さな契約を一つずつ拾い、回収不能と思われていた代金まで取り戻した。
売上は上がった。
「さすがレイフォード様です。この部署でここまで数字が伸びるとは思いませんでした」
「次の案件もお願いできますか?」
「ええ」
「助かります。これはレイフォード様にしか頼めなくて」
そう言われるたび、エドガーは引き受けた。
ここで結果を出せばいい。
最初はそれだけだった。けれど、本当に数字が伸び始めると、少しずつ期待するようになった。周囲は能力を認めてくれている。任される仕事も増えている。前年よりこれだけ成果を出したのだから、本家にも報告は届いているはずだ。
あと少し。もう少し結果を積めば、何かが変わるかもしれない。
その日も、エドガーは遅くまで仕事をしていた。
今期の数字をまとめた報告書を仕上げ、前年を大きく上回る数字を見て、何度も計算を確かめる。
悪くない。
これなら、と少しだけ思った。
報告書を提出し、帰ろうと廊下へ出た。
もうほとんどの職員は帰っていたが、休憩用の小部屋には何人か残っていたらしい。
茶でも飲みながら話しているのか、扉の向こうから男たちの声が聞こえてきた。
「またレイフォード様が取ったんだって?」
「ああ。三件まとめて」
「よく働くなあ」
「本当に。あの人が来てから、ここもずいぶん数字がよくなった」
エドガーの足が止まった。
「でも、あれだけ成果出したら、本家へ戻る話も出るんじゃないか?」
「ないない」
笑い声がした。
「何で?」
「知らないのか? 本家じゃ弟君をもう後継として動かしてる」
「正式に?」
「取引先への顔見せも始まってる。上の連中も、次は弟君ってことで話を進めてるらしいぞ」
「じゃあ、レイフォード様は?」
「もういないものとして進めてるってさ」
エドガーは息を詰めた。
「でも、これだけ数字出してるぞ」
「今さら戻したところで、またあの件を掘り返されるだけだろ」
「ああ。商会は信用商売だもんな」
「そういうこと」
「じゃあ、ずっとここ?」
「上の人間が言ってたぞ。ここで問題なく働いてるなら、このまま置いておけばいいって」
「……それだけ?」
「それだけ」
また笑い声がした。
「本人、戻るつもりで頑張ってるんじゃないか?」
「たぶんな」
「誰か教えてやればいいのに」
「馬鹿。余計なこと言って、やる気なくされたら困るだろ」
「それもそうか」
「今のままでいいんだよ。頼めば何でもやるんだから」
「確かにな」
「『レイフォード様にしかお願いできません』って言えば、だいたい引き受けるし」
「ああ。『あなた様ならできます』も効くぞ」
笑い声がした。
「ほんと便利だよな」
「伯爵家の坊ちゃんなんだから雑には扱えない。ちゃんと餌をやっとかないとな」
エドガーは動かなかった。
餌。
その一言だけが耳に残った。
――大事な餌だ。
自分の声が蘇った。
青白い花の栞。
さらに、別の言葉が浮かぶ。
君なら大丈夫だ。
君の力が必要だ。
君にしか頼めない。
褒められるたびに、もっと働いた。必要だと言われれば断らなかった。自分にしかできないと言われれば、なおさら結果を出そうとした。
その先に、自分の望むものがあると思っていた。
けれど、誰も何も約束していなかった。
本家ではもう、弟が後継として歩き始めている。
ここは、本家へ戻るための場所ではなかった。
戻さないために置かれた場所だった。
「例の面倒な案件も頼んじまうか」
まだ声が聞こえる。
「誰が言う?」
「俺が言うよ」
「何て?」
「いつものでいいだろ」
男が笑った。
「『レイフォード様にしかお願いできません』」
また笑い声が上がった。
エドガーは、その場からしばらく動けなかった。
◇
ベルフォールでの一件から、季節がひと巡りした。
父から執務室へ呼ばれたのは、よく晴れた日の午後だった。
「オルディス商会との取引だが、先方から正式に話を広げたいと連絡が来た」
「本当ですか」
「ああ」
父が一枚の書類をこちらへ寄せた。
オルディス商会。留学中、ロラン講師から紹介され、私が世話になった商会だった。帰国後、父がヴェルニカ方面の取引先を探していると知って、その名を出したのは私だった。
最初は小さな取引だった。何度か品を送り、書簡を交わした。それが少しずつ続き、扱う品目も量も増えていった。
「これまでの取引にも問題はない。次は単発ではなく、継続して扱う話になる」
私は書類を開いた。品目と数量だけではなく、船便、保管、検品、引き渡しの条件まで並んでいる。
「一度、向こうで条件を詰める必要がある。商会から数人出す」
「はい」
「お前にも同行してもらいたい」
私は顔を上げた。
「私も、ですか?」
「ああ。そもそも向こうとの縁を持ってきたのはお前だ。それに、ベルティアとヴェルニカ、両方の商習慣を知っている人間がいた方が話が早い」
父は書類の一か所を指した。
「先方も同じ考えらしい」
そこには、オルディス商会側の担当者の名があった。
アルノ。
思わず、その文字を見つめた。
「……アルノ様が担当なのですね」
「知っているのか」
「はい。留学中、オルディス商会で一番お世話になった方です」
「なら話は早いな。先方からも、お前に来てもらえるなら助かると返事が来ている」
オルディス商会を離れた日、アルノと交わした言葉を思い出した。
またどこかでお会いできれば嬉しいです。
ええ。また、どこかで。
あの時は、本当にどこかで会えたらいいと思っただけだった。まさか、互いの商会の仕事で再び同じ机につくことになるとは思っていなかった。
「出発は来月だ。船で五日ほどかかる。向こうにはしばらく滞在することになる」
「分かりました」
私は書類を閉じた。
「参ります」
「頼んだ」
「はい」
それだけで話は終わった。
執務室を出て、手にした書類へもう一度目を落とした。
ヴェルニカ。
以前は、学ぶために渡った国だった。
今度は留学生ではない。
ハルストン商会の仕事を持って向かう。
向こうには、もう一度一緒に仕事をする相手もいる。
私は書類を抱え直し、歩き出した。
来月。
私はもう一度、ヴェルニカへ行く。




