第17話 零点のその後
ベルフォールでの一件からほどなくして、二人の未来は目に見えて崩れ始めた。
最初に決まったのは、エドガーとの婚約破棄だった。
レイフォード伯爵は、あの日の言葉どおり、一度も私にエドガーとの話し合いを求めなかった。謝罪の手紙と必要な書類、それから賠償についての申し出だけが、父のもとへ届いた。
金額を聞いたとき、私は思わず父を見た。
「……こんなに?」
「当然だ」
父は平然としていた。
「婚約を壊しただけではない。お前の二年を利用し、真心を踏みにじった。その分まで含めて話をつけた」
「……はい」
「金で戻るものではないが、だからといって取らずに済ませる理由もない」
ハルストン家は、代々、商いで財を築いてきた家だ。父にも、その血はしっかり流れているらしい。
さすが、お父様だった。
エドガーが失ったのは、婚約者だけではなかった。
あの日、ベルフォールで父親から告げられた『跡取りとしても不合格だ』という言葉は、その場限りの叱責ではなかった。
レイフォード伯爵はほどなくして、家の重要な仕事からエドガーを外した。それまで彼が同席していた領地経営の話し合いにも、取引先との会合にも呼ばれなくなり、代わりに弟が父親の隣へ座るようになった。正式に、次代の伯爵家を継ぐ者として弟を育てることも決まった。
エドガーは、跡取りではなくなった。
幼い頃から、自分が継ぐのだと思っていた家。そのために身につけてきた知識も、人脈も、立ち居振る舞いも。その先にあるはずだった未来が、消えた。
商会長の判断も変わらなかった。エドガーを将来、商会の重役として迎える予定だった話は、そのまま白紙になった。
延期でも、再検討でもない。なくなったのだ。
『信用、零点です』
あの日の言葉を、私は思い出した。
信用は、相手に信用できると思わせれば成立する。エドガーはそう言って笑っていた。
一度、信用できない人間だと思われてしまえば、その理屈はそっくり逆に働く。どれほど誠実そうな顔をしても、どれほど立派な言葉を並べても、もう以前のようには受け取ってもらえない。
それまで声をかけられていた商会関係者や若い後継者たちの集まりからも、少しずつ彼の名が消えた。
顔を合わせれば挨拶はする。伯爵家の人間を、わざわざ正面から侮辱する者はいない。
商売の話は振られない。取引先を紹介されることもない。重要な話が始まれば、いつの間にか自分だけが外にいる。
もう誰も、エドガーに大切なものを預けようとはしなかった。
サマンサの縁談も、すぐに白紙になった。
あの日、隣室で話を聞いていた夫人は、帰宅したその日のうちに家族へ話したらしい。
『夫の前で妻らしく振る舞っていれば、疑われない』
自分の息子の妻になるはずだった娘が、そう言って笑っていたのだ。受け入れられるはずもなかった。
その頃には、王都にも噂が広がり始めていた。
赤い花丸。A+。親友が婚約者の筆跡を真似て書いた手紙。婚約者からの贈り物を売った金で支払ったベルフォールの部屋代。婚約者の愛情を「餌」にたとえて笑っていたこと。妻になったあとも、貞淑なふりをしていれば疑われないと話していたこと。
誰が最初に口にしたのかは知らない。あの場には、両家の当主も、商会長も、サマンサの縁談先の夫人もいた。そこから誰か一人に話が伝われば、その先は早かったのだろう。
実際に私との婚約は破棄され、サマンサの縁談も消えた。エドガーは跡取りから外され、商会長も手を引いている。そこまで揃えば、ただの悪意ある噂だと思う者はほとんどいなかった。
サマンサのもとへ、新しい縁談が持ち込まれることもなくなった。茶会には呼ばれない。夜会でも、親しかった令嬢たちの輪には入れない。新しく親しくなろうとする者もいない。
とりわけ、娘を持つ母親たちは彼女を警戒した。
親友から聞いたことを、その婚約者へ流す。その婚約者と関係を持つ。それでも何も知らない顔で、親友のそばに居続ける。
そんな相手を、自分の娘の近くへ置きたいと思う者はいなかった。サマンサの叔父も、彼女を王都の社交へ連れ出さなくなった。
最後には、二人とも王都を離れることが決まった。
サマンサは、叔父から領地の屋敷へ移るよう命じられたという。表向きは、噂が落ち着くまで。戻る時期については、何も決められていなかった。
王都で新しい縁談を探すことも、すでに難しくなっていた。そのため叔父は、領地へ移ったあと、そちらで改めて相手を探すつもりらしい。
以前なら候補にも入らなかったような縁談まで、話に上がっていると聞いた。サマンサより二十年以上年上で、すでに子のいる男性。妻に先立たれ、後妻を探している者。王都の社交とはほとんど縁のない、地方に暮らす相手。
もちろん、まだ何も決まってはいない。それでも、華やかな王都で、自分の望む相手を選んで嫁ぐはずだった未来は、もう残っていなかった。
一方のエドガーは、レイフォード伯爵領の外れにある支所へ移ることになった。
名目は、領地経営の実務を学ばせるため。
跡取りの座を失い、父の仕事から外され、商会で予定されていた重役の道まで消えた今、その名目を額面どおりに受け取る者はいなかった。王都の中枢から遠ざけるための措置だった。
そこで何年過ごすのかも、いつ戻されるのかも聞かされていないという。
エドガーは婚約者を失い、跡取りの座を失い、商会での将来を失った。サマンサは縁談を失い、社交の場を失い、王都での居場所を失った。
婚約者として零点。親友として零点。信用も零点。
ベルフォールでつけられた採点は、きちんと現実になった。
その頃、私にはまったく別の話が来ていた。
「リディア。これを見てくれないか」
父が差し出したのは、ヴェルニカの商会から届いた契約案だった。
「私がですか?」
「ああ。向こうで商会の仕事もしていたんだろう」
「お手伝い程度です」
「それでも、私よりは分かる」
ずいぶんあっさりと言われて、私は目を瞬いた。
書類を受け取り、一頁ずつ目を通していく。ヴェルニカ語そのものは、もう問題なく読めた。
オルディス商会で教わったのは、ただ文章を読めるようになることではなかった。誰が何を引き受けているのか。何をはっきり約束し、何を曖昧に残しているのか。丁寧な言葉の陰に、逃げ道が作られていないか。
私は一文の上で指を止めた。
「お父様」
「何だ?」
「ここ、確認した方がいいと思います」
父が隣から書類を覗き込む。
「どこだ?」
「この納期です。十五日までとなっていますけれど、こちらが考えている十五日とは意味が違うかもしれません」
「どういうことだ?」
「向こうの港町では、この言葉は品物がこちらへ渡る日ではなく、船が港へ着く日を指すことがあるんです」
「では、十五日に受け取れるとは限らない?」
「はい。荷下ろしや検品まで含めれば、そのあとになる可能性があります」
父はもう一度、契約案へ目を落とした。
「向こうで覚えたのか?」
「はい。オルディス商会で何度か似た書類を見ました」
「なら、先方にはどう確認すればいい?」
「こちらが十五日に受け取りたいのであれば、港への到着ではなく、引き渡しまでを十五日とするよう、書面ではっきりさせた方がいいと思います」
「分かった」
父は迷わず契約案を私の前へ戻した。
「そのように返事を作ってくれ」
「私が?」
「できるだろう?」
そう言われて、少しだけ息を止めた。
「……はい」
それが最初だった。
次に頼まれたのは、ヴェルニカから届いた書簡の確認だった。その次は、契約条件の比較。納期や引き渡しの言葉が、こちらと同じ意味で使われているとは限らない。そんな時には、どこまでを書面ではっきりさせるべきか、私にも意見を求められるようになった。
やがて父の取引先からも、「一度、リディア嬢にも見てもらえないだろうか」と言われるようになった。
ヴェルニカ語が読めるからだけではない。向こうで暮らし、実際の商いに触れたからこそ分かる、言葉の使われ方や受け取り方があった。
オルディス商会で身につけたそうした知識が、帰国した今、そのまま役に立っていた。
初めてあの商会へ行った日のことを思い出す。
自分の知っていることが役に立ったと言われただけで、嬉しくて泣いてしまった。アルノ様を困らせた。
それから何度も書簡を読み、間違え、教えてもらった。分からないことは聞いた。気になることがあれば、そのままにしなかった。そうして少しずつ、仕事として認めてもらえるようになった。
初めて手当を受け取った日の、小さな革袋を今でも覚えている。あの頃は、そのお金でエドガーやサマンサに贈り物を選ぶことが嬉しかった。
帰国したら、エドガーには頑張った自分を見てもらいたかった。サマンサには、向こうであったことをたくさん話したかった。
そのために選んだ贈り物の一部は、二人に売られた。
それでも、あの二年で積み上げた経験まで、二人に食い潰されることはなかった。
父から渡される書類は、いつの間にか少しずつ増えていた。父の取引先から、私の名を出してもらえることも増えた。私が確認したことで、条件を見直すことになった契約もあった。
オルディス商会で覚えたことが、今度はここで役に立っている。
ベルフォールを出た日、私は、留学先で歯を食いしばって積み重ねてきた二年間まで、二人に踏みにじらせるつもりはないと思った。
今は、少し違う。
そもそも、二人に奪えるようなものではなかったのだ。
あの二年で得た力だけは、誰にも奪えなかった。




