第16話 婚約者でも親友でもありません
私がそう告げると、しばらく誰も口を開かなかった。
「……リディア」
エドガーがこちらへ一歩踏み出した。
「それ以上、近づかないでくださいませ」
足が止まる。
「……え」
「近づかないでください」
エドガーの顔から表情が消えた。
「待ってくれ。俺は君と離れたくない。君を失いたくないんだ」
何も知らず、ただエドガーに会いたいと思っていた私なら、その言葉をどれほど嬉しく思っただろう。
遠い国で、エドガーから届いたものだと信じていた手紙を何度も読み返した。たった一行に励まされ、次の便りを待った。
「私は二年間、あなたからの手紙を待ち続けていました」
エドガーが息を止める。
「でも、もう待ちません」
「リディア――」
「あなたの言葉も、あなたから届く手紙も、欲しくありません。何を考えているのかも、どうしてこんなことをしたのかも、知りたいとは思いません」
「そんなふうに言わないでくれ」
声が掠れた。
「最初の頃は、ちゃんと俺が書いていた。全部がサマンサの言葉だったわけじゃない。俺が考えて書いた言葉だってある。これからは全部俺が書く。サマンサとも会わない。だから――」
「必要ありません」
「……必要ない?」
呆然とした顔だった。
「今さら、あなたがどんな言葉を紡いでも、読みたいとは思いません。あなたから手紙が届くことさえ、今は嫌なのです」
エドガーの唇が動いた。
「それに、あなたに触れられることなど考えたくもありません」
あれほど会いたかった人だった。帰ったら真っ先に顔を見たいと思っていた。それなのに今は、近くに立たれることさえ耐え難い。
「エドガー様。あなたとの婚約を破棄いたします」
「……そんな」
「もう、あなたの婚約者ではいたくありません」
「リディア……」
「じゃあ、私は?」
サマンサが声を上げた。
「エドガーとの婚約を終わらせるのは分かったわ。でも、私まで一緒にしないわよね? 私たちは親友でしょう?」
「いいえ」
サマンサの顔が強張った。
「もう、あなたの親友ではいたくないわ」
「そんな……。お願い、リディア。私、あなたのことは本当に大切なの。向こうにいる間だって、お手紙をずっと待っていたわ。何度も読んだ。あなたからもらったものだって、ひとつも捨てずに取ってあるのよ」
それが本心かどうかなんて、もうどうでもよかった。
留学前、サマンサは言った。嬉しかったことも、困ったことも、見つけたお菓子も、変わった花も。全部、自分にも教えてほしいと。最後に戻ってくる場所が、やっぱり自分だと思い出すまで待っていると。
「だから、あなたにも伝えておくわ」
「……何を?」
「これから私が何を見て、何を喜んで、何に悩んで、誰を好きになるのか」
私は続けた。
「あなたには何ひとつ話しません。知ってほしいとも思わないわ」
サマンサの顔から血の気が引いた。
「じゃあ……私じゃない誰かに話すの?」
「そうなるでしょうね」
「その人が……あなたの親友になるの?」
「そういう方に出会えたなら」
「そんな……。だって、今まで私だったじゃない。嬉しいことも、つらいことも、恋の話だって……」
「ええ」
「それを今度は、別の誰かに話すの?」
「そうね」
「嫌よ……」
かすれた声が落ちた。
「私の知らないリディアが増えて、その人だけが知っていることが増えていくの?」
「それはもう、あなたが気にすることではないわ」
「リディア……」
「私はあなたのところへ戻りません。あなたとも、これで終わりよ」
サマンサが何か言おうとした、そのときだった。
「……待ってくれ」
エドガーの声がした。見ると、さっきよりも顔色が悪い。
「今、誰を好きになるって言った?」
「これからの話です」
「そうじゃない」
エドガーが首を振った。
「俺以外の誰かを好きになるってことか?」
部屋が静まり返った。
レイフォード伯爵は一度目を閉じ、眉間を押さえた。サマンサの叔父も、彼女を見たまま言葉を失っている。商会長と縁談相手の母親も、ただ二人を見ていた。
呆れるという段階すら通り越して、理解不能な二人を前に、誰も何から指摘すればいいのか分からないようだった。
けれど、エドガーには周囲など目に入っていないらしい。
「君が……俺以外の男を?」
「そうなることもあるでしょうね」
「そんな……」
本当に考えたことすらなかったのだろう。
「いつか、私を尊重して、大切にしてくださる方と出会えたなら、その方を私も大切にして生きていきたいと思っています」
「リディア、それは――」
「私が誰を好きになるのかも、誰を親友と呼ぶのかも、これからどんな人生を送るのかも」
二人を見る。
「お二人には、もう関係ありません」
エドガーの顔が歪み、サマンサは小さく首を振った。
「これからの私の人生に、一切関わらないでください」
「リディア!」
「お願い、待って!」
二人の声が重なった。
「お二人とも、さようなら」
「リディア、待ってくれ!」
「リディア!」
背後から声が追ってきたが、振り返らなかった。
父とともに廊下へ出ると、ベルフォールの主人が少し離れたところで待っていた。私たちを見ると、何も尋ねずに深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
「いえ」
それ以上の言葉はなかった。
階段を下り、玄関を出る。外の空気が頬に触れた。
何歩か進んだところで、父が私の肩をぽん、と叩く。
「……お父様」
「帰ろう」
「はい」
それだけで十分だった。
私は父と並んで歩き出し、一度も振り返らないままベルフォールをあとにした。




