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第14話 取り繕うふたり

「俺も……いや、私も君に会いたかった」


 エドガーが答えた。


「私もよ、リディア。会いたかったわ」


 サマンサも、胸元を押さえたまま続ける。


 私は二人を見た。


「ですが、お邪魔したようですね」


「違っ……待ってくれ、リディア。君がもうすぐ帰ってくるからって、サマンサ嬢と相談していたんだ。どう迎えれば君が喜ぶか」


「そうなの。そしたら、急に虫が胸元に入ってきたの。私、びっくりしてエドガー様にしがみついてしまって……取っていただいていたところなのよ」


 サマンサがすかさず乗った。あれほどの格好を、たった一匹の虫で説明するつもりらしい。


「そういうことだ。君が思っているようなことじゃない」


 エドガーは真顔で言い切ると、立ち上がった。


「リディア。会いたかった」


 その途端、ずるり、と腰元が下がった。


「……」


 エドガーが慌ててトラウザーズを引き上げる。前の留め具は外れたままだった。襟元も大きくはだけ、釦がいくつも外れている。


 エドガーは自分の格好を見下ろした。


「……今日は少し暑かったから。胸元も、腰元も、少し緩めていただけだ。本当だ。やましいことは何ひとつない」


 三月も終わりとはいえ、今日は肌寒い。


 私の視線がさらに下へ移った。トラウザーズの前は、隠しようもなく盛り上がっている。


 エドガーも気づいたのだろう。一瞬だけ固まり、咄嗟に両手で前を隠して、わずかに前かがみになった。


「き……君のことを考えていたんだ。もうすぐ会えると思ったら、その……」


 その先が続かなかった。


 私はただエドガーを見返した。エドガーの口元が引きつる。


「いや、その……とにかく、帰ってきた君を二人で驚かせようと相談していたんだ」


「ええ。大変驚きました」


 エドガーが言葉に詰まった。


「そ……そういう意味じゃなくて……」


「では、どういう意味でしょう」


「……リディア」


 ようやく、苦しい言い訳が途切れた。


 それでもまだ、取り繕うつもりらしい。トラウザーズを慌てて直し、襟元まで整える。そして顔を上げた時には、表情まで変わっていた。


 優しい顔だった。


 私が不安になった時、失敗して落ち込んだ時、留学を前に怖くなった時。何度も私を安心させてくれた、あのエドガーの顔。


「リディア。私を見てくれ」


 声まで同じだった。低く、柔らかい。


「会いたかった。二年間、ずっと君が帰ってくるのを待っていた。もう王都にいると知っていたら、私の方から会いに行った」


 口元には、私が好きだった微笑みまで浮かんでいる。


 その顔を見た瞬間、腕に鳥肌が立った。つい数日前なら、この顔を見ただけで安心しただろう。


 エドガーが手を差し出す。


「おいで」


 本当のことを知る前なら、その一言だけで、私はきっとその手を取っていた。


 エドガーも、それを知っている。


 だからまだ、この顔なら私が戻ると思っているのだ。


 私は一歩下がった。


 伸ばされた手が止まる。


「……リディア?」


 エドガーの表情が、目に見えて揺らいだ。


「待ってくれ。私は本当に君を――」


 そこで、はっと目を見開いた。


「あ……そうだ」


 まるで助かったとでもいうように、慌てて上着の胸ポケットへ手を入れる。


「ほら。これを見てくれ」


 手のひらに載っていたのは、小さな青い花のしおりだった。私が留学先から送ったもの。


 ――大事な餌。


「ちゃんと持ってる。君からもらってから、ずっとだ」


 私によく見えるように差し出す。


「これを見れば分かるだろう? 私はちゃんと君を――」


 ああ。今度は、それを使うのか。


 これを見せれば、また私が言うことを聞くとでも思っているのだろうか。


 私にはもう、そのしおりが餌にしか見えなかった。


「そうよ、リディア」


 今度はサマンサが一歩出た。胸元を押さえながら、それでも私を気遣う親友の顔を作っている。


「急にこんなところを見たら混乱するわよね。あなた、こういう時、一人で考え込んでしまうでしょう? ちゃんと私に話して。変なふうに思い込んだままにしないで」


 いつもの声だった。


 気味が悪かった。ほんの少し前まで、壁一枚隔てた向こうで私の手紙を笑っていた口から、いつもの優しい言葉が出てくる。


 サマンサの視線が卓上へ動いた。開かれた私の手紙と、赤いペン。


 慌てて手紙を伏せようとした拍子に、ペンが転がる。


「あっ」


 床へ落ちる寸前で掴んだ。


「リディア、これは……」


 乱れた髪が頬へかかり、サマンサはそれを払った。握ったままだった赤いペンの先が白い頬をすっと横切り、斜めに一本、赤い筋が残った。


「ねえ……待って。もしかして、扉の前にいた時から、こっちの声が聞こえてた?」


 サマンサの顔が強張る。


「いつから? どの辺りから聞こえてたの?」


 私は答えなかった。


「待って。何を聞いたの? もし途中から聞こえてたなら、そこだけで決めないで。冗談で言ったこともあるし、言い方が悪かったところもあるの。前後を知らなかったら、違う意味に聞こえることだってあるわ」


 声がどんどん早くなる。


「だから、最初からちゃんと説明させて。全部、順番に話すから。そうしたらちゃんと分かってもらえるわ」


「リディア。サマンサの言うとおりだ」


 エドガーもすぐに続いた。


「何を聞いたのかは分からない。だが、君は一部分だけで人を決めつけるような人じゃないだろう。相手にも事情があるかもしれないと考えて、きちんと話を聞こうとする。私は、君のそういうところを誰より知っている」


 また、あの優しい目を向けてくる。


「だから好きなんだ」


 今度は、私の性格まで利用しようとするのか。


「私は君を愛している。それは何も変わっていない」


「私だってよ、リディア。あなたが大好き。だからお願い。今だけは私たちの話を聞いて」


 二人とも、ひどく真剣だった。


 何を言っているのだろう、この二人は。


 この期に及んで、目の前の事実まで別の意味にすり替えて、まだ私を丸め込めると思っているのか。


 すぐに言い訳をやめて謝っていたなら、許すことはなくても、ここまで軽蔑することはなかったかもしれない。


 虫が入った。暑かった。私のことを考えていた。


 呆れるほど無理のある言葉を並べ、それでもなお、優しい婚約者と親友の顔を取り繕っている。


 滑稽だった。


 ――どうして私は、こんな男をあれほど愛していたのだろう。


 そして、こんな女を、かけがえのない親友だと思っていたのだろう。


 あれほど私の気持ちを笑いものにしておいて、今さら何をそんなに必死になることがあるのか。


 ――ああ、そうか。


 エドガーは、奴隷より都合のいい婚約者を失うのが惜しいのか。


 サマンサは、親友が大事にしている男と寝る楽しみを失うのが惜しいのか。


「リディア」


 エドガーがまた近づいた。


「お父上に話すつもりか? もしそうなら、まだ待ってくれ。今のまま話したところで、余計にこじれるだけだ。まず私たちで話そう」


「そうよ。本当の事情も分からないまま伯爵様に話したって、話がややこしくなるだけよ。まず私たちの話を聞いて」


「リディア。まさか、婚約のことで気が変わったりしてないよな?」


 エドガーが探るようにこちらを見る。


「婚約は君と私だけで決めたものじゃない。ハルストン家と我が家の間で結ばれたものだ。君だって、それくらい分かっているだろう」


 エドガーの声には、まだ自信が残っていた。


「それに俺は……いや、私は、いずれ大商会で重役を任される人間だ。そうなれば、ハルストン家にとっても悪い話じゃない。君だって、そのくらい分かるだろう」


「私だって、とても良い縁談が進んでいるのよ。手紙でも話したでしょう?」


 サマンサも続いた。


「家柄も申し分ないし、お相手も優しい方で、先方のお母様にも本当によくしていただいているの。そんな大切な縁談があるのに、本気で親友の婚約者とどうにかなるはずないでしょう?」


 サマンサの頬には、まだ赤い筋が残っていた。


 二人の言葉が途切れるのを待った。


「リディア」


 エドガーが手を伸ばす。


「もういいだろう。こっちへおいで」


 声だけは、また甘かった。


「誤解なら解けばいい。ちゃんと話そう。まだ間に合う」


 まだ間に合う。


 何に。


 今度は手を差し出すだけではなく、そのまま私を抱き寄せようとした。


 私はさっと横へ避けた。


 エドガーの腕が空を切る。


「……リディア?」


 信じられないものを見るように、こちらを振り返った。


 まさか私が避けるとは、考えてもいなかったらしい。


 勢いのまま前へつんのめり、体勢を立て直そうとしたが間に合わない。


 鈍い音がした。


 低い卓の縁へ、鼻をぶつける。


「っ……!」


「エドガー!」


 サマンサが駆け寄った。顔を上げたエドガーの鼻から、血が流れている。


「血が出てるわ!」


 サマンサがその袖を掴んだ。


 エドガーはサマンサの手から腕を引き、手の甲で鼻元を乱暴に拭った。その拍子に、頬へ赤い筋がつく。


 視線は、私から外れなかった。


「リディア、待ってくれ」


 すぐに身を起こし、こちらへ向き直る。


「頼む。そんなふうに避けないでくれ。ちゃんと話を聞いてくれ。何でも説明する。君が聞いたことも、今見たことも、全部だ。だから……頼む。私を信じてくれ」


 エドガーはひどく取り乱していた。


 私に避けられたことが、それほど予想外だったのだろうか。何をそこまで必死になることがあるのだろう。


 もう、知りたいとも思わなかった。


「リディア、本当にお願い。最初から順番に話せば、きっと分かってもらえるから」


 私はサマンサを見た。


「ええ、そうね」


 サマンサの顔が、ほっと緩んだ。


「でしょう?」


「途中からでは、分からないこともあるものね。最初から全部聞くのが一番だわ」


「そうなの!」


 私は卓上の手紙へ目を落とした。


「それから、エドガー様。サマンサ。私のお手紙を、毎度ご採点いただきありがとうございました」


 サマンサの緩んだ表情が凍りついた。

 エドガーの眉がぴくりと動いた。


「……え?」


「せっかくですもの。私ばかりでは、不公平ですものね」


 私は扉へ手をかけた。


「今度は、お二人にも採点を受けていただこうと思いまして」


 エドガーの眉が寄った。


「……採点?」


「では――」


 扉を開く。


 廊下の向こうへ目を向けた。


「どうぞ、こちらへ」

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