第13話 知らなければ優しい婚約者と大切な親友
ベルフォールに着くと、主人は玄関で待っていた。
「お二人はまだお見えではございません。十分余裕をもってお越しいただいておりますので、ご安心ください」
主人はそう言って、奥へ続く廊下を示した。
「こちらの小部屋は、今日はこのままお使いください。お時間はお気になさらず」
「分かりました」
「お二人がお見えになりましたら、こちらのことは知らせず、いつもご利用になっている隣の客室へご案内いたします」
主人について廊下を進んだ。案内されたのは、エドガーたちがいつも使う客室の裏手にある、普段は使われていない小部屋だった。もとは一続きだった部屋を、改装の際に二つに分けたものだという。そのため、隣の客室との間にあるのは厚い石壁ではなく、薄い木板の間仕切りだった。
「本来、こちらはお客様にお貸ししている部屋ではございません。ですが、先日伺ったお話と、ハルストン伯爵からのお手紙を拝見した上で、今回は私の責任でお使いいただきます」
「ありがとうございます」
「普通に話している声でしたら、こちらでも十分聞き取れます。ただ、声を潜められますと、さすがに難しいかと」
「それで十分です」
主人は一礼して部屋を出た。私は壁際の椅子へ腰を下ろした。
しばらくして、階段を上がってくる二人分の足音が聞こえた。聞き慣れた男女の声が近づく。隣の扉が開き、やがて閉まった。少しして、ソファが軋んだ。
「これ。先日届いたやつだ」
エドガーの声だった。
「今回もちゃんと開けずに持ってきたのね」
「前に俺が先に読んだら、お前が散々文句を言っただろ」
「だって、採点する前に読まれたらつまらないもの」
「俺宛てなんだが」
「分かってるわよ。貸して」
やがて、サマンサの声がした。
「いよいよ帰ってくるのね。……本当に書いてある。『今回が最後のお手紙になるかもしれません。次はもう、顔を見てお話しできますから』ですって」
「そうか」
「それじゃあ、これが最後の採点になるかもしれないわね。名残惜しいわ」
サマンサがひとつ咳払いをして、芝居がかった声で読み始めた。
「『この二年で、私はあなたを想う気持ちがどれほど深くなっていたかを、思い知りました』」
続けて、次の一文を読む。
「『海より深い、なんて書いたら笑われてしまうかもしれませんね。それでも、本当なのです』ですって、ふふっ」
小さな笑い声がした。
「海より深いなんて。可愛い。私への手紙には、こんなロマンチックなこと書いてくれないのに。ちょっと妬けるわ」
「恋文なんだから当たり前だろ」
「そうねえ。じゃあ、ここはB。情熱は十分。でも少しロマンチックすぎます、と。……『恋に恋する乙女』も付けておこうかしら」
今ごろ、口にした評価をそのまま赤いペンで書き込んでいるのだろう。見えなくても分かった。
「あ、この次はあなた好みね。『帰ったら、今度こそ少しでもあなたの役に立てる私でいたいのです』」
「そこは花丸だな」
「ずいぶん高評価」
「帰ってきたら、向こうで身につけたものは全部使わせる。語学も契約の知識も、使えるものは一つ残らずな。二年間かけて身につけたんだ。搾り取れるだけ搾り取らないともったいない」
「まあ。あの子、本当に必死で覚えたのよ?」
「必死で身につけたなら、なおさら使わないともったいないだろ。俺の隣に立つために覚えたんだ。俺の役に立てるって分かったら、本人だって喜ぶ」
「仕事を山ほど渡されても?」
「『君の力が必要なんだ』って頼めばいい。あいつは俺が困ってるって分かったら、そう簡単に嫌とは言わない」
「ずいぶん自信があるのね」
「それに、もし嫌だって言ったら、その日は引けばいい。押す必要なんてない。俺が困ってるのを見てれば、そのうち自分から考え直す」
「それで、やっぱり私がやりますって?」
「あいつの方からな」
サマンサが笑った。
「本当、リディアの調教師ね」
「扱い方を知ってるだけだ」
「仕事だけならまだいいけど。夫婦になったら、夜の営みの方もいろいろ付き合わせるつもりでしょう? 前に言ってたじゃない。リディアとも、人には言えないようなことまでいろいろ試してみたいって」
「ああ」
「あなた、少し趣味が特殊でしょう。リディアが嫌がることもあるんじゃない?」
「無理強いはしない。嫌なら、その日はやめる」
エドガーはそこで言葉を切った。
「俺が無理やりさせる必要なんてないだろ。『君とだからしたいんだ』って言えば、あいつは考える。最初は戸惑っても、一つずつなら、そのうち向こうから『やってみます』って言うようになるさ」
「……それじゃあまるで、ご主人様のために何でもご奉仕してくれる奴隷みたい」
「奴隷じゃない。奴隷なら命令されて動くだろ。リディアは自分で選ぶ」
エドガーは、ごく当然のように否定した。
「じゃあ、奴隷より都合がいいのね」
「そうだ。リディアは奴隷じゃない。俺の婚約者だからな」
「それで、愛してるって?」
「愛してるよ」
迷いはなかった。サマンサが笑った。
「即答なのね。あなたの話を聞いてると、愛っていったい何なのか分からなくなってくるわ。そこまで利用する気でいて、それでもリディアを愛してるっていうんだから」
「別におかしなことじゃないだろ」
「だったら、どうして私と会うの?」
「何で、リディアを愛してるからって、お前と会うのをやめなきゃならないんだ?」
「リディアは嫌がるでしょう?」
「だから分からないように会うんだろ。バレなければ何も問題ない。知らなきゃリディアも傷つかない」
「そうね。私も知られないように上手くやるわ。知ったら、あの子、私のこと嫌いになるでしょう?」
「そりゃなるだろ」
「あなたとこうして遊べなくなるのも嫌だけど、それより、リディアに嫌われて離れていかれる方がずっと嫌」
「じゃあ、あいつが帰ってきたら、お前はどうするんだ?」
「どうするも何も、親友よ。二年間も頑張ったんですもの。いっぱい褒めて、抱きしめて、髪も撫でてあげるわ」
「その裏で俺と寝てても?」
「そうよ」
サマンサも迷いがなかった。
「あなたと同じ。あなたはリディアを愛したまま私と寝る。私もリディアを好きなまま、あなたと寝る。それだけでしょう?」
「まあな」
「私、本当にリディアが好きなんですもの。あの子、本当に可愛いんだから。重たいくらい一途で、生真面目で、変なところまで律儀で。好きでもない子の恋文に赤を入れたって、こんなに面白くないわ。リディアのだから楽しいのよ。あの子が一生懸命書いたものに、私が赤を入れるのが」
そして、何でもないことのように付け加えた。
「それに、好きな子が大事にしてる男と寝るのって、ぞくぞくするのよね」
「お前、相当歪んでるな」
「あなたにだけは言われたくないわ」
「この字も相変わらず綺麗ね。これ、何度も書き直したんでしょうね」
「そうだろうな。リディア、こういうのは納得するまで書き直すから」
「こんなに大事に書いたものが、今ごろ真っ赤になってるなんて夢にも思ってないでしょうね」
二人とも、冗談を言っているようには聞こえなかった。
愛している。可愛い婚約者だ。
大好き。大切な親友で、帰ってきたら抱きしめたい。
そう言いながら、私のいないところでは、私の真心を笑い、汚し、それを二人で楽しんでいる。どうして、その二つが同時に成り立つのか。私には分からなかった。
けれど二人にとっては、何もおかしくないらしい。私にさえ知られなければ、それでいいのだ。何も知らないままだったなら、エドガーはこれからも優しい婚約者で、サマンサは大切な親友だったのだろう。
そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが走った。
「それにしても、リディア、あなたのこと本当に信じてるわよね」
「ああ」
「こんな人だなんて、夢にも思ってないでしょうね。優しくて、誠実で、遠い国にいる婚約者をずっと待っているエドガー様」
「リディアの前では、ずっとそのエドガー様でいるつもり?」
「そのつもりだ。あいつが見てるのは、俺が見せてる男だからな」
「それを作ったのはあなたでしょう?」
「そうだな」
短い沈黙のあと、エドガーが言った。
「時々、ぐちゃぐちゃにしたくなる」
「リディアを?」
「さあな」
サマンサはそれ以上聞かなかった。
「ほんと、面倒な人ね」
「お前に言われたくない」
「まあ、私はそんなあなたでよかったけど」
「何だそれ」
「だって、あなたが本当にリディアの信じてる通りの、真面目で誠実な婚約者だったら、こんなことできなかったでしょう?」
「随分な褒め方だな」
「褒めてるのよ。あの子が大事にしてる男に、あの子の知らない裏の顔があるって、面白いもの。それに、リディアがあなたの話をする時の顔、昔からちょっと気に入らないし」
「嫉妬か?」
「さあね」
それ以上は答えなかった。
「でも親友っていいわよ。聞き出そうとしなくても、向こうから何でも話してくれるもの。怖かったことも、嬉しかったことも、誰にも言えないと思ったことまで」
その声には、からかう響きがなかった。
「私しか知らないリディアが増えていくのも好き」
やがて、サマンサが思い出したように言った。
「そういえば、あの子が出発した日のこと、覚えてる?」
「あの日か」
「あなた、ずいぶん立派だったわよ。『君なら大丈夫だ。私が信じている』って。それから、『リディア、君はひとりではない』。最後には抱きしめてたでしょう? こんなふうに」
隣でソファがぎしりと軋んだ。
「おい」
「いいじゃない。真似しただけ」
サマンサが笑う。
「あの子、顔を真っ赤にして、泣きそうなのに笑ってたもの。馬車が動いてからも何度も振り返ってた。最後なんて、あなたしか見てなかったわ。私もすぐそばにいたのに、見えてないみたいだった」
膝の上で、指先に力が入った。
「抱きしめられただけで、あれだけ嬉しそうにして。結婚して、その先までしたらどうなるのかしらね。私なんて、リディアがいない間に何度あなたと寝たかしら」
「数えてないな」
「でしょうね」
サマンサが笑った。
「そういえば、最初にここへ来たのも、あの日だったわね。あなたがリディアを見送った、その日の午後」
その声に、隠す気もない愉悦が混じった。
「あの日は特に良かったわ。今ごろリディアは馬車の中で、あなたに言われたことを何度も思い出してるんだろうなって考えたら、余計に燃えたもの」
「よくそんなこと考えながらできるな」
「あなたも随分楽しんでたじゃない」
「あいつはもう王都を離れてた。俺たちが何をしてようが、知りようもないだろ」
それだけだった。気持ちが悪い。けれど、今度は口元を押さえるだけで耐えた。
あの日の私は、馬車の中でエドガーの言葉を何度も思い返していた。
「こんなこと言ってる人が、今度は商会で大きな役を任されそうなんだから、世の中って面白いわね。商会長、あなたをずいぶん買ってるんでしょう?」
「まあな」
「あなた、相手が何を欲しがってるか見つけるの、本当に上手だもの。どんな言葉を聞きたいか、どんな人間なら信用したいか」
「分かれば簡単だ。誠実な男を求めてるなら、誠実に見える答えを出せばいい。信用なんて、相手に『こいつなら信用できる』と思わせれば成立するだろ」
「さすがね」
「お前も似たようなものだろ。縁談の方はどうなんだ」
「ああ。先方の奥様には、とても気に入っていただいてるわ。品があって、家庭を大切にしそうな娘ですって」
「結婚したら、俺とは会わないのか?」
「まさか。夫の前では、ちゃんと貞淑な妻をするわよ。リディアが何でも私に話してきたのに、二年間ずっとあなたとのことに気づかせなかったのよ? 夫に一つ二つ隠し事をするくらい、難しくないわ」
「随分な自信だな」
「妻らしく振る舞っていれば、わざわざ疑う人なんていないもの」
しばらくして、
「ねえ」
サマンサの声が、急に甘くなった。
「リディアが帰ってきたら、今までみたいに気軽には会えなくなるでしょう?」
「まあな」
「だったら、今日はゆっくりしましょうよ。帰ってくる前に」
「お前が手紙を読み始めたんだろ」
「最後になるかもしれないんですもの。きちんと採点してあげないと可哀想でしょう?」
「もう十分だろ」
「じゃあ、今度は私の番ね」
ソファが大きく軋んだ。少し間を置いて、もう一度、低くぎしりと鳴った。それきり、二人の声が途切れた。
私は膝の上の手を見た。
数日前まで、あの二人を信じていた自分まで消してしまいたかった。
けれど。
恥じるのは、私ではない。
私は立ち上がった。小部屋を出ると、廊下の先にはベルフォールの主人が待っていた。私が頷くと、主人は何も尋ねず、隣の客室の前まで案内して一歩退いた。
扉へ手をかける。
開いた。
扉の音に、二人がそろって顔を上げた。
サマンサは、ソファに座ったエドガーの膝に跨るように腰を下ろし、両腕を彼の首へ回していた。エドガーの片手はサマンサの腰に、もう片方ははだけた胸元へ差し入れられている。二人の顔は、唇が触れそうなほど近かった。
サマンサの服は片方の肩からずれ、エドガーの襟元も大きく開いている。
二人とも、すぐには離れなかった。私を見たまま、ぴたりと固まった。
卓上には、開かれた私の手紙と、赤いペンが見えた。紙の上には、ここからでも分かるほど赤い書き込みが増えている。
「……リディア」
先に声を出したのはエドガーだった。ようやく、サマンサの腰に置いていた手が離れた。
サマンサもそこでようやく我に返ったらしい。エドガーの膝から慌てて降り、ずれた胸元を両手でかき合わせる。けれど、片方の肩はまだ露わになったままだった。
「なぜ、ここに……まだ帰っていないはず……」
私はエドガーを見た。
二年前、馬車へ乗る直前、この人に抱きしめられた。帰ったら、一番に会いたい。海の向こうで、何度もそう思っていた。
「お会いしたくて参りました」




