第12話 売られた贈り物と残された手紙
父は、最後まで口を挟まなかった。
私の話が終わると、一度だけ深く目を閉じた。再び目を開いた時には、娘を案じる父ではなく、伯爵としての顔になっていた。
「このまま、何もせずに終わるつもりはありません」
声はまだ頼りなかった。それでも、父から目を逸らさずに続けた。
「エドガーとサマンサが、私との婚約中から何度も密会していたこと。二人で私の手紙を読み、笑いものにしていたこと。私やハルストン家まで侮るようなことを言っていたこと。きちんと確かめて、残しておきたいのです」
「残す?どうするんだ」
「ベルフォールへ行きます。二人がいつから、どのくらいの頻度であの部屋を使っていたのか。私が贈った品を、本当にあそこで売っていたのか。記録が残っているなら確かめます」
青い石を嵌めた銀のカフスが浮かんだ。帰国する少し前に送ったばかりのものだった。
「手紙に関わるものも、何か残っているかもしれません」
父の眉がわずかに寄った。
「そこまでしなくても、婚約は解消できる。二人がしたこともこちらで調べられるし、相応の責任を取らせることもできる。お前が自分で動く必要はない」
「分かっています」
「それでも、自分でやるのか」
膝の上で組んだ指に力が入った。
「私のことだから、自分でやりたいんです」
父は何も言わなかった。
「私が必死で過ごした二年間を、あの二人は笑っていました。私が頑張っているのを見て、思いどおりに動いていると。鐘を鳴らせば動く犬だと」
口にしただけで、あの笑い声が戻ってくる。
「私自身のことなのに、何もしないまま誰かに任せて終わるのは嫌なんです。あの二人にあそこまで踏みにじられて、それでも自分では何もしなかったら、私まで自分を粗末にすることになる気がします」
エドガーの隣に立ちたくて頑張った。サマンサにも喜んでほしくて、何度も手紙を書いた。
二年間、私は本気だった。
「だから、自分で見て、自分で残して、自分で終わらせたいんです。そうして初めて、この二年間も、自分自身も取り戻せる気がします」
父はしばらく黙っていた。やがて、小さく頷く。
「……分かった」
「ベルフォールの主人には、私から一筆書こう。ハルストン伯爵家の娘が、婚約に関わる事情を確認するために伺う。話を聞いてほしい、と」
「ありがとうございます」
「何を聞き、何を確かめるかは、お前が決めなさい」
「はい」
「やるなら、最後までやりなさい」
父から主人へ宛てた手紙が用意されると、私はベルフォールへ向かった。留学中、贈り物を送るたびに保管していた発送控えをまとめて持ち、侍女を一人伴った。
あの階段が見えた。私はそこを下りた。扉の向こうに二人を残して。
足が止まりかける。まだ、ここへ来るだけで気持ちが悪くなる。
それでも歩き、主人との面会を求めて宿の奥にある応接室へ通された。
父の手紙を読み終えた主人は、すぐには口を開かなかった。やがて便箋を畳み、机へ置く。
「事情は承りました。ただ、当館をご利用になるお客様について、何でもお話しすることはできません」
「承知しています」
私は発送控えを取り出した。
「二人があの部屋で何をしていたのかを聞き出しに来たわけではありません。まず、この品について伺いたいのです」
一枚の控えを主人の前へ置いた。
「婚約者のエドガーへ、私が送ったものです」
ベルフォールでは宿を営むかたわら、装飾品や高級な工芸品などの鑑定と買い取りも行っている。客が持ち込んだ品を買い取り、その代金を部屋代や飲食代へ充てることもできた。
主人が控えに目を落とす。
青い石を嵌めた銀のカフス。
差出人は、リディア・ハルストン。
「この宿で、この品を売るという話を聞きました。まだこちらにあるなら、見せていただけませんか」
主人は私と発送控えを見比べる。
「ご自分で発送された品だと分かる控えをお持ちなのですね」
「はい」
少し考えたあと、主人は使用人を呼んだ。
「確認だけでしたら」
ほどなくして、買い取り帳簿と小さな箱が運ばれてきた。
「買い取って間もない品ですので、まだこちらにございます」
箱が開かれる。
青い石を嵌めた銀のカフス。銀の台座には、細い蔓草のような彫りが入っている。
店で何度も見比べて選んだ。見間違えるはずがなかった。
「……これです」
私がエドガーへ送ったものだった。
主人が帳簿を開く。
「確かに、当館で買い取っております。代金は、その日に利用された部屋と飲食の支払いへ充てられています」
やはり。
サマンサが話していた通りだった。あのカフスは、本当に二人の逢瀬の代金になった。
「ほかにもございます」
主人が帳簿を遡った。
深い青の軸に銀細工を施した万年筆。革張りの手帳。そのほかにも、私の発送控えにある特徴と一致する品がいくつか出てきた。
一度ではなかった。エドガーは、私から届いた品を何度もベルフォールへ持ち込んでいた。
胃のあたりが重くなった。
万年筆を選んだ時は、商談で使ってくれる姿を想像した。手帳なら仕事の役に立つだろうと思った。カフスは、帰る日が近づいていることが嬉しくて選んだ。
どれも、喜んでほしかった。
店でどれにしようか迷っている時間さえ、私は楽しかった。遠くにいる私を、ほんの少しでも思い出してくれたら嬉しいと思っていた。
そのために働いて、そのお金で選んだ品々の横に、今は買い取り額が並んでいる。
「こちらも見ていただけますか」
今度は、サマンサへ送った品の控えを何枚か渡した。
銀縁に小さな花模様を彫った手鏡。花の香り袋。珊瑚色の石をつけた髪飾り。そのほか、彼女へ送ったものもある。
主人は記録を確認し、首を振った。
「ございません」
「一つも?」
「当方で買い取った記録は、一件もありません」
売られていたのは、エドガーへ贈ったものばかりだった。
あの部屋で、サマンサは言っていた。
私が一生懸命稼いだお金でエドガーのために買ったものを、二人の逢瀬に使う。それがいいのだと。
あれは、その場で思いついた遊びではなかった。
「……実は」
主人が万年筆の記録で手を止めた。
「この品を最初にお持ちになった時のことを覚えております」
顔を上げる。
「だいぶ前のことですので、正確な言葉までは保証できませんが」
主人は少し言いにくそうにした。
「女性の方が、これを売ってしまってよいのかと男性の方へ尋ねておられました。すると男性の方が、使っていると言えば信じる、あいつは見せてくれなどと言える女ではない、と。そのようなことを」
言葉が出なかった。
「女性の方は、ひどい婚約者ね、かわいそうに、とおっしゃっていたように記憶しております」
主人の眉間に皺が寄る。
「ですが、とても楽しそうに笑っておられた。失礼ながら、私はあのお二人に嫌悪を覚えました。それで、ずっと記憶に残っていたのです」
もしエドガーから、使っているよ、と言われていたら、私はきっと喜んだだろう。
商談で使ったのですか。書きやすかったですか。それくらいは聞いたかもしれない。
けれど、本当に持っているのか見せてほしいとは、きっと言えなかった。
悔しいけれど、エドガーはそれを分かっていた。私が彼を疑い、贈ったものが今も手元にあるのか確かめたりはしないと知っていた。
最初に贈った万年筆は、商会から初めて手当をもらい、それを貯めて買ったものだった。
エドガーが商談の席で使う姿を想像した。その手元に、私が選んだものがあれば嬉しい。
ただ、それだけだった。
それも、とっくに売られていた。
「それと三日前、あなたがこちらを出ていかれた時のことも覚えております」
「私を?」
「ひどくお顔の色が悪かった。お声をかける前に馬車へ乗られましたが」
主人が発送控えへ目を落とした。
「今日、お名前とこのカフスを拝見して、あの時のお二人の会話とつながりました」
リディアという名前。売られていた贈り物。そして、顔色を失ってここを出た私。
だから主人は、最初は断ったはずの私に、帳簿まで見せてくれたのだ。
「もう一つ、お見せしたいものがございます」
主人が使用人へ合図した。運ばれてきたのは、封をした薄い包みだった。
「お二人がお使いになった部屋を清掃した際に見つかったものです。忘れ物として預かっておりました。便箋の末尾に、リディアというお名前がございましたので」
主人が包みを開いた。
中にあったのは、便箋一通と、別の紙が一枚。
見覚えがあった。半月ほど前、私がエドガーへ送った手紙だ。
見た途端、気持ちが悪くなった。
あの笑い声が蘇る。私の声を真似しながら、わざと甘ったるく手紙を読むサマンサ。それを聞いて笑うエドガー。
便箋を持つ指に力が入った。余白には、赤い文字が残っている。
恋慕の重さ、大変よくできました。A。
情緒たっぷり。
依存度、非常に良好。A+。
信頼度も満点。
そして、赤い花丸。
扉の向こうで見たものと同じだった。
分かっていたはずなのに、こうして手に取ると目を逸らしたくなる。私が何度も言葉を選び直して書いたものに、サマンサの赤い字が重なっている。
「……リディア様、大丈夫ですか」
主人の声で顔を上げた。また顔色が悪くなっていたのだろう。
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。けれど、ここでしまってしまう方が嫌だった。
「もう一枚も、見せてください」
返事の下書きだった。こちらはサマンサ自身の筆跡で書かれている。
ここで励ます。
君なら大丈夫。
帰る日を待っている。
最後は「会いたい」。
餌。
その一文字が、ひどく気持ち悪かった。
私が大切にしていた言葉が、ここでは私を動かすための手順として並んでいる。
これだけでも、サマンサが私への返事作りに関わっていたことは明らかだった。
けれど、この紙だけでは、エドガーがそれを知っていたことまでは証明できない。
私は知っている。
あの部屋で、二人が一緒になって私の手紙を読み、笑い、返事について話していたのを聞いた。
でも、それを私の記憶だけで終わらせたくなかった。
エドガーも承知の上で、サマンサと一緒にやっていた。
それが分かるものを、きちんと残しておきたかった。
「ベルフォールは、お客様の逢瀬を噂にする宿ではございません」
主人が言った。
「誰が誰と会ったかを、面白半分に外へ漏らさない。それが、この宿の信用です。ただ、あなたは正式な婚約の当事者として、ハルストン伯爵家から事実を確かめるためにいらしている」
主人は帳簿に手を置いた。
「私がお答えするのは、ここに記録として残っていることと、私自身が直接見聞きしたことだけです。推測も噂も申し上げません」
主人が話してくれている理由は、それで十分だった。客の秘密を面白がって暴こうとしているのではない。自分で確かめられる事実だけを、当事者である私へ答えている。
「この手紙も、あなたがお書きになったもので間違いありませんね」
「はい」
「では、お返しします。いつ、どの部屋で見つかったものかはこちらで書面に残しましょう。買い取り記録についても、該当する箇所の写しをお渡しします」
「ありがとうございます」
「部屋の利用についても、記録にある範囲で確認いたしましょう」
別の帳簿が開かれた。
そこには、エドガーの名前が何度もあった。同伴者には、サマンサ。
見慣れていたはずの二人の名前まで、今は気持ち悪く見えた。
午後の早い時間から夕刻までの日。昼前に入り、日が傾く頃まで部屋を使っている日。午前十一時前から、午後五時を過ぎる頃までの日もあった。
夜を越した日は一度もなかったが、昼をまたぎ、食事を部屋へ運ばせ、半日近く滞在していることもあった。
「ずいぶん、長く……」
「お食事をこちらで取られた日もございます」
あの部屋で、サマンサが笑っていた。
あなたの商談って長いのよね。
商談だと言って家を出れば、昼をまたいで夕方まで帰らなくても不自然ではない。泊まりもしない。夜には何食わぬ顔で帰ることができる。
主人がさらに頁を遡った。
「最初のご利用はこちらです」
示された日付を見る。
一度では意味が分からなかった。
もう一度見た。
私が王都を発った、その日だった。
寂しかった。怖かった。それでも私は笑って手を振った。
馬車へ乗る直前、エドガーは私を抱き寄せた。
君なら大丈夫だ。
私が信じている。
君が泣きたくなる夜に、私の言葉が少しでも君を支えられるなら、私は何度でも書く。
耳元でそう言われた。
私は、その言葉があれば二年くらい頑張れると、本気で思った。
その日のうちに、二人はベルフォールへ来ていた。
胃の奥から一気にこみ上げた。口元を押さえ、俯く。
「リディア様?」
主人の声が遠く聞こえた。
「お水をお持ちしましょうか」
「……いえ」
自分でも驚くほど弱い声だった。一度、目を閉じる。
ここで終わりたくない。
ゆっくり顔を上げた。
「続けてください」
主人はすぐには帳簿へ戻らなかった。
「本当に、よろしいのですか」
「はい」
見たくない。日付も、そこに並ぶ二人の名前も。
それでも、目を逸らさなかった。
「それ以降、ほぼ同じような間隔で、何度もお見えになっています」
「……はい」
記録は残っていた。
二人が会った日。私の贈り物を売った日。赤い文字を書き込まれた手紙。サマンサが書いた返事の下書き。
それでも私は、最後まで見た。
前は、何も知らずに扉の外へ立っていた。今日は、自分からここへ来たのだ。
「二人は、またこちらへ来ると思いますか」
「おそらく」
「いつ頃でしょう」
「それは分かりかねます」
帰国前に出した最後の手紙が、そろそろ王都へ届く頃だった。日程が早まると決まる前に送った一通だ。
三月の下旬には、王都へ戻れる予定です。
この手紙が、最後になるかもしれませんね。
次はもう、顔を見て言えるでしょうから。
この二年で、私はあなたを想う気持ちがどれほど深くなっていたかを、思い知りました。
海より深い、なんて書いたら笑われてしまうかもしれませんね。
それでも、本当なのです。
帰ったら、今度こそ少しでもあなたの役に立てる私でいたいのです。
あの手紙を書いた時の私は、本気だった。もうすぐ会える。今度は手紙ではなく、顔を見て話せる。そう思っていた。
あの二人なら、私の手紙をまたここで開く。
私がもう王都へ帰っているとも知らずに。
また赤いペンを持ち、私の恋心を採点する。どんな返事なら私が喜ぶのか。何を書けば、また思いどおりに動くのか。二人で話すだろう。
「お願いがあります」
主人を見る。
「次に二人がこちらへ来ることが分かったら、教えていただけませんか」
主人はすぐには答えなかった。
「……そこまでのお約束は、本来できません」
「はい。無理を言っているのは分かっています」
「何をなさるおつもりですか」
「もう一度、確かめたいのです」
それ以上は言わなかった。主人も、それ以上は尋ねなかった。
しばらく考えたあと、主人が口を開く。
「今回だけです」
顔を上げた。
「お二人がまたいつもの部屋を取られたら、お知らせしましょう」
「……ありがとうございます」
「その時は、隣の部屋も空けておきます」
「お願いします」
主人は、お気の毒にとは言わなかった。慰めもしなかった。ただ、帰り際に一度だけ言った。
「どうか、ご無理はなさらないように」
まだ顔色が戻っていなかったのだろう。
数日後、ベルフォールから短い知らせが届いた。
エドガーとサマンサが、いつもの部屋を取ったという。
赤い書き込みの残された手紙と、ベルフォールから受け取った書面を鞄へ入れた。
今度は、何も知らずに扉の外へ立つのではない。
私はもう一度、ベルフォールへ向かった。




