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第11話 嘘の手紙と本当の二年

どうやって階段を下り、宿を出たのか、覚えていない。馬車へ乗り込んだ記憶さえ曖昧で、気づいた時には、ベルフォールの白い外壁が窓の向こうで小さくなっていた。


 依存度A。


 赤い花丸。


 待てのできる、従順な子犬。


 二人の口からこぼれた言葉が、ひとつひとつ耳にこびりついている。けれど、それが自分のことなのだと受け止めようとするたび、胃の奥から何かがせり上がった。


 口元を押さえようと鞄へ手を入れる。ハンカチを引き出しかけた時、その下に入れていた封筒の端が覗いた。


 留学して間もない頃、発音を間違えて教室中に笑われた夜。泣きながら開いた、エドガー様からの最初の返事だった。


 ほかの手紙は箱へしまったが、この一通だけは、帰国の道中でも読み返せるよう鞄へ入れていた。


 封筒の端を見ただけで、涙に滲んだ一文が頭に浮かぶ。


 君なら大丈夫だ。


 その途端、吐き気が喉元まで一気にこみ上げた。


「……止めて」


 自分のものとは思えない、引きつった声が出た。


 御者が慌てて手綱を引く。馬車が止まりきる前に扉を押し開けた。道端まで行こうとしたが、数歩も進めない。膝から力が抜け、石畳へ手をつく。


「おえ……っ」


 口元を押さえた指の隙間から、吐いたものがこぼれ落ちた。息を吸う間もなく、またせり上がる。


「う、ぇ……っ」


 二度、三度と吐いたあと、苦い胃液しか出なくなった。それでも腹はひくりと縮み、まだ何かを押し出そうとする。


 涙が石畳へ落ちていった。


 悲しくて泣いているのではない。吐いた拍子に、勝手に溢れているだけだった。


 君なら大丈夫だ。


 信じている。


 君に支えてほしい。


 あれが、鐘。


 鳴らされるたびに顔を上げ、机へ向かった。笑われた翌朝にも、講義室の扉を開いた。


 そして手紙の最後に添えられた、


 会いたい。


 君がいないと寂しい。


 帰る日を待っている。


 その甘い一文が、餌。


 鐘が鳴れば立ち上がり、最後の褒美を待つ、従順な子犬。


 そう呼ばれていたのは、私だった。


「……嫌」


 私は犬じゃない。


 犬じゃない。


 そんなはずがない。


 けれど、待っていた。


 二年間。


 返事が届けば喜んで封を切り、励ましの言葉を読んだあと、甘い一文を探した。見つけるたびに嬉しかった。


 エドガー様も私に会いたいと思ってくださっている。私の帰りを待ってくださっている。


 そう信じたから、次の日も立てた。笑われても、分からなくても、帰りたくても、あの人の隣に立てる私になりたかった。


 好きだったから。


 エドガー様が好きだったから。


 それなのに、私が歯を食いしばっていた間、あの人は私を遠くへ出して正解だったと笑っていた。


 放っておけば勝手に努力し、都合のいい妻になって帰ってくる。結婚すれば、何をしても離れられない。


 そんなことを、サマンサの隣で話していた。


 私がエドガー様の名で届いた便箋を抱いている間、途中から返事のほとんどを書いていたサマンサは、エドガー様のすぐそばにいた。


 私はエドガー様に会いたかった。サマンサにも会いたかった。帰ったら、二人に留学先の話をしたかった。


 けれど二人は、私のいないところで触れ合い、私の便箋を間に置いて笑っていた。


 二人に会えると思い、胸を弾ませて帰ってきた自分が浮かぶ。


「嫌……っ」


 また腹が縮んだ。


 嫌だ。


 嫌だ、嫌だ。


 こんなこと、自分の中へ入れたくない。


 何も知らなかった時へ戻りたい。すべて、悪い夢だったことにしてほしい。


 けれど、目を閉じても笑い声は消えない。


 エドガー様だけに読んでもらうつもりだった気持ちまで、サマンサに開かれ、二人の間に置かれていた。自分の中で大切にしてきた恋にも友情にも、あの部屋の笑い声がこびりついている。


 御者が差し出してくれた布で口元を拭った。ハンカチも袖口も、ひどく汚れていた。


 その汚れを見た途端、自分まで汚らしいものになったような気がした。


 服の上から腕を擦る。


 強く。


 さらに強く。


 汚れがそこにあるのではないと分かっているのに、手を止められなかった。


 何も落ちない。


「……なんで……」


 御者が汚した場所の始末をしてくれた。水も差し出してくれたが、礼を言うことさえできなかった。



 屋敷へ戻った時、父はまだ仕事から帰っていなかった。


 侍女が差し出してくれた水を口に含む。けれど、飲み下すより先に胃が縮み、口元からこぼれた。


「お嬢様、すぐにお医者様をお呼びします」


「大丈夫。長旅の疲れが出ただけよ。船酔いが残っているのだと思うわ。父にも、心配はいらないと伝えて」


「ですが――」


「今日は休ませてちょうだい」


 それ以上は口にできなかった。


 夜遅く、父が帰ってきた。扉が静かに開き、足音が寝台のそばまで近づいてくる。


 私は目を閉じ、眠っているふりをした。


 父の手が、布団の上から肩に触れた。出立の日と同じ、短い触れ方だった。


 その手を握りたかった。けれど、指一本動かせない。


 目を開けば、父はきっと何があったのかと尋ねる。答えた瞬間、ベルフォールで聞いたことが現実になる。


 やがて、足音が遠ざかった。


 眠れなかった。うとうとするたび、赤い花丸と、エドガー様の肩にかかったサマンサの腕に引き戻された。



 翌朝、食事の匂いを嗅いだだけで吐き気が込み上げた。昼に口にした薄いスープも、すぐに戻した。


 目を閉じると、あの一通に救われた夜が蘇る。


 あれが私を動かすために選ばれた言葉だったと分かっても、あの夜、それに救われ、翌朝の講義室へ行けた事実までは消えてくれなかった。


 あんなものを宝物にしていた自分が、ひどく滑稽に思えた。


 私は、エドガー様が好きだった。あんなにも会いたかったことも、隣に立ちたいと願ったことも、私の中では本当だった。


 だからこそ、ベルフォールで笑っていたあの人と、どうしても同じ人だと思えなかった。


 私は、どうしてあんなにもエドガー様が好きだったのだろう。


 サマンサのことも好きだった。あんなに好きだったのに。


 私が縋る言葉を一番よく知っていた親友が、エドガー様の名でそれを書き、その人の隣にいた。


 婚約者に裏切られたことなのか。親友に裏切られたことなのか。それとも、私だけが二人を別々に大切にし、二人は私を外して通じ合っていたことなのか。


 もう、何が一番苦しいのかも分からなかった。


 初めての手当で買った万年筆は、すでに売られていた。つい先日送ったカフスは、二人で泊まる部屋の代金にするという。サマンサへの品も、喜ぶ顔を思い浮かべて選んだものだった。


 婚約者と親友への贈り物です、と店員へ答えた時、私はきっと笑っていた。


 あまりにも嬉しそうに。


 あまりにも、何も知らずに。


 夜、アルノ様の言葉が浮かんだ。


 信じたい相手ほど、確かめてください。


 あの言葉を聞いた時、エドガー様やサマンサの顔など、頭に浮かびもしなかった。婚約者と親友を疑うという考えそのものが、私の中にはなかった。


 けれど、今は違う。


 ベルフォールで見聞きしたことを、記憶の中だけに置いてはいけない。今からでも、自分で確かめ、事実として残せるものはあるはずだ。


 その考えだけが、暗闇の中に残った。



  三日目の朝、昨日までの激しさはなかった。


 何かを乗り越えたのではない。吐くことも、考え続けることもできないほど疲れ切り、何もかもが底へ沈んでいた。


 侍女が荷ほどきをしてくれた本が、机の脇の棚に並んでいる。その中に、使い込んだ辞書があった。


 ゆっくり寝台を降り、棚から取り出す。角は擦れ、何度もめくった頁は柔らかい。余白は書き込みで埋まり、教室で笑われた語の横には、正しい発音が何度も書き直してある。


 指先で、その跡に触れた。


 私の字だった。


 エドガーの隣に立ちたい。そう願って、ここまで来た。手紙に支えられた夜もある。


  けれど、辞書を引いたのは私だ。笑われた翌朝、講義室へ戻ったのも、商会で働き、自分の手当を得たのも私だった。


 エドガーが私を欺いていたからといって、この辞書に書き込んだ発音も、意味も、何度も直した跡まで偽物になるわけではない。


 悔しい。


 あの教室で笑われた時よりも、ずっと悔しい。


 私が必死で過ごした二年間を、鐘を鳴らせば動く犬の芸にされてたまるか。


 あの二人の笑い話にされたまま、渡してたまるものか。


 足元は頼りなかった。それでも顔を洗い、服を替え、髪をまとめた。


 まずは父に話さなければならない。


 黙っていれば、何をされても離れない女だと笑った、エドガーとサマンサの言葉を認めることになる。


 そんな女だと決めつけられたまま、黙っているのは嫌だった。


 父の部屋の前に立ち、扉へ手を伸ばす。指先が触れる寸前で止まった。


 それでも、手を引かなかった。


 扉を叩き、父の前へ座る。


 私は、ベルフォールで見聞きしたことを話した。一度に順序立てることはできなかった。途中で何度も言葉が途切れ、口にするたび、あの部屋へ引き戻される。


 それでも、必要なことは何ひとつ伏せなかった。


 このまま、なかったことにするつもりはなかった。

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