50 どうか希望と呼んでくれ/後
「そうか、ヘルダー侯が……」
「ええ。今朝早く、お帰りになりました」
明誓の儀が執り行われてから五日ほどが経つこの日。マルゴワール公爵は単身で、クレドのガリエ邸を訪れていた。
旧市街を抜け、林道をひたすら進んでたどり着いた邸宅は深い森に守られている。
古都の賑やかな息遣いも、気まぐれに太陽を覗かせる秋空も、邸内から見れば窓で隔てた一枚絵に過ぎなかった。
書斎へ通された彼を出迎えたのは、生きながらにして悼まれる道を歩きはじめた黒髪の少女——エデリーナだ。
彼女の伯父、つまり母エルシャの兄であるヘルダー侯爵が、極秘で姪のもとへ駆けつけていたのだという。
「父上も、伯父さまも、わたしが望めばグレムノアへ渡らせるおつもりだったようなのです」
「……口振りからして、ここへ残ると決めたのかい」
微笑みで答えた少女へ、老紳士もまた労しげな笑みを返す。ふたりの声が途切れても、書斎に無音は訪れない。
上階や廊下から、立ち働く人々の気配と物音が断続的に響いているためだ。
「いまさらながら……慌ただしい席へお迎えしてしまい、申し訳ございません」
小ぶりなコーヒーテーブルに並ぶもてなしの茶菓を挟んで、エデリーナは客人へ非礼を詫びた。
「ちっとも気にならんよ。プリューセンから、荷が届いたのだな」
「はい。収蔵館へ避けていた、わたしたちの家具調度です。少しずつ送ってもらっていて」
「そうかそうか。まだしばらくは落ち着かないだろうが……使い慣れたものに囲まれて、ゆっくり過ごしていればよい」
血を分けた孫たちよりも年若いエデリーナへ、とことん甘やかすような調子で彼は言う。
ふたりはしばし雑談に興じていたけれど、焼菓子の皿が空かないうちに本題へと移り変わっていった。
「……お咎めは、ベガ夫人にまで及んでしまうのでしょうか」
情報局長官の口から直々に顛末を知らされ、思案に耽っていた少女がおもむろに顔を上げた。
ワロキエ、ベガ両家の末路——とりわけ長男ディミトリの狼藉と死について、動揺を覚えなかったといえば嘘になる。
しかしそれ以上に、いまだ家族の罪に紐付けられたままのテレーゼを慮らずにはいられなかったのだ。
老紳士はあえて答えを急がない。林檎の香り付けがされた紅茶へ口をつけ、カップを戻しながら明るい声で語る。
「見通しは悪くないぞ。例の請願を退けようという動きがないとまでは言わんが、まぁ、鈍いものだ」
「さようでございますか……」
「当主とて、娘の連座のみで裁かれるわけではないのだからな。夫人と彼らを並べて責を問うほうが、よっぽどの無理筋だろう?」
「……ええ。大逆は、言わずもがな……王族との不義密通も、王権への攻勢。れっきとした反逆です」
エデリーナは喉元へそっと手を添え、か細い吐息をこぼした。
「先生——ベルナデットさまも、シャンタリオン伯も、さぞやお疲れのことでしょうから。せめてひととき、お心を安んじられる暇があればよいのですが」
「…………うぅん。さすがに言わせてもらうがなぁ。ベルナデットたちだって、君やヨゼフくんにだけは心配されたくないと思うぞ?」
身を乗り出して苦言を呈する公爵。物言いに容赦はないものの、表情には隠しきれない感傷が滲んでいた。
少女はとくに臆する様子もなく、むしろ待ちわびていたかのように彼の言葉を受け止めている。
「奉仕も、挺身も、行き過ぎれば美徳で片付かん」
「心得ております」
書斎から再び人の声が消える。扉の向こうを通り過ぎていくのは、運搬台の車輪が重く軋みながら転がる音。
老紳士はエデリーナを正面から見つめ、溜息を深呼吸に変えた。
あどけなさが名残る相貌の中で、青い目だけが先に大人になってしまっている。
「これでよかったなどとは、露ほども、思っておりません」
「そうだろうさ。君は選ばざるを得なくなった。追い詰められて、選ばされたんだ」
「……わたしたちの誇りが、驕りへと転じてしまう前に。幕引きを、自ら図らなければならなかったのです」
驕り、と腑に落ちない声で繰り返す老紳士へ、少女は居住まいを正して告げた。
「火種になにを守れましょうか」
言わんとしているところを察した瞬間、重々しくまぶたを閉じる公爵。
「守りたいもののそばへ、どうして、火種を置き続けられましょうか」
邸宅を囲う森の老成した気配に溶け込むような声で、エデリーナは訴えた。
思い過ごしだ、可能性の話だと一蹴することはできない。誰にもできなかったから、誰ひとり望んでいなかった結末へ行き着いてしまったのだ。
「ウィンゼルという名の……存在の危うさを認めて。それでも帰りたい、わたしのままでいたいと、願えるほどには…………もう、子供ではなかったのです」
口角を上げたエデリーナの指はわずかに震えている。泰然として見えるけれど、彼女の冷静さはけして生来の性質と呼べるものではなかった。
そうあれかしと涵養された、いわば後天的な技能だ。だからこそ、相対する者をいっそう切なくさせるのだ。
唇を引き結んだ老紳士は、すっかり潤んでしまった目を伏せ何度も頷いてみせる。
すると、エデリーナの腕が花皿の焼菓子へ伸びていくのが見えた。どうやら少女は、彼の涙に気づいていないふりをするつもりらしい。
公爵は彼女の気遣いに甘え、自らも菓子をつまみ上げる。かすかな咀嚼音が聞こえなくなってくるころには、涙も引っ込んでいるだろう、と。
「——とはいえ。ただ息を潜めて余生を過ごすつもりは、毛頭ございませんの」
ささやかな憩いの終わりに、どこか冗談めかした少女のひと言が差し込まれた。
「透明な手でも成せるなにかを、探します。考えてみます。……この国で産まれ生きていく人々の背を押す、追い風のようにはたらきたい。きっと、はたらいてご覧に入れましょう」
膝の上で組んだ手指を戯れに遊ばせ、はにかみながらエデリーナは言う。
聞き届けた公爵は笑った。嬉しいからでも、微笑ましいからでもない。
生まれてこのかた覚えたことのない不甲斐なさに負けて、笑うしかなかったからだ。
「…………参った。どうしようもないほどよく似た親子だよ、君たちは」
「わたしと父上が、ですか?」
「自覚がないのかい。恨み言ひとつこぼさず、不条理に腐らず、人の身に余る務めへ殉じようとする。……慰めようがないところまで、そっくりだと言っているんだ」
エデリーナは滔々と説く老紳士から目を離さず、しかし困り果てた顔で口を開く。
「ちゃんと、悔やんではおりますが……」
「だからいたたまれなくて、敵わんのだよ」
丸い頬をこわばらせ、人の親、人の祖父、ひとりの人間として胸の内を吐露する公爵。
三度目の沈黙へ割り込む音はなかった。澄んだ静寂に浸りながら、ふたりは揃ってここが引き際だという根拠のない確信を抱く。
もう一歩踏み込んでしまえば、互いに謝ることしかできなくなる。進む者と留まる者、どちらにとっても傷になる。
彼らはぎこちなく、少しずつ話を逸らし、雑談の輪からはみ出さないように会話をはじめた。
笑い声が弾けることはない。けれど、いつかこの日を振り返ったとき、蘇るのが切なさだけじゃないならそれでいいと思えていたのだ。
しばらくが経ち、懐中時計を取り出した老紳士へ、カップを持ち上げようとしていた少女が声をかける。
「そろそろ、ゼーレワイスの本邸へ向かわれますか?」
「うむ。名残惜しいが……あまり待たせておくと、ご当主さまがふて寝をしてしまうからなぁ」
まあ、と目を丸くして控えめに笑う少女へ、公爵は乱れてもいないジャケットの裾を直しつつ柔らかく問いかけた。
「ときに、エデリーナや。…………本当に、手紙のやりとりも慎むつもりなのかい?」
「はい。死者に筆は取れませんもの」
言いながら、彼女はベルを振って使用人を呼び寄せる。馬車の支度を手短に申し付けると、老紳士へ向き直って続きを言い添えた。
「お優しい方ばかりでございましょう? お手元へ残さないよう、燃やしてくれとお頼み申し上げるのは……どうしても、憚られて」
憔悴しきったイリアの横顔がふと浮かんで、公爵は表情を翳らせる。
少女の判断は優しくて酷い。正誤で語れないことだとわかっているから、彼は口を閉ざすしかなかったが——。
「わたしは、幸せでしたよ」
かろうじて拾えるくらいの、小さな小さな囁き声だった。
「……エデリーナ」
「どこにいても、心は、ずっとおそばに」
言い終えるなりにっこりと笑って、お手本のような美しい所作で頭を下げた少女。老紳士は顎に力を込め、精一杯の笑みを以て応える。
「しかと受け取った。任せておきなさい」
丁寧に温めてから解き放たれた言葉に、宛名は添えられていなかった。
届けてもらえるのは、彼女がここで生きていると知る者たちのところへだけ。
しかし、エデリーナ・ガリエ・ウィンゼルの幸福な旅路は、秘密を分け合った人々によってのみ彩られたものではない。
公爵を乗せ走り去っていく馬車を見送りながら、少女はラシーヌ伯爵家の子供たちへ思いを馳せていた。
彼らはきっと打ちひしがれているだろう。炎に巻かれ姿を消した友を想い、花籠と涙を捧げてくれたのだろう。
世界を欺き、空っぽの棺を美しく飾らせた。悲劇の看板へ名前を刻ませた。
えずきそうになるほどの罪悪感に顔をしかめながらも、少女は苦痛を甘受する。薄れてくれるなと、泥臭く願う。
この痛みから逃げ出そうものなら、仮初の死者ですらいられなくなる。人でなしには、なりたくなかったのだ。
その日の夜、寝支度を済ませたエデリーナは、整えられたばかりの私室を見回していた。
主室を取り囲むように複数の部屋が設けられた、本来であれば邸宅の主人——ヨゼフに宛てがわれるべき格を持つ一室だ。
(……母上の絵は、あの壁に飾ろうかしら)
四隅の角のうち、入口に近い一角だけ壁がせり出しているのは、太い柱を隠すためだと聞いている。
フロアランプの光の中、ぼんやり漂っていた視線は、右奥の壁にぶつかったとたん動きを止めた。
ふたつ並んだ扉の左側へ、青い目と入れ替わるように動き出した足が迷わずに向かっていく。
少女はドアノブを握り、そうっと回し開けた。主室の灯りが開けた幅の分だけ差し込んで、真っ暗な部屋を頼りなく照らし出す。
空色の絨毯。背の低い本棚。レモンイエローのカーテン。
楢の実が彫られたキャビネットや、ガラスのポプリポット。
弟が遺した物をかき集めたこの部屋に、遺された者のための席はまだない。
エデリーナは扉の対辺に位置するボウウィンドウへ歩み寄ろうとして——ふと、本棚の横で立ち止まった。
たったひとつの命を、上手に使い切れる者などいるのだろうか。
行き止まった愛。叶わなかった夢。旅の価値はいつ、なにによって計るべきものなのだろうか。
夜空色の背表紙へ指を掛ける少女。答えを探す気のない手つきで引き抜くと、結末まで知り尽くした一冊をぱらぱらと適当にめくった。
「……眼を閉じて見る夢は、宝箱」
読み聞かせる相手はいないのに、ひとりでに抑揚をつけてしまう。
「行っておいで。探しておいで。…………わかれ道まで、手を取り合って」
大切な人はみんな、分かれ道の向こう側へ行ってしまった。
追いかけるための靴はもうない。脱ぎ捨てると決めたのは自分だ。
エデリーナは頁をめくる手を止めた。なにかを断ち切るように本を閉じると、棚の隙間へ一息にねじ込んだ。
窓を見る。夜空は雲で濁っていた。
窓辺を見る。歓声を知らない望遠鏡が、烟る夜空を見上げていた。
——蛇なき国の明日が、美しいままどこまでも巡り行きますように。
嘘偽りない願いを、雲に隠された星へ振りかぶって投げる。望遠鏡に背を向けた少女は、そのまま振り返ることなく部屋を去っていった。
季節の終わりとはじまりは、いつだって判然としないものだ。
曖昧にもつれ合ったまま転がる秋と冬。息の白さと頬の赤さが、どちらで呼ぶかを決めるころ。
王国全土に喪の色をもたらした晩夏の変事は、厳粛な裁きと淀みない手続きによって収束を迎えつつあった。
新聞各社が一連の始末を“粛正”と総括する傍ら、とある大衆誌はルチカの異名を拾って“花枯らし”と名付け、見出しへ躍らせている。
しかし、いまもっとも人々の関心を集めているのは、罪深い反逆者でも悲劇の犠牲者でもない。
彼らはみな、明くる春の日を待っていた。次なる王妃として立つ少女、ハーシュリー・クレージュ・キアロ。
英雄ヴィルマーの血を引く彼女の名は、事件の続報と並んで連日のように紙面を飾っている。
制定以降四例目となる大逆罪を犯した少女が刑に処され、十日ほどが経とうとしていたこの日も。
ディエ・クロニクルの朝刊は、婚礼準備を着々と進めるハーシュリーの王城訪問を華々しく報じていたのだった。
網入りガラスが嵌め込まれた鋳鉄の扉が開く。暖められた石のにおいに、冷たい風が運んできた土臭さが混ざる。
ここはアルバライエン西部に位置するメルゴー監獄。痩せた日差しに石の肌を晒す、かつての大要塞だ。
固い床を叩くヒールの音がふたつ、面会者用受付へ近づいてくる。窓口当番の事務員は表情を引き締め、朝刊を抽斗へしまいながら立ち上がった。
「——ごきげんよう。カンパネラ男爵家の、テレーゼ・ピサロにございます」
現れたのは、王太后イリアの書状を携えた喪服姿の貴人。側付きの女性をひとりだけ伴った元ベガ子爵夫人テレーゼ、そのひとだった。
監獄側はイリアの秘書室から先立って電信を受けていたらしい。入構手続きと手荷物等の検閲を済ませると、テレーゼたちは副典獄の案内によってただちに面会室へ向かうこととなった。
中庭を貫くように敷かれた長い渡り廊下へ出ると、秩序立った閉塞感がたちどころにほどけて消えた。
視線はおのずと左手——監視塔が建つメルゴーの西区画へと吸い寄せられていく。
固く踏みしめられた土がどこまでも続く中庭。二本の轍が、西から南へ緩い弧を描きながら伸びていた。
奥にあるのは砲台跡だろうか。低く分厚い石壁と、石壁の古さが際立つ真新しい建物もすぐそばに見える。
テレーゼは、眼前に広がる一帯を見るとはなしに眺めつつ副典獄の背中を追った。
木枯らしが裾を煽り、黒をはためかせる。華奢な体に纏わせた喪服は先王と娘のため。そして、旅の終わりを間近に控えた元夫のためでもあった。
「使用人はみな行く宛を得ました」
北区画一階の面会室に、淡々とした声が響く。挨拶も前置きもさておいた報告は、あって当然の緊張感を場違いなものだと錯覚させるくらい平静に伝えられた。
テレーゼとファウストは、簡素な木のスクエアテーブルを挟んで向かい合う。ふたりの間に置かれているのは、使い古された砂時計だけ。
痩せただの、頬がこけただの、髪が短くなっただの。見ればわかる変化をいちいち口にして確かめ合うこともしなかった。
「ほとんどはキアロとドレストアの分家筋が引き受けてくださったの。あぁ、パトリックはこれを機に引退を決めて……迎えに来たお孫さんたちと、里へ下がっていったわ」
「…………この上なくいい知らせだ。教えてくれてありがとう」
壁際の椅子へ浅く掛ける側付き。鉄帯が付いた扉の脇で控える副典獄。ファウストの横に立つ看守。
室内にいる全員が、元夫婦の間合い——与り知らない他者の日常に侵食された空気の中で、奇妙な心地を覚えていた。
「そうだ、ジョゼたちは?」
なにか言おうとしていたテレーゼを遮る形でファウストが問う。ベガ子爵家に勤めていたさして多くはない使用人のうち、唯一夫婦だったジョゼとマチルダのことを思い出したようだ。
彼が身じろぎをするたび、テーブルの下で鎖が擦れる音が鳴る。
「別々の家へ行くことになってしまったか? たしか、マチルダは産み月が近かっただろう。雇用に障りは……」
「問題ないわよ。あのふたりなら、ラシーヌ伯が揃って雇い入れてくださったから」
さらりと返された言葉を一拍かけて飲み込むと、ファウストの胸にようやく安堵が広がっていく。
「……よかった。俺に言えたことじゃないけど……でも、うん。安心したよ」
「わたしの務めはここまで。あとは、管財人に鍵を渡せばおしまいね」
淀みなく語るテレーゼは、彼がよく知る彼女のままだった。まだらに擦り切れた薄い絨毯を敷いただけの底冷えする部屋に、遠い日々の残り香が漂っている。
苦労をかけてすまない。口をついて出ようとしていた謝罪を、ファウストは咄嗟に引き戻してしまった。
伝えたい気持ちをろくに運ぶこともできず、上滑りしていくだけであろう己の言葉に、なんの価値も見い出だせなかったのだ。
表情を曇らせる元夫には構わず、側付きへ仕草で合図を送ったテレーゼが口を開く。
「手渡しの許可をいただいたの。差し上げるわ」
おそるおそる歩み寄ってきた側付きが机上へ置いたのは、薄緑色の紙箱だった。
ほのかに薫るオレンジを嗅ぎ取り、息を呑んだファウストが顔を上げる。
「……なんで……これ…………パトリックに、聞いたのか?」
「いえ。むかし、フレイドルさまが仰っていたのを思い出したから」
蓋を開けるまでもなかった。箱の中身は、砕いたドライオレンジやナッツをたっぷり混ぜ込んだ素朴な焼菓子。
ベガのキッチンで何十年も受け継がれてきた、オレンジビスケットだ。
まだ幼かった彼が独り占めしようとして母に叱られたこともある、思い出だらけのおやつだった。
亡き兄はかつて婚約者に、どんな顔で語って聞かせたのだろうか。
ファウストの脳内で、尋ねるつもりのない問いがふわふわと跳ね回る。
歯を見せて笑うフレイドルの姿は、まだ鮮明に呼び起こすことができた。
だけど笑い声はもう、音の靄へ溶けて、どうしたって元の形を取り戻せそうにない。
彼は褪せた記憶から意識を剥がすと、手枷の嵌った両手を持ち上げた。
手のひらで箱を守るように囲い込むけれど、その指先は宙に浮いたままだ。
「…………君と、兄さんが、無事に結ばれていたら——」
「ああもう、そういうのはよしてちょうだい。積み重ねてきた時間と道のりへの冒涜よ」
もしもの話など、幸福な場面だけをよりすぐった影絵に過ぎない。テレーゼは手を払い、都合のいい夢想を言い切らせる前に拒んだ。
それもそうだ、と素直に受け止めたファウストは、紙箱を見つめながら娘の名前を口にする。
「フィオレンツァには、会わなかったのかい」
「会わなかった。望んだところで、会えなかったでしょうしね」
花々が咲き誇る春のさなかに生まれた、美しい娘だった。
彼らが積み重ねてきた時間は、生まれ落ちた小さな旅人を育んできた道のりそのものでもあった。
「あの子はさ。……君のことが…………いつだって、大好きだったよ」
「知っているわよ。かわいげがなくって、かわいいんだもの」
「…………ごめん」
「その謝罪がわたしひとりへ向けられたものなら、もういいわ」
「よくない。だって俺は、取り返しの、つかない、ことを……」
徐々に掠れていく己の声が情けなくて、ファウストは顔を伏せる。
ささくれだった木の椅子が。自分の妻で、あの子の母であった過去が、彼女をこれ以上傷つけやしないか。
いまはそればかりが彼の気がかりで、心残りだった。
「取り返しのつかない過ちを、これから死を以て償うのでしょう」
「……償い切れるわけがない」
「……その苦悩さえも引っくるめて、罰なのだと思うわ。あなただけじゃなく、わたしにとっても、きっと」
テレーゼは砂時計を見た。灰色の砂はまだ落ち切っていないけれど、落ち切るのを待つほど離れがたくはない。
別れの言葉は、あらかじめ用意していなかった。静かに息を吸い込んで、いま目の前の男へ伝えたい思いだけを選び取る。
「さようなら、ファウスト。ずっと、それなりに……わたしは幸せだったのよ」
疑うことを許さない頑なさで言い放ち、テレーゼは立ち上がった。
看守へ頭を下げ、側付きを伴い、副典獄が開けた扉の向こうへ消えていく。
ファウストは紙箱を手に取ると、座ったまま、扉が閉まるまでまばたきもせずに見送った。
小さくて薄い背中。見慣れた後ろ姿は、やはり娘とよく似ている——振り返らないでくれと願いながら、彼は頭の片隅で母子の面影を重ねた。
雪がちらつくとある日の午後、ファウスト・ロイス・ベガの絞首刑は粛々と執行された。
娘と同じく西側区画に新設された行刑場にて、縄の輪の向こうへ娘を追って。
生家での謹慎を自らへ科した元妻は、報告を受け取らなかった。だから彼女はなにも知らない。
彼がいつ、どこで旅を終えたのかも。最後に言葉を遺したかどうかも。
ポケットの奥に、ビスケットの欠片を忍ばせたまま絞首台へ登っていったことも、知らないまま生きていくのだ。
そうして分かたれた道の先、明くる春——アルバライエンに若き国王夫妻が誕生したころ、カンパネラ男爵邸の離れが檻の役目を終えた。
兄が待つ本邸の執務室へ向かうテレーゼを、古参の使用人たちは涙ぐみながら見守る。
痛ましげな視線を注がれている訳を、このとき彼女は半分しか理解できていなかった。
「長らく、ご面倒をおかけいたしました」
黒い革張りのアームチェアへ体を沈ませたカンパネラ男爵が、両袖机の前に立つ妹へ頷きを返す。
「向後の身の振り方について——」
「座れ」
彼は立ったまま話し続けるテレーゼを軽く睨むと、秘書が用意していた椅子へ掛けるよう命じた。
マスタード色のデイドレスに見覚えはあるけれど、布地が見たことのない余り方をしている。男爵は眉根を寄せ、唇を曲げ、さりげなく目を逸らした。
「コンスタン殿からだ」
知らぬ間にマイエル家の主人を名前で呼ぶようになっていた兄。驚きを顔に出さず受け止めるテレーゼの前に、二冊の帳面が置かれた。
髭をたくわえた顎で促され、彼女はずっしりと重い革装丁の一冊を両手で抱える。
膝の上で表紙をめくると、厚紙の台紙へ縫い留められた小花模様の布片が現れた。通し番号も振られている。見本帳だ。
「……彼らは、試験生産を…………?」
「堅牢度にさほど問題はないが、生地は選ぶ」
男爵は湯気の消えたコーヒーカップを端へ寄せ、机のふちに腕を乗せつつ言う。
「捺染機を扱える者もまだ充分ではないらしい。マイエルの地元——ラセルテ地区の得意先へ卸せるようになるまで、あと半年はかかるだろう。おおよそお前の目算通りだ」
「それは……婚姻を前提とした事業計画です。いまは、もう」
両家の婚姻契約は正式に締結されていない。テレーゼが願い出た半月の延期——娘に与えた猶予が、国家を揺るがす災厄を招いてしまったからだ。
縁談を持ちかけた張本人として、彼女はマイエル家をベガの破滅へ巻き込まずに済んだことをせめてもの救いだ、と捉えていた。
現況を問い質したいのに、うまく言葉が出てこない。散らかった脳内を懸命に整える彼女を置いて、兄の話はさらに先まで展開していく。
「以前、マイエル夫人に手描きの図案を渡したそうだな」
「え……えぇ。話の種、というか。なにかの参考になればと……むかし王都で流行した意匠を基に、いくつか描きました」
「白鳥やら、蔓葡萄だったか。お前の絵を、あちらはたいそう気に入っていた」
「ほんの手慰みですが」
「新しい意匠を考えてもらいたい、とも言っていた」
鈍重な思考がようやく、使える程度には回りはじめた。テレーゼは姿勢を正し、見本帳を抱える手にぐっと力を込める。
「紡績、織布、染色、捺染。……すべてを一手に担える彼らは、お前のその肥えた目と、感性を欲しがっている」
兄は背もたれへ寄りかかり、悠然とくつろぎながら付け加えた。
「とはいえ、焦る必要はない。よくよく考えた上で——」
「お引き受けいたします」
打てば響くような返しに瞠目する男爵。彼はただ、妹には見えていない選択肢、まだ繋がっている縁を示してやっただけ。
彼女が一切の迷いもなく応えようとするなどとは、思ってもみなかったのだ。
「…………即断か」
「どのみち、身を立てねばなりませんから。願ってもないことです」
「オーヴレイ夫人の手は、取らないと。そう決めたのか?」
腹に響く低い声が恩人の名をなぞった瞬間、テレーゼは思わず目を瞑ってしまった。
「あのお方は、お前を婚家から切り離そうと駆けずり回ってくださった。シャンタリオンやマイエルの支えがあってこそとはいえ、本を正せば、夫人の熱意に呼応したものだろう」
そこに妹を責め立てる気配はない。しかし、確かめるまで逃さない意志は見えた。
ベルナデットの庇護の傘には入らない。そう決めたのは、決めさせたのは、いかな理由によるものか。
しばらくの物思いを経て、テレーゼは見本帳へ視線を落としながら口を開く。
「ベガに連なるひとりであった過去は消えません。離縁が許され、こうして逃げおおせたわたしを恨む者だって、おそらくは」
兄は黙って耳を傾けている。彼女の懸念がすでに現実のものとなっていることは、まだ伝える段階ではない。
「恵まれたご縁を、さも当然のように握り締めて、これまでのようにお縋りするわけにはいかない。そう考えました。……ベルナデットさまには、わたしから、改めてご挨拶へ伺うつもりです」
ぽつぽつと語る彼女は結局、語り終えるまで兄の目を見ることができなかった。
「つまるところ。お前は、我々と距離を取って生きることを、落としどころと定めたのだな」
「……そうなりますね」
ふたり分の息遣いだけがかすかに繰り返される部屋。やがて前方から革が擦れる音がして、テレーゼは反射的に顔を上げた。
「まぁいい。あらかた理解はした。ならばなおさら、お前がいますべきことはひとつだけだ」
彼は気怠げに腕を組み、固い表情で身構える妹へ告げる。
「まずは食え」
「…………はい?」
「みなまで言わせるなよ。食いたくなくても、食えるものだけひたすら食え」
「そんな、唐突に……無茶を仰る」
「無茶はどっちだ。生き損なうな、馬鹿者め」
労りから生えた棘に喉を貫かれ、言葉を失うテレーゼ。
ふんっ、と鼻を鳴らした男爵は冷めきったコーヒーを啜り、何事もなかったかのように話を切り出す。
「お前の小さいほうの甥は、会計士になりたいそうだ」
「……会計士? ティモシーが?」
「あれはもともと飲み込みが早い。たぶんいい生徒だ。しばらく任せる」
「任せるって、わたしが教えるのですか。素人には——」
「ずっと生きた金の世話をしていたろう。四則演算……あとは暗算だな。基礎だけしっかり固めてやれ」
口を挟む余地など与えず畳み掛けた兄は、手癖で顎髭を擦りつつテレーゼを見据える。
「これからどう生きるとしても。身を立てるより先にまず、しゃんと歩けるようになれ」
「…………はい、という返事しか、聞き入れてくださらないのでしょう」
「わかっているなら話は終いだ。日の光でも浴びて来い」
優しいのか厳しいのか、どっちつかずな兄の態度にテレーゼは笑う。
笑ったことがひどく懐かしく、笑えることを、なぜか後ろめたく感じていた。
そのまま追い立てられるように外へ出て、晴れ空の下をおぼつかない足取りで進む。十九年前、花の盛りに生まれてきた娘を抱いて歩いた庭だ。
テレーゼの脳裏を、おくるみの中で顔をしかめる赤子の姿がよぎった。軽くて重い命の温度を、両腕は覚えている。
芝生を踏みしめる音が止んだ。引き潮のように血の気が引いていく手のひらを、彼女はじっと見つめている。
そよ風に煽られただけで崩れ落ちそうな体を、細い足がやっとの思いで支えていた。
(…………あの子がいない。もう、どこにも)
いまさらで、ようやくだった。花々が、季節が引き金となって湧き上がった実感が母から体温を奪う。
薄い背を少しずつ丸め、震える膝を曲げ、逃げ出すようにしゃがみ込む。
青い草と土のにおいは他人事じみていた。折りたたんだ体、その真上から、祝福のように燦々と光が降り注ぐ。
(フィオレンツァ)
冷たいのは四肢の先だけ。春の陽に照らされ、背中はじわじわと熱を持ちはじめている。乾いたままの目は、足首を鷲掴む己の左手を映していた。
(……フィオレンツァ)
悲愴に塞がれた喉は役目を果たせず、誰にも届かない透明な名前が出口を求めてさまよう。
次第に浅く、早くなっていく呼吸。どこで間違えたのか、どこかで引き返せなかったのか——考えはじめて、すぐに振り払った。
左手を持ち上げる。骨の形が、皮の上からはっきりとわかる。掴んだ足首も、もとより薄い腹も、重い頭を支える首も、なにもかもが生きていくには心許ない。
芝生が擦れる感触を靴裏で味わいながら、テレーゼは慎重に立ち上がった。
「…………食べる。食べて、歩く。いまは、それだけ……」
自身にも聞き取れないくらい小さな声で呟く。しゃがみ込む姿を目撃したのか、本邸から使用人たちが駆けてくるのが見えた。
さあっ、と一陣の風が吹き抜ける。ぶかぶかのデイドレスは風をたっぷりと孕み、歪な蕾のように膨らんで、呆気なくしぼんでいった。
踵を鳴らして颯爽と歩けるようになるまで、実に二年の月日を費やしたテレーゼ。
生家を出てラセルテへ移り住んだ彼女は、この日もマイエル家が経営する工場へ図案家として出向いていた。
「ここの線、やっぱり細すぎたみたい。潰れてしまっているわ」
「太くすると野暮ったく見えるでしょう。どうしたもんですかねぇ……」
職人たちが頻繁に出入りする制作室は、だいたい扉が半開きになっている。
本棚やラックが人の立つ場所を狭くする雑多な部屋。テレーゼとコンスタン・マイエルは、ワークテーブルに広げた試し刷りの布を立ち囲み口々に意見を交わしていた。
「繋ぎ目はきれいに仕上がってる。だから、位置はこのままで——」
「ほわあ」
声がした。背後からだ。耳にした者も脱力してしまうほどに、気の抜けた声。ふたりは同時に振り向いて、揃って視線を下げた。
焦げ茶色の髪をした少年が、半分だけ開いていた扉の前で立ち尽くしている。
年の頃は十かそこらだろう。刺繍をふんだんに施した、珍しい片身替わりのシャツを身に着けていた。
彼は紅潮した頬に両手を当て、限界まで目を見開き、惚けた様子で部屋の奥の一点を見つめている。
「ありゃ、シド——」
「シドってば、もう! こっちは来ちゃだめって言ってるのに!」
コンスタンが名前を呼んだ直後、ぱんと張った凛々しい少女の声が追いかけてきた。
「ごめんなさい、テレーゼさま。すぐ連れて行きますから」
現れたのはマイエル家の末娘、コーネリアだ。彼女はシドの肩をむんずと掴むと、テレーゼのほうを向いて詫びる。
「気にしないで。彼は……コーネリアのお友達?」
「あぁいや、あれはシド・ブルーナっていって俺の甥っ子——妹の倅なんです」
「シド? なにをぼうっとしているの。ここは遊び場じゃないのよ」
「いやだぁ」
有無を言わさず連れ出そうとする従姉へ、シドは彼なりに必死の抵抗を見せる。
「ごめんなぁシド。でもコーネリアが正しいんだ。こっちは薬液も機械もそこらじゅうにあって、危ないんだよ」
「いたずらしない。見るだけ。見せてよぉ」
大人たちはシドの視線がしがみつく先を確かめ、ああ、と薄い納得を抱いた。
少年が恋するような目で見つめていたのは、窓際に置かれた製図机。
傾斜を付けた天板に立てかけられた図案——テレーゼが描いた、誰も知らない夢想の花々の絵だった。
「生地ができたら好きなだけ見せてやるから。な、いまは我慢してくれ」
コンスタンに諭され、シドはしょげ返りつつも大人しく頷く。従姉に腕を引かれながらの去り際、成り行きを見守っていたテレーゼとはじめて視線が合った。
「あ……あの、お仕事してるのに、ごめんなさい」
「いいえ。その刺繍、とても素敵ね」
テレーゼは片身替わりのシャツを指して言う。本心から出た言葉ではあった。
あまりにも悲しそうにしているものだから、ほんの少しの慰めも込めた感想だ。
きょとんとした顔で、テレーゼと自身のシャツを交互に眺めていた少年。
褒められたのだと遅れて理解した彼は、みるみるうちに表情を綻ばせていく。
「——僕っ! これ、ぜんぶ僕が刺したんですよ! 後ろも、ほら!」
なにかを察したコーネリアが素早く一歩下がる。自由を得たシドは両手を突き上げ、その場でくるんと回ってみせた。
前身頃の左側と後身頃の右側を埋め尽くす刺繍。大胆な配置と自慢の手仕事を見てほしかったのだろう。
勢い余って回転が早すぎたせいで、色とりどりの残像しかお披露目できていなかったけれど。
はじめに笑い声を上げたのはコンスタンだった。テレーゼも、コーネリアも、つられてけらけら笑い出す。
テレーゼはなにも知らない。この邂逅が、照れ笑いを浮かべる少年にとってささやかな思い出のひとつで終わらないことを。
いつかの未来、少年が彼女の背をがむしゃらに追いかけ、並び立とうとしてくることを。
いまはまだ、なにも知らないまま生きていくのだった。




