49 どうか希望と呼んでくれ/中
扉を開けるイグニスの手のひらには、宝剣アナトリオの重みがまだ生々しく残っていた。
儀式を終えゲランディーク城から戻り、着慣れた服に袖を通す。そうして私室を後にするまで、彼は一度もソファへ腰を下ろさなかった。
体は怠さを訴えかけている。空が白みはじめたころに支度をはじめ、頭から爪先まで隙なく“権威”を纏い、日が西へ傾きかけたいまようやく解放されたのだから。
けれど、先走る思考がイグニスの歩調をつねより速くさせる。
焦ってはいない。駆け出すつもりもない。逃せば二度と巡り来ることのない機会を前に、ほんの少し、急ぎたくなっているだけだ。
「イリア待って。落ち着きなさいったら」
そんな彼の足を止めたのは、通り過ぎようとした階段の下から聞こえてきた祖母の声だった。
「気持ちはわかるけれど……ベルナデットを呼んだのはあなたでしょう。じきに約束の時間よ。順番を違えてはだめ」
「様子だけでも見たいの。行かせてちょうだいよ義母さま」
下階を覗いたイグニスの目に、相対する母と祖母の姿が映った。小柄なライサに両腕を取られたイリアが、顔をくしゃりと歪め身をよじっている。
数時間前、正礼装を纏い凛と立っていた“王太后”とは思えないほどの取り乱しようだ。
「不安なら、わたくしがユーグについているから。いまのあなたより、あの子のほうがよっぽど落ち着いているわ」
「それよ。落ち着いているでしょう。穏やかすぎる。だから怖いのよ。ホルガーだってあの日——」
「どうした、ふたりとも」
階段を駆け下りたイグニスはやんわりと割って入り、イリアの腕を弱めに掴む。
母を駆り立てる焦燥に覚えがないわけではない。同じ恐れを、彼自身も兄に対して少なからず抱いているからだ。
ライサに仕草で促され、母は視線を逸らしたまま答える。
「……ユーグの部屋へ、行こうと思って」
「いまからか?」
「長居はしない。顔を見るだけで——」
「母上。今日くらいは、ルシアンのことだけを考えてやってくれないか」
はっと顔を上げるイリア。理知的なはずの目は、非合理な衝動に惑わされくたびれ果てていた。
「俺が兄貴のそばにいる。話したいことがあって……ちょうどいま、向かっていたところなんだよ」
イグニスは多くを語らず、掴んだままだった腕をぽんっと優しく叩いてから手を下ろした。
「……ね、イリア。ここはひとまず、レオに任せましょう?」
話の行方を見守っていたライサが、イリアの背を撫でつつそっと言い添える。
「先生とは外郭回廊で合流するんだろう。早く向かわないと、冷たい風の中で待たせることになるぞ」
「…………そうね。ええ。わたしこそ、風を浴びて頭を冷やすべきだわね。騒がせてしまってごめんなさい」
納得より辛抱が勝る声色で、硬い笑みで、しかしふたりの言葉を聞き入れたイリア。
先ほどのやりとりで少乱れてしまった義母のショールを整えると、彼女は足早に立ち去っていった。
「祖母上ありがとう。助かった」
「いいのよ。できるだけイリアと過ごすようにするから、安心して。それがわたくしの役目でしょう?」
「……それだけのために、ここへ呼んだわけじゃないよ」
「大丈夫、わかっているわ」
微笑みと共に深く頷いたライサは、また夕食の席でね、と言い残し部屋へ戻っていく。
数拍ののち、イグニスも身を翻し兄の私室を目指すけれど、その足取りは重く鈍いものへと変わってしまっていた。
(だから怖い、か。……母上からすれば、なおさらだろうな)
生え際へ五指を突っ込み、プラチナブロンドをわしわしとかき混ぜる。
父が見せたのだという最後の凪を、イグニスは文字でしか知らない。
彼の脳裏には、明誓の儀へたどり着くまでどうにか泳ぎ抜いた数日間のことが、ひとりでに浮かび上がってきていた。
バルトロメウスが私室で息を引き取った日の夜、マルゴワール公爵を連れて長男のもとを訪れた次男。
幾筋もの事実を削ぎ落とし、機密で秘密を覆い隠した兄のためだけの物語を、自ら語って聞かせた。
ヨハンは病で、父王は心労の果てに命の旅を終え。エデリーナは名前を捨て、自ら靴を脱いだのだ、と。
バルトロメウスとルチカの投身は伏せられた。しかし、イリアたちがこしらえた公的な筋書きよりは真相に近いものだ。
いくら取り繕ってみたところで、兄を打ちひしぐ現実に変わりはない。
利き手で殴りつけるよりはましだと、逆の手を振り上げるような横暴を、弟は自覚しながら引き受けた。
だが、振り下ろされた手の先にいたアロイジウスは、涙の一粒さえ見せなかった。なにも言わず、呼吸も乱さず。
ただ途中から、弟の手を握ったきり離そうとはしなかった。それだけだった。
諦めたくないことを諦めた人が、次に手放しかねないものはなにか。兄の汗ばんだ手のひらと、その熱を思い返しながらイグニスは歩き続ける。
「——レオ? 帰ってきていたんだね、おかえり」
窓辺のカウチソファで読書をしていたアロイジウスは、弟が入室してきた途端に表情を明るくさせる。
「無事に宣誓を終えたって、さっきセルジュから報告をもらったよ。これでひと安心だ」
「……ああ」
本を閉じ、目尻を下げる兄。その左半身へ引っ張られてしまう視線を、イグニスはようやく制御できるようになってきていた。
アロイジウスが羽織っているドレッシングガウンは片袖が空っぽで、体の線に沿ってゆるやかに流れ落ちている。
固定布が巻かれた左腕は、医官と職人の協働によって生み出された革製ストラップで吊るされていた。
「見届けたかったなぁ。君の晴れ姿は、即位式までお預けだね」
左頬の固定布もまだ外せないらしい。言葉の粒は不揃いで、輪郭が潰れてしまっている。
よく通る優しい声もいまはかすかにくぐもって、届くはずの距離をうまく渡り切れずに難儀していた。
「兄貴」
イグニスは、兄が声を張らずに済む位置まで近寄りつつ声をかけた。
どうしたの、と言いたげな眼差しに向かって、聞かずに済むなら聞きたくはない問いを簡明直截に投げる。
「庭へ出るのは怖いか?」
「ん……そうだね、少しだけ」
兄は目をまたたかせたものの、いつも通りの柔らかさで答えた。
血を分けたきょうだいだから、ではない。イグニスだから許され、アロイジウスだから許せるというだけの、無遠慮で危うい触れ方だった。
「俺がいっしょなら、どうだ?」
「嬉しい」
「……そうじゃなくてさぁ……」
「ごめんごめん、平気だよ。行こう。久しぶりに、外の空気を吸いたいと思っていたんだ」
おっとりおどけながら立ち上がろうとするアロイジウス。苦笑いを浮かべていたイグニスは、彼の右側へ回り込んで手を差し出した。
いつの間に自身の背丈を超していた弟へ、兄は迷うことなく右手と体重を預ける。
王と王兄は、二歩目から歩幅がぴったり揃ったことをなんら特別に思わないきょうだいだった。
「ふたりだけでこうしてのんびり歩くなんて、何年ぶりになるんだろうね」
花や彫像に囲まれた石畳の道へ、アロイジウスの呟きが落ちる。彼は空と木々の境目を視線でなぞりつつ、季節の移ろいを確かめていた。
「十年は経ってないと思う」
イグニスは兄の右斜め後ろ、半歩で助けに入れる距離を保ちながら軽く応じる。
「雑な答えだなぁ」
「しょうがないだろ、覚えていないんだから」
アルバライエンの秋はいっそ白々しいほどに美しく、ただそこにいる者までをも詩情で飾ってしまう。
勝手に詠われてたまるかとばかりに、イグニスはことさら口調を崩して詩趣に歯向かっていた。
「あっ、そうだ。ミサフランカにアポロも連れて行けるって聞いたんだけど、本当にいいの?」
吹きつける風に亜麻色の髪を乱されても、アロイジウスのお喋りは止まらない。
もとより多弁なほうではない弟へ、思いついたことを思いついた順番で気楽に放り投げている。
「そりゃあ、もちろん。出産に立ち会って、名前まで付けた馬を置いて行けとは言わないよ」
兄は拍子抜けするほど朗らかだ。しれっとした顔で会話を繋げるイグニスは、そつなく張っていた観察の糸を持て余しはじめていた。
「懐かしいな。あの子が産まれたのは——三年と少し前かな。君が、スフィーノへ留学したばかりのころだった気がする」
「アポロって、あれか。【ロレッタの冒険】に出てくる、真っ白い木馬」
「そうそう。ロレッタ・ルーンよりアポロが好きだって、ヨハンが話していたから」
「っ、ごめん」
謝ったのも、立ち止まったのも、反射としか言いようがなかった。己の言動に戸惑うイグニスの足元で、小さな砂利がぎちぎち鳴き声を上げている。
「どうして謝るの」
「いや……だって、辛いだろう」
「…………辛い……うん。辛いんだとは思う。いまいち、わからないんだ」
首をひねって、申し訳なさそうに打ち明ける兄。乾いた葉が擦れ、遠くでうら寂しい音を立てていた。
「言葉にするのが難しいな。実感がない、というか。夢でも見ているみたいな、妙な心地で」
「……兄貴」
「あぁでも、心配要らないよ。楽しかったことは、ちゃんと楽しいまま、思い出せているから」
呼びかけることしかできないイグニスへ、アロイジウスは愛馬の話の続きを聞かせる。
「私のアポロは栗毛だろう? だからヨハンには、アポロなのにアポロじゃない、って言われてしまって……エデリーナが、慌てて窘めていたよ」
言いながら、宝物をしまい込むように目を閉じた。
「…………そうだ。思い出なんだ。もう、思い出すことでしか、会えないんだよね」
独り言ち、シャツの胸元を力なく握り、深呼吸を繰り返すアロイジウス。やがてゆっくりとまぶたを開けた彼は、弟を見やるなり眉を下げて笑った。
「泣かないでよ、レオ」
「泣いてはいない」
語尾に被せて否定した彼の目は潤んでいる。とはいえ、たしかに泣いているとまでは言い難い按配だ。
姿勢を崩したイグニスは誰を責めるでもない溜息をつき、観念したように話しはじめた。
「……兄貴のことには、口を出さないつもりだったんだけどさ」
「そうなの? でも……そういうわけにはいかなくなっただろう?」
「立場の話じゃない」
「じゃあ、気持ちの話?」
アロイジウスは弟から目を逸らさない。震える唇を見せたくなくて、イグニスはきつく握った拳で口元を覆った。
「悔しい」
「うん」
「腹も立ってる」
「そっか」
「…………理不尽すぎるだろう、こんなの」
王になったその日、王は己が成熟には程遠い子供であることを思い知らされていた。
痛がらない人への寄り添い方を知らない。涙で悲しみを語らない人への、望ましい向き合い方だって。
吊るされた左腕を一瞥したアロイジウスが、うつむいてしまった弟へ歩み寄りながら言う。
「私は、理不尽を感じてはいないよ」
幼子を寝かしつけるような声だった。思いもよらない不可解な表明に、イグニスの眉がぴくりと歪む。
「レディ・ベガを追い詰めてしまったのは私だ。……だから。理不尽じゃなくて、帰結だと思ってる」
「なんだよそれ。庇うなよ。道理を違えたのは向こうで——」
「庇っていない。レオ、違う、聞いて」
いま出せる精一杯の声量で弟の言葉を遮ると、アロイジウスは意を決した様子で告げた。
「彼女は、あのとき、自裁を試みていたのかもしれないんだ」
ぎち、と再び砂利が鳴る。揺れる体を揺らすまいと踏みこたえる弟の肩へ、すかさず兄の右手が伸ばされた。
「確証はないよ。さすがにあのときは無我夢中で……克明に、詳細を覚えているわけではないんだけど」
「ちょっと待て、待ってくれ兄貴」
「いまは、そう思えてならないんだ。……ずっと引っ掛かっていた。私を狙っていたのなら、私のことを見ていなければおかしいだろう?」
イグニスの表情が険しさを増す。兄が必死に吐き出したのは、報告書からは拾えなかった事実の断片だ。
逸る気持ちを抑え、もどかしいくらいの空白を挟んで新王は口を開く。
「……よしんば、兄貴への害心を抱いていなかったのだとしても。結果として、彼女は大逆を犯してしまった」
「理解しているよ」
「俺は“真実”を求めない。追及しない。他言するつもりもない」
「君の判断に従う」
「その上で聞かせてくれ。ベガの長女は、誰を——どこを見ていたんだ?」
アロイジウスは弟の肩から離した手を掲げ、人差し指を立てた。
「……空を」
あぁ、と掠れた吐息がイグニスの口から漏れ出した。
「こう、砕けたガラスを握って……空を見上げていたような記憶が、残っている」
「…………そういうことか」
「逃げろと言われていたんだ。……だけど、私は。私ひとりで、取り押さえられると……」
——彼女は突然、なにごとかを叫びながら、花瓶の残片を振りかざしたのです。わたしは、殿下をお守りせねばと、それだけをただ考えておりました。
現場に居合わせた女官の証言が、イグニスの内側で声なく響き渡る。
王太子を守ろうとした女官。少女を制圧しようとした王太子。けれど、もしも少女が、自身の喉元へ凶器を突き立てようとしていたのなら。
「なんて愚かだったんだろう」
黙思に沈んでいたイグニスを、兄の言葉が現実へ立ち返らせる。
「私の誤断が……あまりにも多くの者を、巻き込んでしまった」
「やめろ兄貴。そんな風に、背負わなくていい」
「背負わせてよ」
たまらず声を上げた弟へ、アロイジウスはゆるく首を振りながらなおも言う。
「罰として引き受けてはいないから。これは……この先を過たず生きるために、携えて行かなきゃならない、戒めなんだ」
「過たず…………生きるため」
「うん。私なりの旅支度だと思って、見守ってくれないかな」
弟はこのときはじめて、何物にも侵されない堅牢な心の在りようを兄の中に見出していた。
彼の静けさは、父を連れ去った凪とは似て非なるものだ。優しさばかりが先に立つけれど、アロイジウスはけして脆くはなかったのだ。
「……理不尽を蒙ったのは、ルシアンのほうだよ」
ためらいがちにこぼされた名前が合図のように機能し、ふたりは同じ方角へ視線を投げる。
ロートス宮外郭のそばに建つ邸宅は、ここからでは屋根の一部しか見えない。
「あの子は、どうなってしまうんだい?」
アロイジウスは問う。母の不義が露呈した以上、制度はもうルシアンを彼らの弟と認めてはくれないのだ。
「……ルチカ妃と共に、王籍から廃される。離脱としては扱えない。抹消だ」
「抹消された、そのあとは?」
きょうだいは自然と互いへ向き直った。アロイジウスの表情は硬く、先ほどまでの朗らかさも鳴りを潜めている。
知ることを恐れていて、恐れていることを隠しもしない。そんな彼の様子が、弟の目にはなぜだか頼もしく映っていた。
イグニスは知らず詰めていた息を吐き、庭の奥へ目線を戻しつつ告げる。
「それを伝えようと思って、連れ出してきたんだよ」
「……よかった。教えてくれるんだね」
「ルシアンは今日、いなくなるんだ」
兄がたじろぐさまを気配で感じ取りつつ、弟は大きく息を吸い込んだ。
「あの家——違うな。この国から、ルシアン・ヒュペリエルという人間は、いなくなる」
早まる脈拍につられて、言葉まで走り出してしまいそうだった。イグニスは兄から顔を背けたまま、努めて淡々と話し続ける。
「ソルニアは、孤児が多いだろう」
「……孤児?」
「伝手を頼ってアルバライエンへ渡ってきた子供が、細いよすがを失うこともあるだろう」
至って真面目な弟の口振りに、アロイジウスは差し挟みそうになった疑問をしまい込んだ。
脈絡なく展開する話の先に、きっと求めてやまない答えがある。彼はイグニスの意図を正しく読み取ろうと、懸命に頭を働かせた。
「それでさ。近々、ソルニア人の孤児を、オーヴレイが猶子に迎えるらしいんだ。七歳の——」
「——名前はっ?」
男の子だ、と言おうとしたイグニスの袖を掴んで、強引に振り向かせたアロイジウス。紺碧の目の奥で、ささやかな興奮が火花となって散る。
「その子の名前って、もしかして」
「知らない。まだ、決まっていないんだと思う」
他人事じみた、それでいて明らかな示唆を噛み締めたのち、アロイジウスは泣き出しそうな顔で天を仰いだ。
安堵も憐憫も綯い交ぜとなって波打つ胸。言葉を探すどころではない彼の横顔へ、弟はずっと用意していた問いを投げた。
「会いに行くか?」
茶色い屋根の邸宅を指し、まだ“選べる”のだと示す。問うに及ばないことではあった。兄の返事に先んじて、すでにイグニスの爪先は邸宅へ向いている。
「話は……できるかどうか、わからない。でも、会いたいなら、連れて行く」
言いながら、イグニスは頬が熱くなるのを感じていた。いまさら気づいたのだ。本当は、自分がふたりを会わせてやりたいだけなのだということに。
感極まったように頷いたアロイジウスを見て、イグニスはその手を取った。
埋まらない欠落と裏腹な納得を引き連れ、急ぎ足で庭の奥を目指す。願いを叶え合うために、彼らは行くのだ。
ホルテアの池を迂回してたどり着いた邸宅は、はじめて足を踏み入れる者であっても懐かしさを抱く佇まいだった。
外郭回廊に近い正門へは回らず、ガーデンアーチを通り抜けたふたりは裏庭から玄関を探す。
「いい家だね。なんだか落ち着くし、よく手入れもされていて……ここは、取り壊してしまうの?」
「使い途がなければそうなっていただろうな。けど、使用人ごと貰い受けたいって母上が——あっ」
ポルティコで複数人に囲まれ、真剣な顔で話し込むベルナデットが見えた。イグニスはすぐさま会話を切り、腹から声を出す。
「先生! 悪い、少し時間が欲しいんだが」
「——まあっ。おふたり揃って…………!」
側方から飛んできた声に、貴婦人は素直な驚きで応えた。ぱたぱた駆け寄ってくる彼女のまぶたは、遠目でもわかるくらい腫れてしまっている。
イグニスはあえて慰めを脇に置き、こんなときでも気品を損なわない礼を取る彼女へ尋ねた。
「母上は……ルシアンは、まだ中に?」
「ええ、一階南のサロンです。モーガン、ご案内を」
ベルナデットの秘書に先導され、言葉なく、けれど慌ただしく邸内へ向かうふたり。
廊下の端で低頭する使用人たちの中に、きょうだいが幼いころから見知っている医官の姿もあった。
彼の傍らにはワゴンが置かれていて、通りすがりに何気なく視線をやったアロイジウスがぎょっとした顔で足を止める。
ワゴンに載っていたのは、古ぼけた金色の耳付きスープボウルだ。両の手のひらに収まるくらいで、さほど大きくはない。
器の底には、やや黄色がかった乳白色の——刻まれた樹皮の繊維らしきものが沈殿した液体が残っていた。
賜薬だ、と顔色を悪くする兄へイグニスが短く告げる。
「名目だよ。毒物は与えてない」
うなだれるように頭を下げ直す医官。アロイジウスはなにかを言おうとしていたけれど、弟に促されその場を後にした。
一階の南側、サロン周辺は人払いがなされていて、彼らを出迎えたのは真夜中とよく似た静寂だ。
モーガンがふたりへ目配せを送る。彼は閉め切られていなかった扉へ手のひらを当て、口を噤んだままそうっと押し開けた。
「————ごめ——、ルシア——」
外光が隅々まで照らす部屋に、籠った涙声が響いている。イリアは扉に背を向ける形でソファへ掛けていた。
これでもかと身を屈めているせいで、きょうだいからは細いうなじしか見えていない。
一歩、二歩と進んでも、絨毯に足音を吸われてしまう。息子たちが現れたことに、彼女はまだ気づいていないようだった。
どうしたものかと立ち止まるイグニス。母の嗚咽をはじめて耳にした動揺も手伝い、躊躇が喉を鈍らせる。
まずは控えめに呼びかけて——あれこれと思いあぐねる彼の隣で、アロイジウスが突如として口を開いた。
「なぜ謝るのです、母上」
体を跳ねさせ驚く母と弟を尻目に、兄はひとりでソファの前へ回り込む。
どれほどの時間泣き続けていたのか、目も鼻もいたいけな子供のように赤くしたイリア。
彼女の両腕には、まぶたを閉じ、くったりと四肢を投げ出したルシアンが抱え込まれている。
アロイジウスは咄嗟に息を呑んだけれど、規則正しく上下する少年の胸を確認するなり警戒をほどいた。
「…………眠っているんですね」
彼は母の足元へ慎重に片膝をつき、目線の高さへ来たルシアンの顔を覗き込む。
面食らっていたイリアも我に返ったようだ。手の甲で適当に顔を拭い、片腕で少年を抱き直しながら言う。
「そうよ。そうだけど……あなた、どうしてここに」
「レオが連れてきてくれました」
長男の視線をたどって振り向いた母は、次男に気づいてまたもや体を跳ねさせた。
一連のやりとりに気負いも失せたのか、イグニスはのそりと動き出し、イリアたちの斜向かいにあるソファへ腰を下ろす。
「ユーグも座りなさい。この子のそばがいいなら、隣へ来て。そんな体勢でなにを話そうっていうの」
「——なあ」
一転して、張り詰めた声色が、並んで掛ける母と兄の意識をイグニスへと向かわせた。
「これ…………気に入っていたのか?」
彼がじっと見つめているのは、正面のテーブルに置かれた菓子箱だ。
スフィーノ王国で彼の友が——いや、彼と友で選んだルシアンへの土産。星や花の形をした、色とりどりの飴。
格子状に仕切られた小部屋から、少年の口へ放り込まれた分だけ、底敷きのペーパードイリーが顔を出している。
「ああ……レオのお土産だね。喜んでいたみたいだよ。母上、仰っていましたよね。食べるのがもったいなくて、ずっと眺めていたんでしょう?」
「……ええ。とても、気に入っていた。喜んでいたわよ。……さっきも、口直しにね。詰まらせたらいけないから、ベルナデットが、砕いてくれて……」
次第に震えが増していく声。イリアの背は、言い終えるころには丸まりきってしまっていた。
ルシアンはよほど深い眠りへ落ちているのか、つむじへ顔を埋められても、きつく抱き締められても動かない。
無防備な寝顔は救いといえよう。しかし同時に、彼を取り巻く人々へ否応なしに無力感を覚えさせるものでもあった。
別れを惜しむどころではない強烈な失意が母を襲っている。彼女の手をすり抜けていってしまうのは、ルシアンひとりではないからだ。
腹の底に炙られたような痛みが走り、イグニスは知らず奥歯を噛み締める。
淡い暖色でまとめられた部屋の雰囲気がそうさせるのか、長い沈黙は居座るだけで誰のことも急かしたりしない。
とはいえ、彼らがベルナデットたちから時間を貰っているのも事実だ。仕切り直さねばと、イグニスが口を開きかけたそのとき。
「母上は、ルシアンの未来を、憂いておいでなのですか?」
アロイジウスが突然、母の生傷へ触れた。口振りこそ柔らかいものの、痛がらせることへのためらいはない。
緩慢に頭をもたげ、半分しか開かない目で、母は茫然と長男を見る。
「レオとハーシュリーに、覚悟を強いてしまったとお思いですか?」
次に挙がる名前を察したイグニスは、息を浅くするイリアを見かねて思わず口を挟む。
「急にどうしたんだよ、兄貴——」
「エデリーナの選択にも。負い目を、感じておられるのですか?」
間に合わなかった。いつになくこわばった表情で固まる弟へ、アロイジウスは気の抜けるような笑みを見せた。
浮かんだ笑みは消えずに母へ向かう。首を傾げ、どこか淋しげに、傷だらけの兄は最後の問いを投げた。
「母上にとって、私たちは……哀れな子供なのでしょうか」
「……そうじゃない。そういう、つもりじゃ」
少年を抱え直しながら、イリアは何度も頭を振る。
「…………幸せに。なって、ほしかっただけ……」
子供たちみんな、ひとり残らず。極めて素朴で単純な願いが、呻きも同然の声で絞り出された。
ぎゅっと閉ざされた彼女の両目から、でたらめな軌道を描いて涙がこぼれ落ちていく。
「すみません。意地悪な聞き方をしてしまいましたね」
取り出したハンカチで母の涙を拭ったアロイジウスは、母から貰った色の目に力を込めて母を見据えた。
「だけど、まだ早いです。諦めないでくださいよ」
虚を突かれ、しぱしぱとまばたきを繰り返すイリア。ルシアンを抱く腕が、無意識のうちに緩んでいく。
「生も死も、人の心も、ままならないものだと思い知りました。わかったつもりでいたことが、いまはただ恐ろしくて……恥ずかしくもあります」
神妙な面持ちで語っていたアロイジウスはそこで言葉を切り、ルシアンの頬や鼻先を優しくつつきはじめる。
「……これから先。未練がましく立ち止まったり。分かれ道の向こう側へ想いを馳せることだって、何度もあるでしょう。惜しんでいますよ。当然です、自然なことです」
彼にしては珍しい、勢い任せの雑然とした述懐だ。つねとは違う様子に戸惑い、視線を交わす母と弟。
ふたりの心情を知ってか知らずか、アロイジウスは勇ましく顔を上げる。涙目だった。
失えど喪えど秘めてきたものが、ここへきてとうとう込み上げたのだ。
「ですが。少なくとも、私はめげていません」
「……えっ?」
内心でひどくうろたえていたイリアは、予期せぬ宣言を受け取り損ねて聞き返してしまった。
「めげていません。だからまだ、母上にも、諦めないでいてほしいのです」
「…………そう来るとは思わなかった」
律儀に言い直すアロイジウスへ答えたのはイグニスだった。
彼は背もたれへ上体を預け笑っている。揶揄も含みもなく、むしろ、尊ぶべきなにかを見つけたかのようなよろこびを滲ませていた。
「母上、俺もだ。俺だってめげちゃいないよ」
父から貰った色の目をかすかに潤ませながら、イグニスも兄に倣う。
彼らは他者の意志を勝手に代弁しようとはしない。
曖昧な慰めで不安を塗り込めようともしない。
その分別がイリアにはどうしようもなく眩しくて、いじらしくて、愛おしくて仕方がなかった。
肩を小刻みに震わせ目元を覆う母へ、イグニスが軽口を放り投げる。
「……つられて笑うか、貰って泣くか」
「……両方よ」
「違いないね」
イリアは子供たちの顔を順番に、記憶へ強く焼き付けるように眺めた。
ずっとこのままでいたいと希うけれど、サロンの扉を叩く音が折り目正しく終わりを告げる。
現れたのはイリアの側近だ。ルシアンを城の外へ——オーヴレイ侯爵邸へと秘密裏に送る支度が、万全に整ったらしい。
「起きないとは思うけど……くれぐれも起こさないようにね」
母に代わって慣れない手つきで少年を抱き上げたイグニスは、感じたままの印象を率直に呟いた。
「軽いし、小さい」
「ヨハンのほうが小さいよ」
「答えにくいのわかってて言ってるだろう」
笑ってごまかしたアロイジウスはクリーミーブロンドを掻き分け、傷ひとつないつるんとした額へそっと唇を落とす。
別離の儀礼は慎ましく、穏やかなまま行われた。誰も大仰に嘆かないのは、眠る子供を起こさないためだ。
「顔を見られてよかった」
「ベルナデットへ……よろしく頼むわね」
側近へルシアンを託し、母と息子たちは並んで彼女らの退室を見届ける。
遠ざかっていく気配と足音が感じ取れなくなるまで、三人がその場を離れることはなかった。
「——母上。私がここを離れる前に、お茶を淹れてくれませんか?」
誰からともなくソファへ戻り、息をついたとき。アロイジウスは照れ臭そうに、はにかみながら切り出した。
「レオが選んでくれた、スフィーノの紅茶。お祖母さまと、四人で……みんなで飲みたいんです」
「あ……え、えぇ。構わないわ。もちろん構わないけど」
「私が振る舞いたいところではあるのですが……間に合いそうにないから」
歯切れ悪く応じる母へ、長男は左腕へ触れつつ眉を下げる。
「わかってる。いいのよそれは。あのね、ユーグ——」
「俺が淹れてやる」
まごつくイリアを言葉で押しのけ、次男がひらひらと手を挙げた。
「レオが? 淹れたことあるの?」
「スフィーノじゃ自分で淹れてたからな」
イグニスは察していた。母の返事がぎこちないのは、上手に淹れる自信がないからなのだと。
彼は知っていたのだ。バルトロメウスの腕前を。母によく、憩いの一杯を淹れてあげていたことを。
「それに——母上はけっこう大雑把だぞ。俺のほうが、うまく淹れられるはず」
彼が知らないのは、まだなにも壊れていなかったあの夜、母と長男で交わした叶うことのない約束だけ。
知らせなくてもいい。知らないほうが、きっといい。
自身にそう言い聞かせたイリアは、顎に残った涙の跡を擦り取りながら笑った。
「——そうね。レオはけっこう几帳面だもの。お願いするわ」
別れと泣き笑いと約束が通り過ぎた夕間暮れ。薄い橙の光が、室内を遠慮がちに染め上げる。
イグニスはふと、テーブルの隅に転がる砕かれた飴の欠片に気がついた。指先で拾い上げようとして——触れることすらできなかった。
不毛な抵抗だ。手を引っ込めたところで、彼がここから立ち去ったあと誰かが必ず捨ててしまう。
それでも、弟として生きてきた少年の痕跡を、残しておきたいと思ってしまったのだ。
忘れることも、忘れないことも、等しく愛のあらわれである。
しかし年若い王にとっては、忘れてやるものかと抗うことこそが、もっとも愛に近しい態度なのであった。




