48 どうか希望と呼んでくれ/前
ラシーヌ伯爵邸をぐるりと取り囲むよう、等間隔に立てられた淡色煉瓦の柱。
その隙間を繋ぐアイアンフェンスにはいま、黒の薄絹が張り巡らされている。
アルバライエン王国全土で喪の色がはためき出したのは二日前のことだった。
国王バルトロメウス・ホルガー・ヒュペリエル崩御に伴い、慣例に従って、新国王イグニス・レオ・ヒュペリエルの即位儀礼を一両日中に執り行う。
王室広報の発表を受けた人々は速やかに弔旗を掲げ、黒あるいは紫、灰色の布を門扉や街灯に這わせた。
浅い日差しが影を長くする伯爵邸一階のサロンで、ソファに掛けたダンテが腕組みをしたまま黙りこくっている。
向かいでコーヒーを味わう男性はとくに頃合いを計るような素振りもなく、カップに施された野薔薇の絵付けへ視線を落としつつ口を開いた。
「見事なお振る舞いだったよ」
男性——ウィンゼル侯爵ヨゼフ・ガリエはこの日、ラシーヌ邸を訪ねる前、ゲランディーク城黎明の間にて執り行われた明誓の儀に立ち会っていた。
「明日の朝刊で、新王陛下がつつがなく儀式をまっとうされたと報じられれば……みな、ようやく人心地つけるだろう」
返答に窮する類いの発言ではないはずだ。だというのに、ダンテはかすかに口を動かしたかと思いきやすぐに噤んでしまった。
ふたりが纏うジャケットは目の詰まった生地で仕立てられていて、光の一切を反射することはない。
色彩を抑え、輝きを慎む人々の気も知らず、庭へ張り出したボウウィンドウの向こうでは紅葉と緑がにぎやかにざわめいている。
「アロイジウス殿下のご処遇も定まった。国葬ののち、王籍を離脱されるまでは、ミサフランカの離宮でお過ごしになるそうだ」
「……王祖母殿下のおそばでご静養される、ということか」
「いや、ライサ殿下はすでにロートス宮へ移られているよ」
「なんと。だったら……なおさら、ご一家揃って過ごされたほうが……」
釈然としない様子で言い淀むダンテは、“王兄殿下”ではなく十八歳の青年を慮る年長者の顔をしていた。
ヨゼフはカップを置き、足を組み替え、つねと変わらない口調で淡々と答える。
「イグニス陛下は、兄君をロートス宮へ留め置くほうが酷である、とお考えになったようだ」
代替わりを迎え新体制へ移行したアイテール城では、誰しもが忙しなく立ち働いている。
上も下も入り乱れた、空気が毛羽立つような騒がしさは、表層のみを掬えば無秩序な喧騒にも見えた。
しかし、ある種の熱気に包まれた城内で、人々が役割と目的を見失うことはない。
混沌は規律正しくうねりながら収束し、新時代の強固な礎にならんとして渦を巻いている。
いまだ癒えぬ傷を心身に抱えたアロイジウスが、熱気と渦に飲み込まれてしまわないように。弟は、兄を遠ざけることで守ろうとしているのだろう。
「……たしかにな。向こうの離宮なら、お心安らかに養生していただけるだろうさ。しかし……ご一家の睦まじさを思えばこそ、やりきれないものもある」
「ダンテ。これはあくまで、私の所感に過ぎないのだが」
ヨゼフは長い指を口元に添え、呼吸ひとつほどの間を置いてから慎重に言葉を並べはじめた。
「アイテール城には……アロイジウス殿下が、幼少のみぎりから描いておいでだった未来が、色濃く残りすぎている」
潰えた道。手放さざるを得なかった夢。幸も不幸も分かち合い、共に歩くはずだった者の影。
「もう取り戻せないものの残像を、重ねやすい。たやすく重ねて、失ったことを幾度も確かめてしまえる場所だ」
ヨゼフの言葉には重い実感が見え隠れしていて、まるで他人事の顔をしていない。
当事者の距離で語られていることに気づいたダンテは、半ば無意識に肺を大きく膨らませた。
「だから、ではなく、せめて、なのだろう。……思い出が翳る前に、アロイジア門の外へ」
窓へ向かったサファイアブルーの目は、陽光に照らされてなお暗く沈んだままだ。
彼の視線を追いかけ、紅葉を愛でるでもなく眺めはじめたダンテ。
やがてふたりはどちらからともなく正面へ向き直り、曖昧に途切れていた会話を拾い上げた。
「ともあれ。兄君への慈しみが込められたお取り計らいだと、私は感じているよ」
「……明春の即位式と、婚姻誓約式までには、アロイジウス殿下も……」
「ああ。喪が明けるころにはご回復へ至っておられよう。式典へのご列席が、王族としての最後のお務めとなる運びだ」
頷く代わりに顎を引いたダンテは、組んでいた腕を力なくほどいた。
「なあ、ヨゼフ」
口火を切る役目は、どうやら幼馴染が引き受けてくれたらしい。名を呼ばれたヨゼフが薄く微笑む。
いままさに差し出されようとしている問いに答えることも、彼がラシーヌ邸を訪れた目的のひとつなのだ。
身構える振りすらしないヨゼフの態度は、精神の摩耗をかえって雄弁に物語っていた。
「……ほかに、手はなかったのか?」
ためらいに揺れる呟きを合図として、静けさは性質を変える。
「……本当に、家を閉じるのか」
角のない余白が消え、厳かに立ち上がるのは、喪失に向き合うための猶予と呼ぶべき静寂だ。
「……エデリーナは……っ、帰って、こないのか……」
受け止めることと、受け入れること。似て非なる観念の狭間に立たされた心が選んだ、せめてもの抵抗なのだろう。
覆らないのであろうことを知りながら、堪えきれずにダンテは言う。喘ぐような息遣いと語尾の震えに、抑え込まれた悲哀が滲んでいた。
「すまないダンテ。すまなかった。君の子供たちにも——」
「違う、止してくれ、そんなことを言わせたいんじゃない。……どうしようもなかったんだな。お前であっても、変えようがない、顛末だったんだろう」
両手で顔を覆ったダンテが短く鼻を啜る。涙交じりに語られた言葉は、無自覚な信頼の発露にほかならなかった。
ヨゼフは目を伏せ、喉の詰まりを悟られないようゆっくりと返事をした。
「……どうしようもなかったのではない。こうするしかなかったんだ。次の火種は、我々なのだから」
涙と息が同時に止まり、ダンテは勢いよく顔を上げる。言葉を失い、瞠目するばかりの友の姿が、ヨゼフの胸を締め付けてやまなかった。
「火種だって……? お前たちが?」
「君もダナエを案じていただろう」
「待て、なんの話を」
「彼女が私の養子となったならば、直面しうる困難について」
恐ろしい速度で腹に落ちてきた答えが、ダンテから再び言葉を奪う。
案じていた。憂いてもいた。報いと理不尽が混線した敵意は、いつだってウィンゼルを背負う者につきまとうからだ。
「憎まれることも務めの内。……数百年かけて丹念に歪んだ、とうに限界を迎えている仕組みの話だよ」
“そういうもの”だという諦め。不可分な呪いだという受容。秩序を保つ一方で、対立を生み続けるというねじれ。
蛇は自己矛盾の果てにとうとう自らの尾を噛み、二本の剣もまた、いよいよその切っ先を己へ向けるまでに至った。
「役目のすべてを情報局へ託しても、名前が残れば、的になる」
窓の外でひときわ強い風が吹く。煽られ、ちぎられ、数枚の木の葉が空高く舞った。
「めくれたら最後、王家もろとも爆ぜる秘密を抱えた我々が……どうして、退かずにいられようか」
喉仏を上下させ、しばし天井を仰いだ彼は、細い溜息に声を混ぜて呟いた。
「エデリーナが言ったんだ。次の火種は、わたしたちだと」
「……あの子が、自ら」
「ヒュペリエルへ嫁すなどもってのほか。あの日燃え落ちた南館で、亡くなったことにしてくれ、と」
「……そうか。そうだよな。お前が、娘から、靴を取り上げるはずが……」
「取り上げたも同然だよ」
胸元のチーフを引っこ抜き、またもや溢れ出してきた涙を乱暴に拭いはじめるダンテ。
ヨゼフは彼のみぞおち辺りへ視線をやりながら、自嘲を帯びた声で語り続ける。
「エデリーナは、その覚悟を以てして、私の蒙昧を剥がしてくれた」
ソファへ浅く座り直し、幼馴染を慰めるかのような、自身へ言い聞かせるかのような調子でヨゼフは言う。
「君も知っているだろう。我々は、この国でもっとも火の始末を心得ている一族だ」
自負ではなかった。誇らしさが微塵も匂わない純然たる事実を、彼はただなぞり上げているだけ。
「だから終わらせる。誰ひとり、巻き添えにはしないよ」
言い切って、ヨゼフはもう一度カップへ手を伸ばす。世界に弔われているような錯覚の中、幼馴染が泣き止むまで、彼は穏やかに窓の外を見つめていた。
「——お前もクレドへ行ってしまうんだな」
しばらくが経ち、白目を真っ赤にしたダンテが、運び込まれたばかりの焼菓子をつまみながら小さくこぼす。
ヨゼフはゼーレワイス公爵家から正式にクレドの別邸を譲り受けたのだという。深い森の奥に佇む静かな邸宅が、彼らにとっての終の住処となるようだ。
「ああ、すぐにというわけにはいかないが。しばらくは、マグノリアに使わせていたあの家で暮らすつもりだ」
「……プリューセンではなく?」
「本邸はイリア殿下へ預けることになっている。トマスたちを少しずつクレドに送って……私の家渡りは、ソルニアの情勢次第だ」
眉をひそめ、表情で説明を求めるダンテへ、ヨゼフは簡潔に答える。
「ルチカ妃とワロキエ夫人の罪過が取り沙汰されれば、まず間違いなく荒れるだろう」
「しかし……あちらでは、新聞社もずいぶん締め上げられていると聞くぞ。宮廷が看過するとは思えないが」
「綻びはすでに生じているよ。おそらく、マルゴワール公も警戒を強めているはずだ」
ダンテは耳を傾けながら思考を整理し、やがて、神妙な面持ちで口を開いた。
「手を出すのか」
「及んでくるならば」
「それが、ウィンゼルとしての、最後の務めだと?」
予想とは異なる角度から差し込まれた問いだったらしく、ヨゼフがわずかに目をまたたかせる。
「……いいや。長官殿に招聘された、臨時顧問として。ヨゼフ・ガリエとしての、ささやかなご恩返しだ」
束の間の沈黙を挟んで返された答えもまた、ダンテにとっては思いもよらないものだった。首をひねり、率直に尋ねる。
「恩……? どういう意味だ、それは」
「字義通りだよ」
ヨゼフはおもむろに居住まいを正し、気恥ずかしさを不器用に隠しながらもダンテと向かい合う。
「恩知らずにはなりたくないんだ。ウィンゼルの歴代当主に、きっと私ほど、人に恵まれた者はいないのだから」
無防備な本音を前にたじろぎ、返すべき言葉を見つけられずにいるダンテ。
ヨゼフは彼の心境を知ってか知らずか、懐から封筒と小箱を取り出してテーブルへ滑らせた。
「この手紙をダナエに。君とサンドラ夫人も、目を通してくれて構わないよ」
「あ、ああ……。わかった、預かろう。こっちは?」
いささか強引な話運びではあったものの、家族の名前を出されたダンテは反射的に流れへ乗った。
封筒を受け取らなかったほうの手で、柊が描かれた象嵌細工の箱を指して聞く。
「形見ではないが、形見分けのようなものだ。これは、ダリルに……君から渡してやってくれないか」
指先で箱の角をひと撫でし、伏し目がちに頼むヨゼフ。次の瞬間、すう、と息を吸ったダンテが、箱を手にするやいなや突然立ち上がった。
「ダンテ?」
「……あの子は二階の私室にいる。お前が、直接、渡したほうがいい」
彼は言い終える前から扉へ向かって歩きはじめる。譲るつもりのない背中を見せられたヨゼフは、大股で彼を追うしかなかった。
仰天したのはダリルだ。窓辺で頬杖をつき、風になびく黒い薄絹をぼんやり眺めていたところへ、大人たちがかしこまった顔で現れたのだから。
「父さまたち、どうしたの……?」
「このおじさまが、お前に用があるそうなんだ」
身振りで示され父の隣へ視線を移したけれど、ヨゼフは少年を見つめてはいなかった。
サファイアブルーはなにかを懐かしむように部屋を一巡し、やがてダリルへたどり着くと柔らかく細められた。
「少しだけ、時間を貰えるかい?」
「はい——あっ。あの、その前に、いいですか」
ダリルはそう言って、ぱたぱたとキャビネットへ駆け寄っていった。ヨゼフとダンテは顔を見合わせ、小さく首を傾げる。
しかし、ほどなくして少年が身を翻したとき、ふたりは揃って言葉を失ってしまった。
彼が持ち出してきたのは、金色のサテンリボンが掛けられた薄い箱だ。子供の腕でひと抱えほどの大きさをしている。
「これ。ヨハン……えっと、僕…………誕生日だから」
「……そう、か。用意してくれていたんだね」
「仕掛け絵本、です。母さまと……みんなで、選んで……」
ダリルとて、贈りたかった相手に届かないことは承知している。けれど、彼の中でまだ喪失は名前を与えられていない空白に過ぎなかった。
偲ぶことも、悼むことも、少年にとってはあまりにも遠い概念なのだ。
ヨゼフはゆるく拳を握り、一歩前に出て身を屈めると、囁くように語りかけた。
「ありがとう。君の名を添えて、私が代わりに捧げておくから」
「はい。よろしくおねが——父さま?」
ふたりのやりとりを見守っていたダンテが、突然口元へ手を当てた。ダリルは困惑して、父とヨゼフを順繰りに見上げる。
「いや、なんでもない。……悪いが、僕は席を外させてもらう」
片手を振り、うつむいたままそう告げると、ダンテは足早に部屋を出て行った。
事態を飲み込めず立ち尽くす少年の頭に、ヨゼフが手のひらを乗せる。
「テーブルを借りるよ。私からも、君に渡したいものがあるんだ」
部屋の中ほどへ置かれたスクエアテーブルには、ダリルの日常が散りばめられている。
図鑑、ビスケットバレル、木製パズルを端に寄せた少年は、錨のメダリオンが彫られた椅子——遊びに来たヨハンがいつも座っていた席へヨゼフを案内した。
「“ウィンゼルブルー”のことは知っているかい?」
行儀よく隣に掛けたダリルの目の前で、ヨゼフは小箱の蓋を外してみせた。
あ、と声は出さずに口を開くダリル。箱に収められていたのは、ヨゼフがよく身に着けていたサファイアのループタイだった。
「エデリーナ姉さまから……前に、教わりました。アロイジウス一世が、名前をつけて……ウィンゼルに授けたって」
「そうだよ。賜ったサファイアで作られた装身具は複数あってね。時代の変遷とともに、少しずつ仕立て直しているんだ」
ダリルの横顔を見つめていたヨゼフは、一度だけ長いまばたきをしてから言葉を続ける。
「……嫁いでいくエデリーナにはパリュールを。このループタイは、ほかの家宝と共に、ヨハンへ譲り渡すことになっていた」
どうしてそんな大切な宝が、目の前に置かれているのだろうか。渡したいものがある。まさか。
ダリルはヨゼフの意図を確かめたくて、けれど体に力が入らずやっとの思いで顔を上げた。
「よく似ているだろう。……どんな絵姿よりもあの子たちに近い、瑞々しい青だ」
雲が増えてきたのか、先ほどより薄暗くなった部屋で、ヨゼフはなぜか眩しそうに目を眇めている。
じっと見てはいけないような気がして、ダリルはループタイへ視線を逃がしてしまった。
テーブルへ載せられたヨゼフの手が目に留まる。父より大きくて、薄くて、指の長い骨ばった手だ。
すぐそこにある手は、もう自分の子供を抱き上げることも、髪を撫でることもない。
したくてもできないのだ。いなくなるとは、そういうことなのだ。
限りなく理解に近い認識と同時に、猛烈な恐怖がダリルに襲いかかってきた。
「すまなかったね」
謝罪の意味を考えるより早く、真っ先にダリルの意識を占めたのは“熱い”という感覚だった。
「何度も、手紙をくれていただろう? 最期に会わせてやりたかったが……叶えてやれず、すまなかった」
目の奥も、喉も、吐き出す息までもが熱を帯びてくる。少年は背を丸め、何度も頭を振った。
「もら、えませ……どうして、これ、僕は」
「ダリル、落ち着いて」
「おじさまがっ、これはおじさまの……! 僕じゃない、僕より、おじさまが……」
しゃくりあげながら咳き込み、溺れるように泣きじゃくりはじめたダリルを、ヨゼフは腕の中へ引き寄せた。
「君が持っていてくれ。さみしくなったら、私は鏡を覗けばいいのだから」
慰めと引き換えに、時は記憶から鮮やかさを奪っていく。だからヨゼフは、忘れられないために贈ることにしたのだ。
「私の子供たちはね、君のことが、本当に大好きだったんだよ」
僕だって大好きだ。そう叫びたくても、わななくばかりの唇はちっとも思い通りに動いてくれなかった。
ヨゼフの胸におでこを預けていた少年は、涙に濡れた目だけをテーブルの小箱へ向ける。
ヨハン。エデリーナ。きらめく宝石の目を持つ姉弟は、ダリルの世界の真ん中に近い場所にいた。
ごしごしとまぶたを擦る小さな手を、ヨゼフがそっと制止する。その優しさが、友人から横取りしてしまったもののように思えて、少年は胸が潰れそうな苦しみに耐えることしかできなかった。
さようならも、花籠も、いまは心から捧げられそうにない。
ヨゼフの温もりの中で漠然と抱いていた気持ちは、庭の赤がすっかり消え去ってもなお頑なに居座り続けていた。
無情か慈悲か、日々はただなめらかに過ぎていき、ループタイを受け取ってから三月ほどが経とうとしているこの日。
ケープコートを羽織った少年が、ラシーヌ邸の敷地内をひとりあてどもなく歩いていた。
母屋を離れ、うっすら雪が残る庭を黙々と進むダリルの表情は沈んだまま。
両親や使用人、ベルナデット——大人たちは子供の前で笑みを絶やすことはなかった。“嘘”ではないけど、ひどく“しぼんだ”笑顔だ。
もう少し幼ければ無邪気に笑い返せた。もう少し大きければ、兄や姉のように、慰めや労りを差し出せたのかもしれない。
どちらにも寄れないダリルは、ひとりきりで過ごすことが当たり前になりかけている。
しぼんだ笑顔を見るのはつらい。気遣わしげな眼差しに背を向けることもつらい。
どうすることもできないから、こうして見知った場所を意味もなくさまよい続けているのだ。
「——ほらマチルダ、段差があるわよ。気をつけて」
ふと聞こえてきた弾むような声が、少年の足を止めた。
「そっちの鞄も貸して。先に行って積み込んでおくわ」
「頑張ってねマチルダさん。みんなで待ってるから」
「本当にありがとうございます。こちらへ来てから、ご面倒ばかりおかけして……」
「やだ、そういうのは言いっこなしよ」
使用人が住まう離れの横を通り過ぎようとしていたダリル。にぎやかなお喋りは、建物の裏手から聞こえてきているようだ。
吸い寄せられるように角へ向かい、ひょこっと顔を出した彼は目を丸くする。
お腹の大きな女性を囲んだ使用人たちが、心底楽しそうに、嬉しそうに笑顔を浮かべていたのだ。
久しく味わっていない高揚感が伝わってきて、ダリルは胸の前で無意識に組んだ手指をもじもじと動かす。
「あらっ。ダリル坊ちゃま、こんなところでどうされました?」
そんな少年を見つけ声をかけたのは、離れの中から出てきた“ばあや”だった。
その場にいた全員が一斉に彼のほうへ向き、礼を取る。薄い緊張感では覆いきれない喜びの気配が、真っ白な吐息に溶けて辺りを漂っている。
「…………ねえ。赤ちゃん?」
小走りでばあやのそばへ寄ったダリルは、マチルダと呼ばれていた女性を指して尋ねた。
ばあやたちから促され、恐縮しつつ歩み出てきたマチルダがにこやかに答える。
「はい。もうすぐで産まれてくるんです」
まんまるく膨らんだお腹をしばし見つめていたダリルは、彼女を見上げて力なく言った。
「産まれたら、僕にも見せてね」
マチルダの立場からすれば、主人の息子相手においそれと約束はできない。
どう答えるべきか迷う彼女から、ばあやがさりげなく話を引き取った。
「では、奥さまにお願いしましょうか。きっと叶えてくださいます。……それと、よい機会です。とっても大切なお話を、少しだけ」
裾を捌き、ダリルの前でしゃがみ込んだばあやは、表情を引き締めて伝える。
「命を産むのは、命懸けなのですよ」
口は挟まず、けれどちゃんと聞いているよ、と示すためにダリルは頷いた。
「母親と赤ちゃんが力を合わせて、懸命に戦い抜いて、それでようやく会えるのです」
ばあやの言葉は平明で、だからこそ少年は敬意を欠いていたことに気づき、自身の物言いを恥じる。
真剣に聞き入るダリルを、マチルダも使用人たちも真剣に見守っていた。
「ですので。赤ちゃんが無事に旅路へ降り立てるよう。マチルダがここへ、健やかに戻ってきてくれるよう。坊ちゃまも、応援して差し上げてくださいな」
応援、と呟いたダリルは、ついさっき耳にした使用人の言葉をそっくりそのまま借りることにした。
マチルダへ向き直り、鳶色の目を見つめ、若干の照れ臭さを覚えつつ口を開く。
「……頑張って、ね?」
「ふふっ、ありがとうございます。頑張ってまいりますね」
「僕も、待ってる。マチルダと……赤ちゃんのこと」
会いたい人に会えるのがどれほど幸せなことか。
会いたいのに会えないことが、どれほどの悲しみをもたらすか。
ヨハンとエデリーナから教わった痛みが、ダリルの背筋をまっすぐに整えてくれる。
頭を下げ、晴れやかな笑顔で去っていく彼女らの背中がうんと小さくなるまで、少年は精一杯の願いを込めて見送っていた。




