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銀のひばりと朝の夢  作者: 問島 夕生
二章 わかれみちまで手を取り合って
48/48

47 落陽

 目まぐるしい断絶の一夜が終わろうとしていた。カーテンの向こうから白みがかった光がじわじわと迫る。

 朝の版図はもう間もなく、意識のない王を秘密ごと閉じ込めた彼の私室へも及んでくるのだろう。


 夜通し治療にあたった医官らは退室しており、部屋の主とその妻だけが取り残された部屋。

 ナイトガウンを羽織ったイリアが、ソファの肘掛けにもたれかかっている。

 彼女はまんじりともせず、ときおり緩慢にまばたきをしながら、数時間前の出来事をなぞり続けていた。


『側妃殿下は……レディ・ベガの名を、口にしておられました』


 離宮一階のパーラーにて、女性衛兵は低頭したまま語る。


『王陛下は人払いを――あなたたちを部屋から出したのでしょう。廊下まで響いていた、ということ?』

『仰るとおりです。……ほとんど聞き取れない、悲鳴のようなものでしたが……“フィオレンツァ”という名前だけは、何度も』


 王妃はたちどころに理解した。王はまず間違いなく、側妃に密通相手を伝えてしまったのだな、と。

 ただひとり心を許した少女と息子が異母姉弟である可能性など、ルチカには到底受け止められないはずだ。


 このとき彼女は冷静な顔の裏で、周章狼狽せず平然と振る舞う己を訝しんでいた。

 揺さぶられていることを自覚できるのは、足元が確かなときだけ。生まれてはじめて極限まで追い込まれたイリアにはまだ、底が抜けたという実感がなかったのだ。


『ふたりは言い争っていたの?』


 ルチカの死はすでに確認されている。医官の見立てによると、断言はできないものの飛び降りる前に亡くなっていた可能性が高いそうだ。

 状況に鑑みれば、彼女を死に至らしめたのはバルトロメウスなのだろう。その夫がまぶたを閉ざしているいま、イリアは情報の断片をかき集めて推測することしかできない。


『そのような印象は持ちませんでした。漏れ聞こえてきたのも、側妃殿下のお声のみです。王陛下は……けして、お声を荒げることなく……』


 扉の前で待機していた彼女たちは、泣き叫ぶルチカをバルトロメウスが宥めている、と捉えていたらしい。

 慟哭は啜り泣きへ変わり、徐々に小さくなっていき――平常と異変の境界線はぞっとするほどなめらかで、継ぎ目といえるものは見当たらなかった、と振り返る。


 職掌柄、目端が利くはずの衛兵をもってしても、違和感を拾うまでに時間を要してしまったのだ。


『……いささか、静かすぎるのではないか。ご様子を伺うべきではと考え、傍輩らと、相談していたとき……』

()()()()のね』

『…………はい。一瞬だけ、重くて……耳慣れない音が、聞こえてまいりました』


 確かなことはそう多くない。けれどもっとも信じ難く、なにかの間違いであって欲しかった行いだけは、誰の目から見ても確かなことだった。

 バルトロメウスは守りを、耳目をかいくぐってまで身を投げた。言葉や文字をひとつたりとも残さず、命を手放そうとした。


 なぜルチカを手にかけたのか。彼女を抱き締め飛んだのか。それ以上に、彼はなぜ、息子たちを置いて行こうとしたのか。

 イリアは己の奥底で、怒りに近い感情が温度を上げていることに気がついていた。


 痛みと熱に苛まれる長男。遠い国でひとり暮らすことを選ばせてしまった次男。もしバルトロメウスがこのまま目を覚まさなければ、彼らは――。


 胸が波打ち、吸っても吸っても空気が足りない。頭を振って物思いから逃れたイリアは、顔色を失くしうなだれる衛兵をひとまず下がらせた。

 続けざまにパーラーへ呼び寄せたのは男爵夫人だ。五十がらみの夫人も血の気が引いた顔をしており、その手には、バーガンディの革製宝石箱を携えていた。


『……ペリドットの耳飾り、よね、それ』

『はい。取り急ぎ清めてまいりましたが……片方は、損傷が――』

『清め……? まさかあの子(ルチカ)、いま、さっきまで、身に着けていたの?』


 焦慮に駆られ伸ばした腕で宝石箱を引き取った王妃が、上擦った声で尋ねる。


『……身に着けておいででした。今夜に限らず、王妃陛下がお持ちになられた翌日から……』


 眠るときと、入浴するとき以外はずっと。夫人の返答を聞き、唾を飲み込みながら蓋を開けたイリアは反射的に目を固くつむった。

 ふたつのうち、片方だけが墜落の衝撃で外れ、地面へ叩きつけられたのだろう。

 留め具やふちがところどころひしゃげ、えぐれており、ペリドットの表面にも細かな傷が入っている。


 耳飾りを前にして荒い呼吸を繰り返す王妃。みるみるうちに灰色になってしまった王族の顔を見て、男爵夫人が慌てて人を呼んだ。

 やむを得ず聞き取りを中断し、イリアは窓際のカウチソファで横たわる。とはいえ彼女が休んでいられたのは、マルゴワール公爵が離宮へ駆けつけてくるまでの短い間だけだった。


『すまない、王妃。遅くなった――』

『おじいさま手を貸して。今夜、ここ(離宮)ではなにも起こらなかった。()()()()()()()だったのよ』


 扉が開くなり飛び起き、本題を切り出したイリアは、老紳士が帯同してきた二名の人物に気づいて目を丸くする。

 静かに礼を取る赤髪の男性と、体格のいい茶髪の男性。どちらも彼女の記憶にはない顔だ。


『そのつもりで来た。ルチカ妃の亡骸は、彼らに預かってもらう』

『……それは…………情報局が預かる、という理解でいいの?』


 男性たちを情報局の職員だと認識した王妃は、対面のシングルソファに腰を下ろす老紳士へ腑に落ちない様子で尋ねる。


『あぁいや、まだうちの者ではないんだ。君、王妃にお示しなさい』


 公爵に水を向けられた赤髪の男性はポケットチーフを抜き、自身の親指に嵌めていた指輪を載せてテーブルに置いた。

 彼女はチーフを慎重に手元へ寄せ、人肌で温もった金の装身具をつまみ上げる。


 やや年季の入った平打ちの指輪だ。観察するまでもなく、シャンクの内側に()()()()の刻印を見つけたイリア。紺碧の目が驚愕に染まる。


『ヨゼフくんがな。経つ前に、念のためだと言って……自分の部下を数名、わしのところへ寄越してくれたんだ』


 驚きは時を待たず安堵へ変わり、光明を見い出したかのような視線が公爵の後方に控えるふたりへと向けられた。


『さすがに、ここまでの事態は想定していなかっただろうがね』


 チーフと指輪を持ち主へ返した老紳士はそう言いつつ王妃へ向き直り、間を置かずに問いかける。


『ルチカ妃の最期について。筋書きは、もう考えておるのかね』

『……もちろん。メルゴーへ移送後に、病没。……それ以外、収拾のつけようがないわ』

『同感だ。行刑局にも話を通さねばならんな』


 いくつかの確認とすり合わせを終えると、イリアは衛兵を呼んだ。そして、ルチカの亡骸が安置されている部屋へ男性たちを案内するよう言いつける。


『誰も知らせを持ってこない以上、王陛下の容態に……良くも悪くも、変化はないのでしょうね』

『……なあ、イリア王妃』


 扉に顔を向け溜息をつく彼女へ、公爵が話しかける。ためらいのにおいをわずかに残した声だった。


『口を挟むまでもない、とは思うが…………支度をな。支度に……すぐにでも、取り掛かっておいたほうがいい』

『わかっているわ。()()のことでしょう』


 ひりついた沈黙が落ちる。イリアはいま、老紳士の真意をあえて流して逃げたのだ。


 生死のあわいでまどろむバルトロメウスはイリアの夫で、アロイジウスたちの父で、アルバライエン王国の国王。

 喪失への心づもり――家族として、遺される覚悟をしておくだけでは済まされない。国葬の手配も早々に着手しなければならないことのひとつではあった。


『……いや、うん。そうなんだが。わしが言おうとしたのは、だなぁ……』


 頼むから、そこから先は言ってくれるな。そう訴えるイリアの眼差しは、額を押さえ目を伏せる老紳士には届かない。


()()()()と。あとは……イグニス殿下とエデリーナの、婚約再編についてだ』


 大きく息を吸い込み、観念したように彼女は首肯する。そのまましばらく、深く前へ倒した首が持ち上げられることはなかった。


 バルトロメウスが目を覚ましてくれるなら。数か月、数週間、持ち堪えてくれるなら――それがきっと叶わないことを、イリアはなんとなく理解してしまっていた。


 頭の中の抽斗を引っかき回し、前例を、制度の抜け道を必死に探す“母”の心。しかし“王妃”の理性は心に勝手を許さない。


 現時点で抜糸もしていないアロイジウスが儀式を全うするなど到底不可能だ。

 正統性と正当性。宝剣アナトリオを天高く捧げ持つための手と、宣誓文を諳んじるための唇。

 彼女はほんの一瞬だけ、長男からそれらを奪ったフィオレンツァを恨みかけ――結局恨みきれなくて、体の力を抜いた。


『こう言ってはなんだが、キアロを巻き込んでおいてよかったよ』


 イリアの逡巡と脱力を黙って見届けたマルゴワール公爵が、悲痛な空気を和らげるような声色で話題を変えた。


 ()()の書き換えは、ヨゼフが持ち込んだ逆用計画の延長線上にある。

 計画への協力を請われた者たちは、フィオレンツァによる大逆で盤面を崩されたあとも、各々の立場で状況を支えるべく動いていた。


 キアロ伯爵も、事の運びによっては愛娘(ハーシュリー)の進退が宙に浮くだろうことさえ承知の上で、静かに成り行きを見守っているのだ。


『……ウィンゼルだけじゃないわね。キアロにも、また助けられてしまったわ』

『ああ……あれか。妃候補がみんな逃げ出してしまった、あのときの』

『それ。もう十年経つのよ。……彼らに、どう報いたらいいのかしら』


 ルチカを側妃として迎え入れることが決まったとき、キアロ伯爵家を除くすべての候補が選定会議への参加を辞退した。

 キアロが残ったのは政治的な飛び火を恐れていなかったから、ではない。それが英雄を輩出した家門に求められる振る舞いだと理解していたからだ。


 結果としてハーシュリーはイグニスの婚約者へ収まり、アルバライエンの未来はウィンゼルへ委ねることとなったけれど、イリアがあのとき感じた恩はいまだ色褪せていない。


『ハーシュリーに良き縁を計らって――うぅん。それすらも、彼らにとっては要らぬ世話か』

『まぁ、キアロなら引く手数多でしょうしね』

『わしらが出しゃばるとやりにくかろう』


 王妃はもちろん、老体に鞭打つ公爵の心身も限界に近かった。ふたりは取り払えない現実の重さを、雑談めいた調子でどうにか誤魔化そうと試みている。


『……要らぬ世話のついでだ。イグニス殿下が帰ってきたら、事の次第を詳らかにしておくべきだと思うぞ』


 落ち着かないのか、眠気を堪えているのか。しきりに体勢を変える老紳士が、衣擦れの音を立てながら言う。


『…………話すのは、即位が決まってからでも』

『イグニス殿下は母親似だと、王がよく話しておった』

『……そうらしいわね。でも、わたしより聡い子で――あぁ、そう、ね』

『隠し立ては不得策だろう?』


 公爵は足を組み、腿をぺしんと叩き、ここだけは譲れないとばかりに王妃の逃げ道を塞ぎにかかった。


『なんせ隠し事は骨が折れる。隠す相手が増えれば手間も(かさ)む。……いまのわしらに、()()()()()イグニス殿下を向こうに回す余力があるとでも?』


 あまり年寄りをいじめてくれるな、と自嘲を含んだ苦笑いで主張を押し通す老紳士。

 苦笑を添えて頷いたイリアは、すぐさま別の話題で切り返した。


『じゃあ、わたしも隠し事のついでに。ルシアンの扱いについて、オーヴレイに相談しようと思っていて……おじいさまも同席してくれないかしら』

『構わんが……ついでとするには重い話だな。日を改め――』


 そのとき、公爵の言葉を断ち切るようにパーラーの扉が叩かれ、ヨゼフの部下二名が姿を現した。

 離宮に漂う死の気配を忘れていたわけではない。しかし、イリアの表情は彼らを視界に入れた途端に引きつり、落ち着いていた呼吸も再び乱れはじめる。


『……ねえ。あの子(ルチカ)を、どこに隠しておくの?』


 震えないよう意識するあまり声量の調整を誤ったのか、彼女の問いは部屋中に響き渡った。


『一旦は、先日までマグノリア夫人がお住まいになっていた別邸へ』


 その後、頃合いを見計らってプリューセン本邸の収蔵館地下室へ移す予定だと赤髪の男性は答える。


『わかった。埋葬の手続きを踏む段が来るまで、あなたたちに預けるわ。くれぐれも、よろしくね』

『……運び出す前に、顔を見ておくかい?』


 気丈に振る舞い続けるイリアへ、公爵がひときわ優しい声でふわりと問いかけた。

 ヨゼフの部下たちは鉛を貼った棺へルチカを寝かせている。密閉作業は、別邸へ移してから行われるらしい。


 彼女は公爵を、次に男性たちを見て、最後に視線を落としつつ口を開いた。


『…………いいわ、止めておく。ただ……持たせてあげたいものがあるから。それだけ、用意させて――』


 ――びくっと全身を弾ませた王妃は我に返る。閉め切ったカーテンが朝日に透け、ベッドへ横たわるバルトロメウスをおぼろげに照らし出していた。


(いやだ、寝てしまったのね……早く着替えないと)


 両手で無造作に顔を擦った彼女は勢いをつけて立ち上がる。夫を一瞥し、爪先を扉へ向け歩き出し――けれどなぜか、すぐに足を止めてしまった。


「…………お茶、を」


 ふいに、ようやく、思い出したのだ。少し前に、アロイジウスと交わしたささやかな口約束を。


『近いうちに、ここでお茶をしましょうか』

『飲んであげてね』


 母は息子へそう告げた。大切に飾っていた紅茶缶。イグニスがくれた土産を、三人で味わう機会を持とう、と。


『はい。いただきますよ。……レオがくれたお茶なのですから』


 常夜灯の下、傷ひとつない、まだ痛みを知らない顔で息子は答えた。


 失ったいまとなっては、歩み寄ろうが、すれ違おうが、なんだってよかったのだとイリアは思う。

 衝突や諍いは、互いが同じ時を生きてこそ成立するもので。


 紅茶を淹れて、と。夫にひと言、頼んでさえいれば。

 せめて果たされるまでは、彼の心を留め置く楔になってくれたのだろうか。

 朦朧とする頭で、悔やむでも、嘆くでもなくただ漫然と考えるイリア。


「…………もう、行かなくちゃ」


 やがて、乾いた唇から誰に聞かせるでもない呟きをこぼした彼女は、おぼつかない足取りで夫の部屋を後にする。

 ナイトガウンのポケットには、片方だけの耳飾り。傷だらけのそれが、彼女の歩みに合わせてぐずるように音を立てていた。


 この日の夕刻、王室広報官より公式声明が発表された。

 国王バルトロメウス・ホルガー・ヒュペリエルが“予期せぬ心痛”により健康を損ない、静養を余儀なくされた、といった内容だ。


 第二王子イグニス・レオ・ヒュペリエルがスフィーノ王国から帰還したのはその三日後。

 そして、次男帰国から四日目となるこの日の朝。バルトロメウスはイリアと医官に看取られ、ひっそりと三十八年間の旅を終えたのだった。


 いっそむなしいくらいに透き通る秋晴れの空の下。ロートス宮二階の書斎には、イグニスの姿があった。


 彼は帰ってきてから一度も――亡くなったいまでさえ、バルトロメウスのそばへ近寄ろうとはしない。

 ほとんどの時間を、ウィンゼル襲撃計画からはじまった一連の変事をまとめた膨大な報告書と向き合うために費やしていた。


 読み終えた冊子を両袖机の左手へ積み、右側に控える紙の山を上から崩していく。

 手に取った冊子の表紙を確かめたイグニスは、わずかに目を見張った。親ソルニア貴族の中核的存在であった、グリゼルダ・ルボア・ワロキエの()()()審問調書だ。


 頁をめくるごとに、イグニスの眉間のしわが深くなる。トラーヴァ一族の具体的な不当行為だけではなく、王族にまつわる噂話のようなものも同列に語られていたためだ。


 いわく、カリスタ妃は定期的に、独自の伝手を利用してマストランジェロ公爵の身辺を探らせている。ソロン王太子はいつも、なにかを小声で呟いている――。


(……なんだこれ。ゴシップ……いや、雑に括るのは、さすがに早いか)


 ソルニア王国の政治力学や、宮廷深部の実態を浮き彫りにする情報の断片ではあるのだろう。真偽を選り分けるのはこれからだ。


 革張りのアームチェアへ深く沈み、真剣な面持ちで文字を追うイグニス。

 そこへ遠慮のないノック音が割って入り、彼の集中はあっけなく霧散してしまった。


「レオ。あなた、昼食はどうしたのよ」


 姿を現したのはイリアだ。襟の詰まったシャツを着ているせいか、へし折れそうに細い首が妙に際立っていた。

 日を追うごとに痩せていく母。イグニスの心臓は一瞬きつく縮んだけれど、動揺をおくびにも出さず端的に答える。


「ここで済ませた。さっき、クロエ(乳母)が兄貴の手紙といっしょに運んでくれたから」

「……そう。あなたと話したくてしょうがないのね、ユーグは」


 会話が途切れ、沈黙がしん、と振り積もる。アロイジウスは弟が見舞ってくれても笑みひとつ返せず、礼を言うこともできない。

 だから彼は、離れていた時間を埋め尽くすように、毎日何度も文字を綴り続けているのだ。


「……まだなにも教えてやれないのか」

「……傷に障るから」


 すたすたと部屋を横断し、両袖机のそばにあるソファへ掛けるイリア。イグニスはその横顔へ、反射的にやるせなさをぶつけた。


「もうすぐで()()()()()()()だ、って、書いてあったんだよ。俺、どう返せばいいのか――」


 ぶつけて、すぐに失言を悟る。息子のほうを向いたイリアは泣きそうな顔を取り繕うこともできず、口元を歪めていた。


「…………なんでもない、ごめん。もう、兄貴のことに口は出さない。俺は……なにもしてやれないし」


 やや気まずそうに立ち上がると、彼は母の向かいへ腰を下ろす。


「聞くよ。話があるからここへ来たんだろう」

「……ええ。少しだけ時間をもらうわ」


 一年半ぶりに帰ってきた次男。気遣わしげに母の様子を伺う彼は、父と兄よりも大きく、たくましく成長していた。


 イリアを見つめる静かな目は灰青色で、短い髪はプラチナブロンド。

 父と同じ色彩を持つイグニスは、しかし父よりも祖父――先王イライアスの面影を受け継いでいる。


 父方の血が強く出た次男。彼が母に似ていると評される所以は、性格や思考様式のことだけではない。


 初対面の者や気の小さい者、幼い子供から隔意を抱かれやすいところ。

 有り体に言えば、優しい雰囲気を醸し出せない点がどうしようもなくそっくりなのだ。


 ふたりは、ヨハンにはじめて会ったとき、怖がられた者同士だった。

 エデリーナの足にしがみつく幼子を懸命に宥めようとしていた長男も、微笑ましげに見守っていた父も、ここにはいない。もう、揃うことはない。


「――さっきまで、ヨゼフと電話をしていたの」


 イリアはまぶたに力を込めて正面を向いた。


「あと五日。崩御の公表まで……あなたの即位まで、五日間、なんとか引き延ばすから」


 次男が頷く。立てと言われた場所に立ち、持てと言われた荷物を持つ。端からそこへ感情を挟むつもりはなかった。


「それまでにエデリーナを呼び戻すわ。……文言は、これから考えるけど。“密かに治療をしていて、ようやく回復した”というていで、報じてもらう」


 市井の空気は張り詰め、沈んでいて、だからこそ“奇跡”を歓迎する余地は充分にある。イリアは情報局からもたらされた見解を添え伝えた。

 次男は、頷かなかった。母がそれを気に留めなかったのは、破裂しそうな頭の中身を整列させ、言葉に直すだけで精一杯だったからだ。


「あなたとエデリーナの婚約発表は、明誓の儀を執り行ったあと。婚姻誓約式も前倒しに――」

「母上」


 ひどく控えめな、けれど無視できない圧を感じる呼びかけだった。かすかに首を傾ける母へ、イグニスは数秒だけ目を伏せてから問いかける。


「……ウィンゼルから妃を立てることは、()()()最善だと言えるのか?」


 虚を突かれ、半端に口を開いたまま黙り込んでしまった王妃。恐怖を伴わない浮遊感に包まれながら、茫然と息子を見つめる。


 彼女はこのとき、ベルナデットを計画に巻き込もうとしてマルゴワール公爵に諭されたことを思い出していた。

 また同じように、致命的な見落としをしていたのか。体の末端からゆるやかに温度が失われていく。


「いま、この局面においても、まだ。必要で、適切で……最善に限りなく近い選択だと、母上たちは思っているのか?」


 イグニスは表情を変えず、淡々と言葉を重ねた。母をひるませるほどに鋭角な言葉は、けれどその実、見落としたもののそばへ彼女を導くための矢印でもあった。


「……ウィンゼルの、後ろ盾は。必要、でしょう?」

「もう、ルチカ妃はいないのに?」


 数拍の静けさを経て、イリアの喉から引き絞るような呼吸音が漏れ出てくる。


 エデリーナは、ルチカという火種へのカウンターだった。

 ウィンゼルに外戚として、睨みを利かせてもらう目的があった。


 ワロキエとベガのみに留まらず、ケンダル伯爵家を含むいくつかの家門も告発されている。

 もとより瓦解が始まっていた親ソルニア派は、ここへきて完全に雲散霧消したといえよう。


 想定していた脅威が去ったいま、あとに残されたのは大きな秘密と、真実をねじ曲げた痕跡だけ。


 イグニスは、母の脳内で認識が改められていく速度に合わせ、一歩ずつ足場を確かめながら語り続ける。


「これだけ情勢が変化したんだ。……ウィンゼルはたしかに、最善だったと思う。だけど、いまは?」


 前傾姿勢を取り、近づいた距離の分だけ声色を落ち着かせて言う。


「母上たちは、物語で民心をまとめ上げ、分断を防ごうとしている」

「そう、よ。下手を打てば、国が割れる。割れたらもう、どうなるか…………取り返しが、つかないから」

「うん。つまり、“抑止力”より“引力”を持つ者が望ましい状況、ということだろう」


 焦点が定まらずぼやけていたイリアの視界が、少しずつ明瞭になっていく。


「……母上も、ウィンゼル侯やマルゴワール公も。たぶん、情が邪魔して……それだけじゃないな。限界なんだろう。疲れて、視野が狭くなっているんだ」


 彼の言葉に咎めの色はない。むしろ、決断に次ぐ決断が大人たちの精神を干上がらせたせいだと、労うような響きさえあった。


「もっと単純で、ずっと堅実な選択肢があるじゃないか」

「…………ハーシュリー……」

「わざわざ婚約を再編するまでもないだろう?」


 アルバライエンの人々を平らかな道へ連れていけるのは、番人の娘ではなく英雄の子孫。優劣の話ではない。ただ、背負う文脈が異なるだけだ。

 キアロはウィンゼルのように知略をもって戦えない。そしてウィンゼルもまた、日の当たる場所では真価を発揮することができない。


 最善(ウィンゼル)次善(キアロ)が、いつの間にか入れ替わっていたのだ。


「……養子案を撤回して、エデリーナがウィンゼルを継ぐ。あなたとハーシュリーが並ぶ。……うん、あぁ、言われてみれば。本当に、単純なことじゃない」


 情報局がウィンゼルの機能を吸収し終えるまでは、引き続き協働してもらおう。

 ダナエよりエデリーナを後継者としたほうが、ヨゼフも幾分か立ち回りやすかろう。

 思考を丸ごと口に出し、すさまじい勢いで算段を立て直すイリア。


「でも…………ユーグとエデリーナの婚約継続は、叶わないわね。当主同士になるんだもの。そうしたら――レオ?」


 ふと正面を見た彼女は、イグニスが妙な表情を浮かべていることに気づき首をひねる。

 苦手な食べ物を、周囲にそうと悟られないよう飲み込もうとしているときの、うっすらしかめた顔に近い。


「まだ、なにか引っかかる?」

「…………エデリーナが、戻ってくるかどうか。本人に、戻る気があるのか。そこをまず、確かめたほうがいいように思えてきた」


 一言一句漏らさず聞き取れたのに、意味はひとつも受け取れなかった。イリアは眉をひそめ、小さな声で問い返す。


「……なぜ? 確かめるまでもないでしょう?」

「だって、彼女は()()()()()()()だろう」

「それは、そう、だけど」

「あの父親の背中を見て、育ってきたんだぞ」


 息子の言葉に寒気を覚え、同時に席を立った王妃。まさか、とは、口が裂けても言えなかった。

 ウィンゼルに縋り、甘えてきた自分は、彼らの矜持を誰よりも理解していなければならないと思っているから。


「――もう一度、連絡してくる」


 返事を聞くより先に、イリアはなりふり構わず駆け出した。

 ウィンゼル(エデリーナ)なら思い至る。ウィンゼル(エデリーナ)ならやりかねない。戻らないとはすなわち、()()()()()()()ことだ。


(違う……違う、エデリーナ。わたしたちは、そんなこと望んでいない、誰も!)


 窓の外に広がる秋晴れの空には目もくれず、ロートス宮の長い廊下をひた走り、階段を駆け上がる。


 エデリーナは、はじめて会ったときにイリアを怖がらなかった、はじめての子供だった。

 眼裏に浮かぶ黒髪の少女を意識の中で抱き締め、こみ上げてくる涙を袖口で拭う。


 電話機を据えた部屋までの距離が、いつもより長く、果てしない隔たりのように感じられていた。

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