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銀のひばりと朝の夢  作者: 問島 夕生
二章 わかれみちまで手を取り合って
47/48

46 「どうして」

 事件発生から五日。蜂蜜を溶かしたような光が、王妃の私室を金色のベールで彩る朝。

 シャンデリアを飾るクリスタルガラスは壁にとぼけた虹を描いている。しかし、頭痛に耐えつつ身支度を進めるイリアにそれを愛でる余裕などない。


 ジャケットを羽織り、靴を履き替えるためスツールへ腰掛ける。扉が三度叩かれたのは、右足をパンプスへ収めたちょうどそのときのことだった。


「――おはよう。ひどい顔ね」

「おはよう。君も……ひどく疲れているね」


 現れたのは彼女の夫。アルバライエン国王、バルトロメウス・ホルガー・ヒュペリエルだ。


(……隈はすごいけど、報告通りだわ。存外、落ち着いている)


 事件以降、それぞれが対応に追われ、ろくに顔を合わせていなかったふたり。

 繊細な王は、事態を受け止め切れず崩れてしまうのではないか――そう危ぶんだイリアは、側近に彼の様子を知らせるよう言いつけていたのだ。


 肩の力が抜け、久しぶりね、とでも言いたい気分になったが、それも妙だなと思い直したイリアは足元へ視線を戻した。


 立襟のロングジャケットを纏う夫は、なにを言われずともソファへ向かい歩きはじめる。

 うつむく彼女の視界の端を、スレートグレーの裾がなびきながら横切っていった。


 ストラップを留め、立ち上がったイリアは振り返るなり小首を傾げる。

 バルトロメウスがソファの横で、テーブルへ置かれたものを凝視したまま固まっていたからだ。


「…………あぁ。だめね、すっかり忘れていた。ユーグの部屋へ戻しておかなくちゃ」


 ヒールを鳴らし、夫のもとへ歩み寄ったイリアはそう言いながら雑誌を拾い上げた。

 天上の庭、ホルテアの池を臨むガゼボ――現場付近で衛兵によって回収された、イグニスからのスフィーノ土産。


 事件当日、雑誌を携えたアロイジウスは誰のために、どこへ行こうとしていたのか。

 国王夫妻は報告書に印字された文字列から、息子の行動、心境までをも鮮明に読み取っていた。


「レオが一時帰国を決めたわ」


 ソファへ掛け、小さな仕草でバルトロメウスを対面へ導くイリア。


「準備に数日はかかるでしょう。寄宿舎だと連絡も取りにくいし、もう公使館へ移動させたから」

「……そうか。戻ってきてくれるのか」

「絶対、レオに悟らせないでちょうだいね」


 突然、腹に響くような低い声で彼女は告げた。面食らう夫を見据えつつ左手で雑誌を掲げ、控えめに手首をひねってしならせる。


「これが、ユーグをあんな目に遭わせた要因のひとつになってしまったことを、よ」


 彼は得心すると同時に、イグニスなら早晩、散在する情報から正確な経緯を推測してしまえるのでは、という考えを抱いた。

 しかし同時に、充血した目で凄む妻の、親心と呼び替えてもいい懸念もよくわかる。


 だから彼は神妙な顔で頷きだけを返して、会話の区切り目に質問を差し込んだ。


「このあと、君は?」

「広報室で打ち合わせ」

「すぐに出るのか?」

「いえ、軽く食事を取ってから」

「……なら、ちょうどいい。私も……一緒で、構わないかな」


 おずおずと同席を求めるバルトロメウスに、今度はイリアが頷きを返す。

 伝えにくいことを後ろ手に隠しているとき、彼は決まって()()()()のだ。


「午後から、ウィンゼルの養子認定審査に向けた協議があるんだ」


 一階の朝食室へ移動したふたりは、めいめいの体調が考慮された料理を食べ進めている間も情報共有を行っていた。


「……今日だったの? ごめんなさい、まったく把握していなかった」

「無理もないよ。君たちが下地を作ってくれていたおかげで滞りなく進みそうだし……ラシーヌ伯も万全を期してくれている。あとは、こちらに任せておいてくれ」


 病弱なヨハンの身に、万一のことがあったら。二年後に迫るアロイジウスとエデリーナの婚姻を確実なものとするべく、去年の冬から養子縁組の事前調整に取り掛かっていたイリア。


 けれど、現実はいっそう苛酷な状況を引き連れ彼らの前に立ちはだかることとなった。

 嫡子ヨハンのみならず、長女エデリーナまでもがあの火災で()()()()となってしまったためだ。


「……並行して、ユーグとハーシュリーの婚約再編についても、内々で準備をはじめているよ」

「……ええ。()()()()()()、だものね」


 数か月前に夫と確かめ合った方針を、改めて口にする王妃。

 エデリーナ生存を公にするまでは、適切な手配、必要な手続きを粛々と行うだけだ。

 本当は、すぐにでも少女をクレドから戻してやりたい。だが、もし作為を嗅ぎつけられたらなにもかもが瓦解してしまう。


 薔薇の蒸留水で香り付けをした葡萄へフォークを刺した彼女は、ささくれ立った心持ちを小さなぼやきに変えた。


「いまさら、再選定なんかしていられないし――」

「ただ。……私はね、イリア」


 カトラリーを置いたバルトロメウスは、妻の言葉を遮ってしまったことに気づいていない。


「……ヨゼフが賊心を見落とし、無策で過ごしていた、などとは…………。どうしても、思えないんだよ」


 表情から、声からも、胸中へ収めておけない煩悶が漏れ出している。


 イリアは息を詰め、みぞおちに走る冷えた痛みに顔を歪めた。指の震えを気取られないよう、夫に倣うていでそっとフォークを置く。


 アルバライエン貴族――とりわけ古い家門に連なる者ほど、バルトロメウスと同じような違和感を覚えているはずだ。

 ウィンゼル侯爵家、ひいてはヨゼフ個人に対する好悪に拘らず、番人としての手際、その慧眼は誰しもが認めるものだったから。


「いまも、信じているんだ。……信じたい。エデリーナも、坊やも……あんな、惨たらしい……」


 新聞に掲載されていた南館の写真を思い出しているのだろう。テーブルのふちへ乗せられた彼の手が、真っ白なクロスをわずかに掻く。

 イリアは咄嗟に手のひらを口元へやった。罪悪感に内臓をかき乱され、いまは嗅ぎ慣れた薔薇の香りにすら吐き気を覚えてしまいそうだ。


「ヨゼフが、大事に…………身の安全が保証されるまで、どこかに隠しているんじゃないか? ……そうでなければ」


 言葉が途切れる。彼はテーブルへ両肘を預け、湿った吐息を漏らしながら顔を覆った。


「ユーグだって。……どれほどの、悲しみを……」


 消え入りそうな声で嘆いたきり、そのまま動かなくなってしまったバルトロメウス。朝食室から、しばし一切の音が消える。


 アロイジウスはまだ、自身が斬りつけられたあの日にウィンゼル侯爵邸が炎上したことを知らされていない。

 それはイリアたちの配慮ではなく、医官の判断によるものだった。


 縫合した傷口の上に絹布を重ね、樹脂で頑丈に固定した頬は、ほんの少し力を込めるだけで激痛が走る。

 言葉を発することはおろか、おいそれと笑うことも、泣くことも、怒ることもできない。

 飲食でさえ苦痛をもたらすのだ。彼の感情を揺さぶるものは、すべて遠ざけておかなければならなかった。


「……まだよ。まだ、わからないわ」


 やがて、夫のつむじを見つめていたイリアが、思わずといった様子で口を開く。

 着地点を定めず放り出した言葉に、放った本人がもっとも戸惑っていた。

 顔を上げ、灰青色の目をまっすぐに向けてくるバルトロメウス。もう、引っ込みがつかない。


「だって…………ヨゼフだもの。あのヨゼフよ」


 根拠ではなく、ただ信頼を示すだけに留めて場を繋ぐ。彼女らしくない会話の積み方だ。

 しかし、却ってそれが前向きに作用したらしい。バルトロメウスは少しだけ身を乗り出して、妻の発言を反復する。


「そう。そうなんだ。あのヨゼフだから、私は……」

「……ええ。あなたが言いたいことは、わかっているつもり」


 不毛なやりとりをしている暇はない。けれど、ぐらつく心を置き直させず先を急ぐよりはずっといい、とイリアは己に言い聞かせた。


「…………子供たちの無事を、心から、祈っていて……。だが、養子案や再婚約を、まとめないわけにはいかないだろう。だから、それが。その矛盾が……」

「……矛盾? べつに、していないと思うけれど」


 とりとめなく話すバルトロメウスを不思議そうに見やりながら、妻は淡々と返す。


「流れを止めないこと。頭と、手足を動かし続けること。それだって……わたしたちなりの“祈り”の形だわ。そうじゃなければ、毎日毎日、なんのために必死で駆けずり回っているのよ」


 失いたくなくて、失わせたくもない日常がある。誰ひとり取りこぼさず連れて行くことは不可能でも、目指したい未来がある。


「ヨゼフを信じましょう。その上で、誰かが困らないように先行きを整えるの」


 願うだけでは届かない。祈るばかりではどこへも行けない。妻の言葉をじっくり咀嚼するバルトロメウスは、少しずつ冷静さを取り戻しているようだった。


「養子の件も、婚約の結び直しも、抜かりなく進めて。……エデリーナたちが戻ってきてくれたなら、徒労を、喜べばいい」

「……そうだな。それに尽きる。目の前の問題を……きりがないけれど、ひとつずつ、片付けていくしかないか」

「つまり、いつも通りってことよね」


 言いながら、彼女は自分が泣きたがっていることに気づいていた。涙を伴う感情が飽和して、懸命に出口を探している。


 ヨゼフは昨日、極秘でクレドへ戻っていった。イリアとマルゴワール公爵、ギュスターヴらで説得して無理やり帰らせた、と言ったほうが正しいかもしれないが。


 ウィンゼルが築き上げてきた人脈や知見を組織へ取り込むべく、マルゴワール公爵はすでに動きはじめている。

 昨日だって、王都を経つその直前まで、ヨゼフは公爵とふたりで情報局の長官室へ籠もっていたのだ。


 かつて異母兄たる王太子を救い、その献身を瑠璃鳥になぞらえられた初代ウィンゼル、はじまりの王子ヨハン。

 蛇と二本の剣へ注がれていたはずの敬愛はいったいなぜ、いつから変質してしまったのだろう。

 深く吸気しても拭えない息苦しさの中、イリアは彼らの歴史へ漠然と思いを馳せていた。


 ウィンゼルの献身が目に見えて報われることはない。アロイジア王女や英雄ヴィルマーのように、多くの人々から親しまれることも。

 太陽の当たらない場所で、誇りだけを胸に、何百年も立ち続けてきた孤高の一族。


(…………ダナエ。彼女が、次代のウィンゼルとして立つまでに……間に合わせたい。間に合わせなくちゃ)


 イリアはフォークを手に取り、胃を刺激しないものだけ選んで口へ放り込みはじめた。

 朝食室に響くささやかな日常の音も、失いたくないもののひとつだ。人がそうと気づくのは、たいてい、失ってからなのだけれど。


「あなた、ゆうべユーグの様子を見に行ったのでしょう。どうだった? 起きていた?」


 食後のコーヒーを嗜む夫へ、常温のハーブティーで果物を流し入れた妻が問いかける。

 イリアが予定をやりくりしつつ息子の部屋へ立ち寄ったのは二回。そのどちらも、たまたま彼が眠っているときだったのだ。


「…………ああ。起きては、いたんだが……顔を見て、すぐに退室したよ」

「そうなの? ちょうど傷を診てもらっていた、とか?」


 弱々しく首を振りつつ、バルトロメウスはカップを戻した。


「……もとより、私にユーグを見舞う資格はなかった。都合よく忘れてしまっていたことを、思い出したんだ」


 発熱のせいか、ぼうっと虚空を眺めていたアロイジウス。しかし彼は、父の訪れに気づくなり苦しげに呻き出してしまったそうだ。


 視線を落とし、しかし穏やかに語るバルトロメウスを直視できず、イリアは握り締められた彼の両手を見つめる。


「少し前に、ユーグが私に声を荒げたことは、君も聞いているだろう?」

「報告は受けたわ。ルチカと、ベガの娘のことでしょう」

「…………“なんのためのアロイジア門ですか”、と」


 夫の呟き、その意味するところを理解した瞬間、紺碧の目がこれ以上ないほどに見開かれる。


「あのとき、あの子は、私にそう言ったんだ」


 二百五十年ほど前、父王を弑した叔父ガウスへ勇ましく立ち向かった――とされているアロイジア王女。

 ゼーレワイス公爵家へ降嫁し、子にも恵まれ幸せな日々を送っていた彼女は、けれど病から逃れることはできなかった。


『わたしが盾となりましょう。兄さまと、兄さまの御子とその御子たちを、幾久しく守ってご覧に入れましょう』


 永久(とこしえ)の別離を前にアロイジアが願ったのは、父王へ降りかかった災いが二度と繰り返されないこと。


 いまもアイテール城の一角で、兄の子孫を守らんと鎮座するアロイジア門。

 奇しくもその兄、アロイジウス一世と同じ日に生まれたアロイジウス・ユーグ・ヒュペリエルは、王女の赤心(せきしん)を蔑ろにするのか、と父へ抗議したのだ。


「ユーグは、それほどまでにルチカを――いや。フィオレンツァを警戒していた。……考えるまでもなく。あの子の立場からすれば、自明のことだったというのに」

「待って、ねえ、あなた」


 悔恨の波に心身をさらわれそうになっていた夫は、焦りが滲んだ呼びかけによって我に返る。


「ユーグは知らないの? だって、ベガの娘がアロイジア門を使えたのは、あなたひとりの判断じゃなくて――」

「……あぁ、そのことか。イリア、もう、いいんだ。もう、充分なんだよ」

「ちょっと。勝手に話を終わらせようとしないで」

「違う、門のことだけではない。もう君は、充分すぎるほど、ヒュペリエルを守ってくれた」


 イリアへ手のひらを向け、宥めるように、物柔らかな口調で彼は続けた。


「審問調書と、ベルナデットがまとめてくれたベガ夫人の()()()()。どちらも目を通したよ。……そんな顔をしないでくれ。問題ない。むしろ、腑に落ちたんだ」


 口を開き、妻はなにごとかを言おうとした。けれど掛けるべき言葉を選び損ね、あえなく口をつぐむ。


「ルチカが……七年前、なぜ、あそこまで取り乱していたのか」


 いっそイリアに怖気を抱かせるほど凪いだ声で、さみしげに笑って、バルトロメウスは回顧する。


「愛や、母性の有無ではない。彼女はきっと……ルシアンに怯えていたんだ。自身の罪を象る存在だと……産んで、ようやく、思い至ったのだろうね」


 紺碧の目が潤みそうになり、王妃は唇を強く噛んで耐えた。

 ルシアンは輪郭だ。罪そのものではない。けれど、やはり彼は、親の罪と切り離しては語れない存在なのだろう。


「遅いと思うかい?」

「……思うわよ。思うけど……ルチカなら、あり得る話だとも思っている」


 そうだね、と囁いて、彼は姿勢を正した。家族の食卓を挟んで、夫婦は荘重に向かい合う。


「……ルチカと、話がしたい」

「許可できないわ」


 いまにも枯れ落ちそうな“王の花”の前に、“王の盾”が立ち塞がった。

 けれど、退けられることを見越していた王は引き下がらない。


「頼む。あの子は、自らがしでかしたことのすべて……罪の重さを、理解しなければならない」

「だとしても。あなたが行く必要はないと言っているの」

「ルチカをこの国へ招き入れたのは私だ」


 赤子のころから共に育ってきたふたりは、睨み合いと呼ぶにはあまりにも痛ましい面持ちで対峙する。

 沈黙を破ったのは、衣擦れの音と盛大な溜息だ。身動ぎをしたイリアが、げんなりした声で言い放つ。


「…………離宮へ回した衛兵たちに伝えておくから」

「……すまない。ありがとう、イリア」


 謝られることに慣れている彼女は黙って席を立ち、朝食室から去っていった。

 扉の向こうへ消えていく妻。ひとり残った夫は短く息を吐き、椅子の背へもたれる。


 灰青色の目が三脚ある空っぽの椅子をひとつずつ映し、やがて庭に面した窓へたどり着いた。

 巡る季節に鮮やかさを手放しつつある草木。己の罪と語らうにふさわしい、美しくも索漠とした風景が彼を待ち構えていた。


 一方そのころ。王都メイフローネの官庁街、情報局地下一階の通路には、纏う気配を鋭く尖らせたマルゴワール公爵の姿があった。

 壁は剥き出しの煉瓦と石、足元に敷き詰められているのは艶を帯びた石のタイル。

 彼は書記官ではなく記録係として部下を連れ、足裏に力を込めて床をえぐるように歩いている。


 左手に並ぶ鋼鉄の扉をいくつも通り過ぎ、ふたりは突き当たりの部屋の前で足を止めた。

 待機していた警備兵の手によって、硬く、耳障りな音を立てながら分厚い扉が開かれる。


「……あらぁ〜? ごきげんよう、公爵閣下!」


 彼らが入室した途端、ひんやりした取調室いっぱいに朗らかな声が響き渡った。


 石や埃、錆のにおいが雑多に混じった室内は四隅が薄暗い。低い天井から吊るされたランプは部屋の中央、動かすことを想定していない重厚なスクエアテーブルにだけ円錐状の光を投げかけている。


「わざわざ長官殿がお越しくださるなんて、驚いちゃった。大物にでもなった気分よ」


 声の主――光の輪の中でテーブルへ片肘をついた女性は、露骨に顔をしかめた公爵にもひるまず話し続ける。

 彼女は簡素なデイドレス姿で、堂々と素顔を晒していた。愛用していた香水が残り香まで消え失せても、うらぶれた風情は皆無だ。


「やかましい。半端者を寄越すな、とふてくされていたのは君だろう。……グリゼルダ・ルボア・ワロキエ」


 対面の席へ回り込んだ老紳士に重々しく名を呼ばれ、グリゼルダはにぃ、と笑う。

 場違いでしかない愉しげな笑みを見て、斜向かいに掛けた記録係は静かに目を剥いていた。


「そりゃあ、ねぇ? 安く見積もられるのはご免だわ。()()にしまってあるものの値打ちを――」

「君の倅だが」


 自身のこめかみを人差し指でつつき、グリゼルダは挑み顔で彼を覗き込む。しかし、猫撫で声は老いた男のたったひと言に押し負けてしまった。

 ゆっくり手を下ろした彼女は口元に微笑みの形だけを残し、目を眇める。


「亡くなったよ。今朝、早くにな」

「…………あの洟垂れ小僧め」


 笑みを引っ込め、鼻にしわを寄せたグリゼルダは勢いよくふんぞり返った。

 体重をかけてもちっとも軋まない椅子が、彼女の神経をことさらに逆撫でしていく。


「顔を見せてやることはできない」

「でしょうね」


 舌打ちをしようとして、止めたらしい。彼女は顎周りを不自然に動かしたあと、唇を引き結んだまま正面へ視線を戻す。

 マルゴワール公爵はグリゼルダの目の奥にあてどもない怒りを見つけたけれど、それを意外とも、奇妙だとも思わなかった。


(……ヨゼフくんとはまた違う…………しかし、厄介な性質には違いないな)


 彼女の怒りは“焼却処理”だ。誰かへ向かうものではなく、グリゼルダ自身が不要だと判じた感情――悲しみや痛み、人の足を止めてしまう類いのそれを焼き払うためだけに生じるのだろう。


 肺の空気をまるごと入れ替えるように息をして、グリゼルダは表情を作り直す。

 彼女の右手がなにかを欲しがっていることに、愛煙者である公爵だけが気づいていた。


「はぁ〜あ。あの子(ディミトリ)のこと、買い被っていたみたい。少なくとも、旦那よりは賢いはずだったのよ」

「賢さは妥当性を担保しない。子供なら、なおさらだろう」

「……わたしねぇ、号外を読むまでは、ウィンゼル侯のこともちょっとだけ甘く見ていたの」


 マグノリアと連絡が取れなくなった時点では、歓迎こそできないものの面白い方向へ事態が動きはじめた、と感じていたグリゼルダ。

 夫、継子、知己や愛人の誰にも悟られぬよう、着々と亡命準備を整える日々。


「どうせそのうち出て行くつもりだったし? 大事に至らないようなら適当に観光して帰ってこようかしら、なぁんて思っていたわ」


 楽観を捨てたのは、ディエ・クロニクルに掲載された消息不明者の名前を目にしたときのことだった。


 使用人として送り込んだ、南館へ立ち入ることを許されていないはずの内通者四名。

 プリューセンから離れ別邸に引きこもっていた友人、マグノリア・ガリエ・ウィンゼル。

 彼女たちは()()()()のだと理解したから、なに食わぬ顔で家を出て、港を目指した。


 まだ記憶に新しい過去を振り返るグリゼルダは、壁に埋め込まれた煉瓦の欠けへ焦点を合わせ、気だるげに唇を動かす。


「ここまでするのかって、笑えてきちゃったくらい。……あのいかにもお上品な男が、あんなえげつない手を使ってくるとはねぇ」

「滅多なことを。仕掛けたのは君の倅と、ベガの長女だ」

「小僧が仕掛けて、番犬が乗じた。違って?」


 彼女の認識は芯を食っているが、問われた公爵は否定も肯定もしない。以降この話題をテーブルへ載せる気はない、という意思表示だ。

 とはいえ相手が悪かった。空気は読めても従う習慣がないグリゼルダは、頬杖をついてお構いなしに述懐する。


「買い被っていたのよ。喧嘩を売る相手くらい、ちゃんと選べるだろう、って」


 燃やしたばかりの灰を掬い上げ、ふぅ、と息を吹きかけるような呟き。反省か、落胆か、彼女なりの弔いか。


「……選べたとて、いずれ君らは手ずから育てた悪徳に食われていただろうさ」


 老紳士はこつん、こつんと爪の先でテーブルを叩く。この部屋に席を与えられた者の本来の役どころを、雄弁に知らしめる音だった。


「君は、虚実とりまぜルチカ妃を誑かした」

「ん〜。そういうことになるんでしょうねぇ」

「イリア王妃とルチカ妃。両者の分断は、トラーヴァ侯爵の意向によるものか?」

「あっ、それよ閣下。そこから違うのよぅ」


 間延びした声が割って入り、眉間に深いしわを刻む公爵。グリゼルダは睨まれても意に介さず、頬杖を外して説明しはじめる。


「あえて訂正したこともなかったけど。こっちの国の人たちって、みんなトラーヴァ侯爵が()()()だと思っているでしょ」


 前提が揺れた。記録係は一度長官と視線を交わしてから、ペン先を忙しなく走らせる。


「たしかに侯爵は、ルチカ妃が産んだ子を手元に置きたがっていた。男でも、女でも、ソルニア貴族と縁付かせるなりしてね」

「ソロン王太子を下ろしたいがためか」

「その辺の機微はなんとも。まあ、ソロン殿下ってむかしから評判悪いし、期待外れだったのかも?」


 母国の王族を無遠慮に腐したあと、グリゼルダはひらりと手を振りつつ言い連ねる。


「でもね、それだけよ。あの人(トラーヴァ侯爵)って忙しいもの。オルフェ王の、唯一の政治顧問よ? ほぼ宮殿に住んでるようなもので、一族の集まりだって仕切りは長男に任せっぱなしなんだから」


 マルゴワール公爵は顎を撫で、ソルニア宮廷について知る限りの内情を記憶の底から掘り起こす。

 名前こそ頻繁に持ち上がるけれど、侯爵本人の動静はけして派手なものではなかったように思えてきていた。


 二十九歳のグリゼルダは、成年を迎えてすぐにワロキエの後添えとなっている。

 若さゆえの経験不足を補って余りある機知機略で夫の信頼をもぎ取り、親ソルニア派貴族の中核へあっさり収まった切れ者だ。

 トラーヴァ侯爵が直々に目をかけ、重用していると考えたほうがよほど自然だった――はずなのだが。


「……解せんな。だったら君は、なぜあちこちへちょっかいをかけていたんだ。よもや道楽だとでも言うまいな?」


 彼は顎にやっていた手を首の付け根へ回し、揉みほぐしながら問いかける。

 目を閉じているのは疲れているから、というだけではない。相対する人物との心理的な間合いを測り直し、調整するために必要な措置だった。


「道楽っていうか、退屈しのぎであったことは否めないわ。それ以上に…………父親がねぇ。向いてないくせに、いっちょまえに策士ぶっちゃって。やいやいうるさかったの」


 彼女の父はモンフェイル子爵だ、と部下に念を押す公爵へ、砂色の髪をかき上げつつグリゼルダは付け加える。


「古今東西、よくある話でしょう? 王の外戚が図に乗って、身のほどを弁えず大はしゃぎしているってわけ」

「傍流の野放図な振る舞いを看過している以上、本家の意向も論を俟たないと思うが」

「さあ? ()()()()さまの思し召しなんて、不肖のわたくしめにはさっぱり」


 肩を竦め、彼女は軽く笑みを浮かべてみせた。煙に巻くための笑いではなく、毒気も最低限。グリゼルダにしては素朴といえる微笑みだった。


「……ドラコ・シルバと君の周辺で動いている金。これについてはどう説明するつもりだ? 巡り巡ってどこで吸い上げられているか、わからん君ではないだろう」

「引っ張ってるのはトラーヴァの当主じゃなくて次男よ。そこまで洗えているんなら、わたしのかわいいドラコちゃんも捕まっちゃったのね。あぁ可哀想」


 突然テーブルへ突っ伏し、大仰に嘆いてみせるグリゼルダ。手入れが出来ずふわふわ膨らんだ髪は、ランプの刺々しい光を浴びると子犬のように見える。

 人を追い詰めるための部屋にそぐわない、緊張感に欠けるほのぼのとした光景だ。


「こら、夫人。子供じゃあるまいし。とっとと起きなさい」

「ねえ閣下。あとはなにが知りたい? なにを確かめたい?」


 咎められた途端に跳ね起きた彼女は目を輝かせ、輪をかけてはつらつとしていた。


「遠慮なさらないでね。ぜ〜んぶ教えて差し上げる」

「助命は叶わんぞ」

「やぁだ。お慈悲を乞うようないじらしい女に見えて? わたしはただ――」


 グリゼルダは婀娜っぽく笑い、再びこめかみをつつきながら吐き捨てる。


()()をね。引き渡したいだけなの。値打ちがわかる人間に」


 記録係の手元へちらりと視線をやり、改めてマルゴワール公爵へ向き直った。


「モンフェイル――ううん、トラーヴァ一族の弱み。急所。泣きどころ。押さえておいて損はないはずよ」

「…………不可解だ。気味が悪い」

「正直〜」


 笑い声を上げた彼女はこてんと首を傾け、口元に指を添えつつ気づきを促す。


「深読みする癖ってたまに邪魔よねぇ。もっと浅く。あさ〜く考えてみてくださいませ」

「静かに喋ってもやかましいな君は。身内に吠え面かかせてやれ、とでも言いたいのか」


 きゃあ、とうれしそうに拍手をして、グリゼルダは何度も頷いた。


「連中、おいたが過ぎると思うのよ」

「どの口が言う……そもそも見当違いだ。我々の第一義は国防であって――」

「わかっているわよぅ。だけど目的に資するなら、()()()()()はなんだって使うんでしょ?」


 彼女の視線は公爵のみを捉えているけれど、ここにはいない誰かにも聞かせるような口振りだった。


「いずれ役に立つわ。閣下が使わなくっても、次に引き渡すべき相手はおのずと見えてくるはず」

「……ずいぶんとわしらを買っているようだが。それだって()()()()かもしれんぞ?」

「持ち腐れてくれようものなら、化けて出てやるから」


 グリゼルダはにぃ、と口角を上げる。未練が欠片も見当たらない、晴れやか過ぎるほどの笑顔だった。


 同日、真夜中。寝支度を済ませたイリアは夜凪の庭へ背を向けて、私室でひとり手紙を読んでいた。


 デスクランプのささやかな光にすら刺激を感じる目で、ベルナデットからの報告を漏らさず受け取ろうとしている。

 彼女はいま、シャンタリオン伯爵マリアーノと共にベガ子爵夫人を救うべく奔走しているのだ。


 “テレーゼ・ロイス・ベガの潔白保証、ならびに婚姻解消と身分復権を求める連署請願”――筆頭署名者はもちろん、ベルナデット・ポルテ・オーヴレイ。


 署名はすでに三桁へ届こうとしている。貴族のみならず、資本家や学者、事業家なども呼びかけに応じたらしい。

 表立って動けないカンパネラ男爵家に代わり、マイエル家が総掛かりで事に当たってくれているおかげだ、と綴られている。


(……忙しくしていたほうがいいものね。なにも、感じないように)


 事件のあと、イリアはギュスターヴにベルナデットへの伝言を託していた。

『エデリーナは生きている』

 たったそれだけで、彼女は真相へ肉薄してみせたそうだ。


 集中は長く続かず、思考も散らかる。自身を落ち着かせるために大きな溜息をついたイリアは、便箋を封筒へ戻そうと手を伸ばし――ノックの音に肩を揺らした。


「入っていいわよ、なにかあった?」


 ナイトガウンの襟元を押さえ、声を張る。開いた扉の向こうから複数人の気配がして、イリアは怪訝な表情を浮かべた。


 側仕えの女性が滑るような足取りで近づいてくる。小走りに近い速度で、しかし靴音は立てずに。

 扉のそばに残った者たちも、眠りこける怪物の巣穴へ迷い込んでしまったかのように息をひそめている。


 静かだ。夜を静かな夜のまま保とうと努める彼らの手つきが、かえってイリアの背筋を冷たく痺れさせた。


「こちらを……」


 主のもとへたどり着いた彼女は短く言い添えて、折り畳まれた一枚の紙――手控えを差し出した。

 渡されたイリアが紙の端へ指をかけるのと同時に、側仕えはか細い声で告げる。


「……お気を確かに」


 つい最近も、同じ言葉を掛けられたばかりだ。知りたくない、と拒絶する心とは裏腹に、指先がひとりでに紙を広げてしまう。


 イリアの目に飛び込んできたのは見知った筆跡だ。

 離宮内の人員を取りまとめる、ゼーレワイス公爵家所縁の男爵夫人のもの。


 筆致が乱れている。前置きのない簡潔な報告は、王妃へ覚悟を決める猶予すら与えてくれなかった。

 すでに起こってしまった取り返しのつかない現実を、問答無用で叩きつけるだけ。


 バルトロメウスとルチカが、離宮三階のバルコニーから身を投げた。

 ふたりの体はストールできつく結びつけられていた。

 側妃の首には、絞められたような跡があった。


 王は生きている。生きてはいる。息はまだ、している。

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