695.五千年の安息よりも、君の隣を
フレヤ視点
『よくぞ、ここまで辿り着いてくれましたね。私の愛し子たち』
天空から舞い降りたその女性――本物の女神アストラリア様が、慈愛に満ちた声で紡いだその一言。
たったそれだけで、荒野に吹き荒れていた冷たい風は完全に止み、私たちの全身の痛みが嘘のように引いていくのが分かった。
聞きたいことは……山ほどある。
私は、泥だらけの地面に這いつくばったまま、必死に口を開こうとした。
この過酷で運命めいた旅の真相を。
邪神フライヤとの決着を。
これからこの世界が辿るべき未来を。
そして何より――ゼルさんの腕の中で動かなくなってしまったアメリさんを、どうするつもりなのか。
私の中の思考の海には、ぶつけたい疑問と濁流のような感情が渦巻いている。
――なのに。声が、一欠片も出ない。
喉が凍りついたように震えて、言葉が形を成さない。
強烈な魔圧で押さえつけられているわけではない。
むしろ、その光はどこまでも暖かく、心地よいのに。
ただ、私自身の本能が、魂の根幹が。
『これ以上、至高の存在に気安く言葉を交わすなど、万死に値する畏れ多さである』と、絶対的な沈黙を強いている。
理屈を誇りにしてきた私の頭が、神という絶対の前で完全に敗北を認めている。
隣を見れば、ザックさんも、エンディラさんも、そしてルカさんも。
皆、まるで極彩色の絵画に縫い付けられたかのように、ただただ圧倒的な神聖さを前に平伏し、息を呑むことしかできていなかった。
アストラリア様は、そんな私たちを慈しむように見下ろすと、泥にまみれたゼルさんの前へと静かに舞い降りた。
「ア、アストラリア、様……っ!」
ゼルさんだけが、その不屈の精神力で、どうにか声を絞り出した。
だけど、最強の戦士ですら、神を前にしては産まれたての赤子のように震えていた。
その漆黒の複眼は、今にも壊れそうなほど潤んでいる。
『気高き戦士、ゼル。……そして、私の小さな愛し子、サクラ』
アストラリア様は、そっと白い手を伸ばし、ゼルさんの腕の中で眠るアメリさんの頬に触れた。
その瞬間、アメリさんの焼け焦げた身体を、淡い黄金の光が春の日差しのように包み込む。
『この小さな魂は、自らの命を燃やし尽くし、時の理を超え、神の領域へと触れました。……その代償は、あまりにも大きい――』
アストラリア様の声が、直接、私たちの心の中に響く。
それは、あまりに美しい宣告だった。
『もはや、彼女の魂は人の身には収まりきりません。……私が、神々の世界へと連れて行きましょう――』
連れて行く……!?
嫌だ、待って! アメリさんを、私たちの太陽を、連れて行かないで!!
心の中で、別の私が、喉を掻き切らんばかりの勢いで絶絶叫する。
それでも、目の前の光があまりに尊く、本能が『これ以上の口答えは神への冒涜だ』と激しい警鐘を鳴らす。
それでも。 ここで言葉を飲み込んでしまったら、私は、私という存在を一生許せない。
肺が焼けるように熱い。
「ア、アストラリア様……っ!!」
私は、無理やり強張る喉をこじ開け、血を吐くような思いで声を絞り出した。
「こ、これから申し上げる無礼を……どうか、お許しください……っ!」
アストラリア様は咎めることもなく、ただ静かに私を見下ろしている。
その瞳は、すべてを見通す真理そのもののようだった。
私は泥だらけの地面に這いつくばったまま、必死に言葉を紡ぎ続けた。
「アメリさんは……サクラは、その生命のすべてを賭して、あなた様を復活させたのです!この世界を邪神フライヤから奪還し、あなた様の封印を解いたのは、紛れもなく彼女なのです……!どうか……どうかッッッ!!彼女のその功績に免じて……っ!あなた様のその絶大な御力で、アメリさんを蘇生させることはできないのでしょうか……ッ!?」
すがりつくような、惨めな懇願。
私は、自分の愚かさを自覚していた。
神を相手に、これほど身勝手な「取引」をしようとしているのだ。
でも、馬鹿でもいい。このまま不敬罪として消滅させられてもいい。
アストラリア様は何も答えない。
ただ、すべてを包み込むような、穏やかで神秘的な笑みを浮かべたまま私を見つめているだけだ。
神にとって、人の生死など、ただの瞬きに過ぎないというのか。
その底知れない沈黙に、私の心が絶望で押し潰されそうになる。
――その時。
「俺が……っ!!!」
ゼルさんの、肺の底から搾り出したような、震える咆哮が響いた。
「俺の命を、差し上げますッッッ……!!!」
ゼルさんは泥の地面に深く額を擦り付けていた。
それでも、その逞しい両腕に抱かれたアメリさんだけは絶対に泥で汚さないよう、まるで世界で一番壊れやすい宝物を扱うように、大切に、大切に、己の胸の奥底へと抱え込んだまま。
「あなたのような御方に……ただのクラヴィア族の、卑小な俺が差し出せるものなど、この命、この魂くらいしかありません。……だから、どうか……!!」
最強の戦士の、血の滲むような、プライドをかなぐり捨てた懇願。
「俺の代わりに……アメリを、アメリを生き返らせてやってくださいッッッ!! お願いします……っ、どうか、どうかぁッ!!喜んで命を差し出しますッッッ!!!何万年、何億年と奴隷でも、家畜でもなんでもなりますッッッ!!!だから、どうかッッッ……どうか……!!!……どうか……お願い、しますッッッ……!!」
泥の中で号泣するゼルさんの姿を見て、私の視界も一気に歪んだ。
涙が止まらない。
ああ、アメリさんが……彼女が、この世界には必要なんです……
「お願いします……っ!わたくしたちの命でも、魔力でも、すべて差し出します!ですから、あの子を……っ!」
「俺たちを身代わりにしてくれ……っ!頼む……っ!!」
ゼルさんの慟哭に呼応するように、ザックさんとエンディラさんも、大怪我で動かない身体を引きずり、這いつくばりながら必死に神へ祈りを捧げた。
怪我を負っていないルカさんも、その場に深く膝をつき、泥に額を擦り付けて、石のように固まって土下座をしている。
「私からも……お願いしますッッッ……!!!」
私たち全員の、身勝手で、エゴにまみれた、けれど一点の曇りもない魂からの絶叫。
これだけすがれば。
すべての命を捧げると誓えば。
神様なら、奇跡の端くれでも見せてくれるかもしれない。
だけど。
『……慌てないで』
アストラリア様の声は、どこまでも優しく。
私たちの汚れた心を洗い流すように響き、そして――残酷なまでに穏やかだった。
ふわり、と。
アストラリア様が静かに宙を滑り、地に伏すゼルさんの目の前へと降り立つ。
そして、泥にまみれた最強の戦士から、大切な贈り物を預かるかのように、そっと両腕を差し出した。
「あ……」
ゼルさんは、抗うことなどできなかった。
その絶対的な神聖さと、抗う気力さえ失わせるほどの深い慈愛。
最強の戦士の腕から、力が、吸い取られるように抜けていく。
アストラリア様の白く輝く腕の中に、泥と血にまみれたアメリさんの小さな身体が、重力から解き放たれて移される。
『私の、愛し子たち』
アストラリア様は、腕の中のアメリさんに、母のような慈しみを持って微笑みかける。
そのまま、静かに。
天を貫く黄金の光の柱の中へと、ふわりと浮かび上がった。
「あっ……!」
光の粒子を纏いながら、黄金の空へと昇っていく本物の女神と、愛しい少女の姿。
待って。
連れて行かないで。
命を差し出すって言ったじゃないですか。
まだ、お礼もお別れも、何一つ言えてないのに。
私たちはただ、泥だらけの、何もなくなった荒野に取り残されたまま。
天へと還っていくアメリさんの背中を、絶望と畏怖の入り混じった瞳で、ただただ見上げることしかできなかった。
――なんて、私たちは無力なんだろう。
※ ※ ※
アメリ視点
暖かい。ここは、どこだろう。
上も下も、光か闇かも分からない。
ただ、ひどく心地の良い、温水の中にいるような……
そう、不思議な温水に全身が包まれている感覚だけがある。
重みも、痛みも、何もない。
ふわふわしていて……なんだか、とても眠たい。
……あれ?
私……死んだんだっけ?
ゆっくりと、記憶の断片を拾い集める。
下半身が吹き飛んで……それで、火で断面を炙って……?
えーと……風で自分を吹き飛ばして……バーンアウトエクスタシーをかけ終えて。
いや、バーンアウトエクスタシーが先だったかな?
そうそう。最後の、本当に最後の力を振り絞って、アストラリスの木に杖を突き刺した。
指先の感触が消える寸前に、カチッ、と何かがはまった音がしたところまでは覚えている。
そのあと、目の前が真っ白になって――
『……よく頑張りましたね。私の愛し子』
ふと。
どこからか、ひどく美しく、そして懐かしい女性の声が響いた。
誰だろう。でも、この声を聞いていると、心の奥底から静かな安らぎが湧き上がってくる。
『サクラ。あなたは、その小さな器の限界を超え、奇跡に辿り着きました。……さあ、選んでください。私の愛し子、サクラ』
――選ぶ……?
『このまま、五千年の時を超えて……あなたの帰りを待ちわびている、懐かしい同胞たちが眠る安息の地へ向かうか』
五千年……
ワービット族のみんなってこと?
みんなが、光の向こう側で「よく頑張ったね」「もう休んでいいんだよ」と、私に向けて手を伸ばしてくれている気がする。
そこへ行けば、私の欠け落ちた記憶も、すべて戻るかな。
そこにいけば、もう痛い思いもしない。
五千年の孤独も終わって、ずっと、大好きな人たちと一緒にいられるかもしれない。
『それとも……』
声が、さざ波のように優しく問いかける。
『まだ痛みを伴う過酷な世界で……あなたを呼び続ける、新たな待ち人たちのもとへ還るか』
その瞬間。
ワービット族のみんなの笑顔を突き抜けて、別の顔がいくつも浮かんだ。
生意気で、理屈っぽくて、でも誰より心配性で優しいフレヤさんの顔。
グントーサーベルを担いで、ガハハと笑いながら私の頭を撫でてくれるザックさんの顔。
呆れたようにため息をつきながら、私に紅茶をせがむエンディラさんの顔。
みんなが、泣きそうな顔で、私の名前を呼んでいる。
――私は。
私は……っ!
「帰りたい……っ」
迷いなんて、最初からなかった。
五千年前の同胞も大切だけど、今の私を「アメリ」として愛してくれたのは、彼らなんだ。
「か、帰りたいです!わっ、私は……フ、フレヤさんたちの隣に、帰りたいっ……!!」
自分の口から出たその強い意志で、霧が晴れるように視界が開けた。
パッ、と意識が完全に覚醒する。
「……っ!」
目を開けると、そこには、信じられないほど神々しい黄金の光を放つ、一人の美しい女性が立っていた。
私たちがアストラリスの木の領域に足を踏み入れたとき、幻影として現れたあの女神様だ。
だけど、今の私は、そんな神様の威厳に平伏している場合じゃない。
「ア、アストラリア様……っ!!」
自分の体がどうなっているかなんて、どうでもよかった。
気がつけば、私は無我夢中で女神様の衣にすがりついていた。
「お、お願いです、アストラリア様……っ!わ、私はどうなってもいいですっ……!て、て、天国に行けなくたって、いいですっ……!ど、どうか、フレヤさんたちを……ザックさんやエンディラさん、ルカさんを……た、助けてくださいっ!」
ボロボロと、大粒の涙が溢れ出す。
最後に見た、あの大怪我を負ったみんなの姿が消えない。
千年の化け物――サルハナさんの凶刃に倒れた、血まみれのフレヤさんたち。
隠れていたルカさんだって、私たちが死んだら、きっとすぐに見つかって殺されてしまう。 そんなの、絶対に嫌だ。
「み、みんなを……!い、生き返らせて、く、くださいっ……!おっ、お願いします……!!」
ああ、みんなの魂が天国へ逝っちゃう前に。
せめて、私との再会なんて後回しでいいから、彼らの命を繋ぎ止めてほしい。
「みんなに……みんなに、会いたいよぉ……っ」
本当は、最後にさよならだけでも言いたかった。
でも、さよならを言ったら、もう二度と離れたくなくなっちゃう。
それから、ゼルさん。
最後に私を抱きしめてくれた、あの幻のゼルさん。
約束が守れなくてごめんなさいって言いたかった。
どうか私のことなんて忘れて、他の素敵な人を見つけてくださいって。
子供のように泣きじゃくりながら懇願する私を。
アストラリア様は、ただ慈愛に満ちた瞳で見つめ、ふわりと私の身体を抱きしめてくれた。
『慌てないで。……彼らなら、大丈夫ですよ。あなた自身が、最後まで彼らを護り抜いたのですから』
「あ、え……っ?」
『さあ、これから会いに行きましょう。あなたが選んだ、愛しい人たちのもとへ』
アストラリア様がそう微笑んだ瞬間。
私の身体は、どこまでも暖かく、優しい黄金の光の粒子に包み込まれ……
再び、ふわりと心地よい眠りの中へ、意識が溶けていった。
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