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Black File  作者: 葱鮪命
207/210

針の少年

 これは、まだアドニス・エルガー(Adonis Elgar)がB.F.に入社したばかりの頃の話である。


「うっわー、スーツ似合わんねアンタ」


 新入社員研修会の朝、アドニスの前に立つのは一人の女性だった。

 黒髪はウルフカット、切れ目はアドニスにそっくりだ。


 彼女はザラ。

 アドニスの四つ離れた姉である。


 ザラの前には、人生で一度、二度しか見た事のない、スーツを着た弟が立っている。今日は遂に弟が社会人として社会に飛び立つ日だ。


 あんなに小さかった弟が、此処まで......のような感動の気持ちは彼女には無い。

 見慣れない弟のスーツ姿を前にして、腹の底から込み上げる笑いを堪えるのに必死だ。


 彼女はそう言う人間であった。


「あとでパパにも送ってあげるからさ、ほら、しゃんとしな」


 ザラは声を震わせながら携帯電話のカメラをアドニスに向ける。画面には此方を鋭く睨む弟の姿が映った。一度目のシャッターが切られる。


「あーあ、アドも遂に社会人かあ」


 ザラは撮った写真を確かめるや否や、カメラにフィルターをかけて弟の姿が良く映るように細かな調整を始める。「もう良いだろ」と動こうとする弟の頭を叩いて、ポーズを取らせた。


「何処に就職するのかと思えば、まさかBlack Fileだなんてね。良かったね、アンタみたいな狼を扱ってくれる会社で。物好きな会社もあるもんだ」


 二枚目が撮られると、アドニスはすかさず「うるせえ」と返す。


「姉貴だって狼のくせしてよく今の会社に入れたな」


「アタシは優秀だから。アンタと違って、学校で成績一番だったでしょ?」


「うぜえ」


 Black Fileは、主に超常現象を扱う公的な研究組織だ。

 三年前に郊外で起こった大規模な爆破事件によってその名を世に知らしめ、興味と恐怖の目が同時に彼らに降り注ぐことになった。


 アドニスは高校を卒業した後の自分の進路が、ぼんやりとしか決まっていなかった。

 あまり目立つことも無く、特化した能力も無い自分が、社会のどんな役に立つのか全く想像もつかなかった。


 そこで目をつけたのがBlack File。まだ注目され始めて日が浅い会社。何をしているのかもよく分からない会社だ。


 それならば、自分のような人間も簡単に入社出来るかもしれない。受からなければ、適当な場所を選べば良いのだ。仕事はこの世に五万とある。


 そう思って受けたら、あっさりと通ってしまった。


「てっきり、レコード屋でも始めるのかと思ってたわ」


 ザラは、三枚目を撮る用意をしながら、弟の部屋を思い浮かべていた。

 彼の部屋にはアナログのレコードプレイヤーがあり、大量のレコード盤と、古い映画のポスターで埋め尽くされている。


 父が懐古趣味だったこともあり、息子もまた似た趣味を持ったのだ。今や父よりも趣味の沼にどっぷりと浸かっている。


「商売にするほどの知識も無いし」


 カメラの向こうで弟は髪を整えている。染めたばかりの赤いメッシュが気になるらしい。あるバンドに憧れていた弟の就職祝いに、美容師のザラが家で染めてあげたのだ。


「ま、懐古厨の研究員が居たって良いよね。趣味が古すぎて超常現象扱いされたりして」


「ぶっ飛ばすぞ」


「良いね、その顔。それこそ、アドって感じ」


 針のような視線がカメラに向けられたタイミングで、ザラはシャッターを切った。


 三枚の写真が全て不満げな顔になったが、これもまた思い出だ。ザラはメールを開いて父と母の携帯にそれぞれ写真を送ってあげた。


「で? 新入社員研修会だっけ。何時から?」

「あと二時間後」


 アドニスは腕時計に目を落とす。


「ふーん。ちゃんと会社まで行けるの? アタシが後ろからついて行こうか?」

「アホか」

「アホで結構。弟ってのはいつになっても可愛い存在なんだよ」


 ザラは、弟のジャケットの襟を整えてやって、自分が染めた赤いメッシュを指で弾いた。


「うん、ばっちり!! 女の子二、三人落としてこい!」

「はっ倒すぞ」


 *****


 ノースロップ・シティの中心部のビル群に、新しいビルが建ったのは、誰だって知っている。そして、そのビルが一体何のための建物なのかも、ニュースで嫌になるほど聞いている。


「25階か......」


 背の高いその建物を見上げて、アドニスは深いため息をついた。


 会社に辿り着くまでの間に、着慣れないスーツで疲れ果てている。今すぐにでも回れ右して帰ってしまいたい。


 スーツとはこれほどまでに窮屈なものなのか。

 これからこんなものを着て仕事をするなど、入社前から嫌になる。


 今日は入社説明会だけなのだから、別段気の張るようなことはさせられないはずだ。


 意を決してエントランスに足を踏み入れる。


 ガラス張りのエントランスの景色は、外からもよく見えた。

 新入社員なのか、普通の社員なのか分からない者たちがそこら中で気ままに過ごしている。

 おそらく後者だろう。有難いことに堅苦しい雰囲気は感じられない。


 アドニスは研修会の会場である25階に向かうべく、エレベーターに乗り込む。


 透明なエレベーターだ。新しいビルなので設備も新しいのだろう。


 天井部分がスクリーンになっていて、青空の映像が映し出されている。鳥がよぎる。雲が速い。どうやら、ライブ映像らしい。


 普通の会社ならば気分転換の一環として片付けられそうだが、この会社の特殊性を鑑みるとそうもいかない。

 超常現象に何かしら関連した理由で、このようにしなければならないのだろう。


 エレベーターの中には、アドニスの他にも乗客が居た。広いエレベーターなので、どんどん人が入ってくる。あっという間にアドニスは壁に押し付けられるような形になった。


 この空間内でスーツをきっちりと着ているのは彼だけだった。


 見た感じでは、ある一定の基準を満たしていれば、ある程度自由な服装が許されているようだ。ラフに着崩したり、ネクタイを締めていない者も見える。


 堅苦しいスーツ生活の方は、あまり心配する必要は無さそうだった。アドニスは密かに胸を撫で下ろす。


 それぞれの階で一人、また一人と降りていき、違う階でまた人が乗り込む。


 白衣を着ている者も中には居る。白衣など、学生時代に理科の実験で着たくらいの記憶しかない。

 此処では新しいものを配布するので買う必要は無い、と事前資料には書いていた。


 本当に想像もできない会社に入社してしまったようだ。

 自分はこれから、此処でどんな仕事をしていくのだろうか。


 人の入れ替えを眺めているうちに25階についた。扉が開くと、自分と同じような姿の若者が廊下に溢れているのが見えた。新入社員である。


 アドニスはホッとしてその階に降りる。


 知り合いでも居るだろうかと探してみたが、高校の知り合いは、皆ほとんどが大学へ進学してしまった。


 結局誰も見つけられず、壁の近くに寄って開場時間になるのを待った。


 *****


「では、時間になりましたのでお部屋にご案内しますね」


 女性の声がして、扉が開く音がした。止まっていた人の頭が一定の方向に動き出し、アドニスもその波に乗る。通されたのは広い部屋だった。


 部屋はガラス張りで、前方に大きなスクリーン、そしてそのスクリーンに向くようにして椅子がズラリと並べられている。アドニスは適当な席に腰掛けた。


「時間までもう暫くありますので、席にお掛けになってお待ちください」


 さっきの女性がマイクを通してそう言って、アドニスは席を立った。


 始まる前にトイレに行こう。二時間は椅子に縛り付けられるのだ。


 別段気にすることもないかもしれないが、髪型やネクタイもチェックすることにした。


 *****


 ドンッ!


 前を見ていなかったというわけではないのだ。ただ、何にぶつかったのかも分からないほど、「それ」は視界に映っていなかった。


 ドサッと鈍い音と、バサバサと何かが床に落ちて散らばる音がした。


 アドニスは無事だ。しかし、目の前には色々なものを床に散らばらせて倒れている者が居る。


「やべっ」


 アドニスは素早く目を走らせる。


 どうやら、トイレから出て来たところで自分と接触したようだ。

 鞄を持っていたようで、その中身が床に散らばっていた。主にファイルだ。


 アドニスはそれらをすぐに拾い上げる。


「す、すみません!!」


 スーツを着た女性だった。まだ子どものようで、背も驚くほど低い。見えないわけだ、とアドニスは納得し、「大丈夫か」と声をかける。


 自分と同じ新入社員だろう。まさか初めて会話する人が女の子とは。幸先が良いな、と心の何処かで思った。


「は、はい。お怪我は......」


 少女はゆっくりと立ち上がる。頭の上に赤いリボンが乗っていて、それがますます彼女の幼さを助長させている。

 そして、本当に背が小さいのだ。その背の小ささから、彼女はアドニスを見上げる形を取った。


「......ちっさ」

「え?」

「いや、ちっさいなって......」


 少女はポカンとしていたが、何が小さいのかすぐに理解したらしい。恥ずかしそうに目を伏せ、「これ、ありがとうございます」とアドニスの手から鞄をひったくるようにして取ると、早足で廊下を駆けていった。


 第一印象が悪く映ってしまったかもしれない。


 アドニスはぼんやり彼女の背中を追いかけ、その場で携帯を取り出す。取り敢えず、姉に今の出来事をメールで簡潔に伝えることにしたのだった。


『第一印象? 最悪に決まってるだろ!!!』


 何故か怒られてしまった。


 *****


 研修会の会場に戻ったアドニスは、さっきの少女の姿を探した。


 取り敢えず、背の小ささを口に出したことはデリカシーが無かったらしい。

 家に帰ったら姉のお叱りを受けそうだが、今はあの少女に謝るところから始めた方が良さそうだ。


 しかし、探しても彼女の姿は無い。背の小さな子だったし、見つけられないのも納得が行く。


 それよりも、そろそろ始まるような雰囲気が漂いだした。

 彼女には後で謝るとして、今はスタートダッシュに出遅れないことに集中した方が良さそうだ。


 アドニスが椅子に座ったところで、会場に女性の声が響いた。研修会が始まるのである。と同時に、アドニスは「え」と声を漏らす。


 スクリーンの前に設けられた壇上に立つ少女が居る。それは正しく、自分がさっきトイレから出た時にぶつかったあの少女だったのである。

 堂々とした立ち振る舞いでマイクに向かって話す彼女は、どうやら今日のこの研修会の司会進行役を務めるのだそうだ。


 ......同じ新入社員じゃなかったのか。


 見た目で判断するのは良くないらしい。


 しかし、あの見た目はどう見ても同い年か年下にしか見えない。


 それどころか、小学生が発表でもするかのような見た目なのだ。

 いや、今の小学生だってもう少し大人っぽい。


 社会というのは、自分の知らないことばかりなんだな。


 アドニスは思うのだった。


 *****


「おい」


 カーラ・コフィ(Carla Coffey)は昼食をとり終えて、食後のコーヒーを飲もうと自販機の前に居た。


 背の小ささはこういう時に恨みたくなるものだ。


 お目当ての缶コーヒーは上段の片隅にある。

 カーラが腕を伸ばして指先がボタンに触れるくらいの高さだ。


「あ、すみません......」


 モタモタしてしまったのがいけなかったのか、後ろから声をかけられてカーラは振り返る。


「えっと、さっきの......」


 カーラは彼に向き直る。それはトイレを出た時に廊下で衝突した研究員だった。新入社員研修会では椅子に座っていたので、今日入社した研究員だということが分かる。


「届かないのかよ」


 少年は自動販売機を指さす。カーラは頷く。今日は最上段の缶コーヒーを飲みたかったが、諦めて下の段にするべきだったかもしれない。


「すみません、すぐ避けます」

「や、俺が押してやる」


 そう言って彼はボタンを押した。当然、彼の身長ともなると難なく届く。がこん、と缶コーヒーが落ちてくる。彼はそれを自分に差し出してきた。


「あ、ありがとうございま_____」

「ほらよ、チビ」

「チビ......」


 そう言えばさっきも同じようなことを言われた。身長は低い方ではあると分かっているが、こうして面と向かって言われたことは無いのでショックである。


 カーラは改めて礼を言って、足早にその場を離れようとしたが、


「おい、ちょっと待て」


 彼は呼び止めてきた。


「助手、募集してないか。お前、星4だったら助手とれるだろ」

「......へ」


 思いもよらない助手志願だった。


 カーラの手からするりと缶コーヒーが抜け落ちる。それはゴロゴロと床を転がった。


 *****


 アドニスはそれから何回もカーラのオフィスに通った。

 カーラは少し時間が欲しいとのことだったが、他を当たるという考えはアドニスにはない。


 何か、直感的なものが彼に働いたのである。


 カーラは三回目でOKをしてくれた。

 ただし、まだ星4なので出来る実験に限りがあること、また自分の仕事にあまり自信が無いということを伝えてきた。


 アドニスはそれを承知して、早速彼女の助手として仕事をすることになった。

 姉のザラと学校のクラスメイト以外に、歳の近い女性とこれだけ物理的に近い場所で長時間過ごすということは、彼にとって初めてのことだった。


 なかなか意識して仕事をしづらい。

 気づけば視線は彼女の方を向くか、ぼんやりと宙に投げてしまっていた。


「アンタ、仕事ちゃんとしてるんでしょうね。先輩に迷惑かけてない?」

「かけてねえよ」


 アドニスが仕事を始めると、姉は仕事場のことを知りたがった。あれだけ大きな事件があった会社なので心配はしているのだろう。


 アドニスはあまり会社のことについて話さなかった。

 女の子に助手入りしたなんて言えば姉がどんな反応をするかなど、想像が容易い。


 しかし、彼女の嗅覚は驚異的だった。ある日突然、


「アンタの先輩、女でしょ」


 朝食の席で言ってきたのである。入社して二ヶ月が経とうとしているところだった。ぼんやりとテレビを観ながらスープを啜っていたアドニスは、盛大にそれを吹き出した。


「わっかりやす」


 ザラは笑って、布巾を差し出してくる。アドニスはそれを引ったくって、濡れた場所を乱暴に拭いた。

 幸い、両親は席を外している。父は既に出社していたし、母は洗濯物を干しているところだ。


「馬鹿か。そんなわけないだろ」

「えー? いつも洗面所で念入りに髪の手入れしてるじゃん。高校生の時、そこまで気を使ってなかったくせに」

「会社なんだからちゃんとするだろ、そりゃ」

「そうかねえ。最初だけしっかりするかと思ったら、日を追う事に洗面所に立つ時間が長くなってるし。こりゃ、なんかあるね」

「ねえよ。その恋愛脳どうにかしろ、クソ姉貴」


 ザラはまだニヤニヤ笑っている。アドニスは耐えられなくなって、口に押し込めるだけトーストを押し込むと席を立った。


「あ、寝癖あるよ」


 慌てて後ろ髪に手をやる弟を見て、彼女は手を叩いて笑った。


 *****


 そして、とうとう先輩がカーラだと分かってしまったのは、バレンタインの日だった。


「遅かったじゃん」


 先に仕事から帰ってきていたザラがリビングで寛いでいるところに、アドニスは帰宅したのだ。

 彼の腕には、カーラが作ってくれたバレンタインボックス。この文化を姉が知らないわけがない。


 電光石火の早業で、ボックスは彼女の腕に渡っていた。


「あっ、返せ馬鹿っ!!」

「うわっ、少ねー!! アンタって、会社であんま人気無いんだねえ」

「うるせえよ!」


 そして、彼女はパッとそれを掴み、「おや!」と目を丸くしたのだ。


「女の子の字じゃん!!」

「返せっ!」

「ふうん、これがアンタの先輩ね」


 スカイラと散々カフェで作戦を練ったあとだったのだ。カーラがくれたバレンタインの贈り物の中には手紙が入っていて、その内容というのが、デートを仄めかすものだったのである。


 これにはアドニスもいつものクールフェイスを崩さずにはいられない。


 相談をする相手は、スカイラしか居なかった。

 もちろん、彼の変人っぷりはよく知っているので、本当に的確な相談相手は姉なのだろうが、姉はカーラを知らないのだ。


「カーラさんって言うんだ。年上なの?」

「......ひとつだけな」

「最高じゃん! アタシ妹欲しかったんだよね!」

「勝手に話進めんな!!」


 アドニスは姉の手から手紙を取り返そうと試みたが、彼女は綺麗に弟の腕をすり抜け、家の奥へと消えていく。


「ママー!! アドが女の子からバレンタイン貰ってきた!!」

「アホーッ!!」


 *****


 しかし、いくら日を重ねてもカーラの口から直接デートの話題が上ることはなかった。それどころか、彼女は様々な超常現象の対応に追われて、休日をゆっくり過ごすような時間も無いようだった。


「忘れられてはないだろうけれど......」


 スカイラが同情の目を向けてくるのが、アドニスは何よりも情けない。


 たまにカーラの卓上カレンダーを盗み見てみたが、どの休日にも「助手とデート」の字は無い。「会議」「実験」「報告書締め切り」のどれかで埋められているのだ。


「アド、何だか最近元気ないね」


 カーラの心配そうな顔で、アドニスはようやく理解した。


 どうやら、自分は彼女に全く意識されていないらしい。

 あの手紙は誰かのいたずらだったのだ。

 思えば、まず字が違う。彼女のものよりも、かなりシャープな字面だった。


「なあ」

「うん?」


 アドニスはデスクに突っ伏していた。


「なんでもない」


 心の中で姉が叫んでいる。「意気地無し!!」と。

 意気地無しで結構だ。


 そもそも、彼女には先客が居るのだ。絶対に勝てない先客が。


「......眼鏡でもかけるかな」

「えっ?」

「なんでもねえよ」


 ついでに髭でも生やそうか。もういっそのこと、髪も染めてしまおう。


 彼女の口からいつか聞いた、彼女の先輩の容姿をアドニスは思い浮かべていた。

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