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Black File  作者: 葱鮪命
206/210

File091 〜あの日の火曜日〜

 リース・ティペット(Rhys Tippett)は自分のオフィスに戻ってきた。日曜会議を終えたのだ。


 今日は新しい超常現象が盛りだくさんの会議だった。一時間半で終了するはずの会議は、三十分オーバーの二時間で終了した。


 流石に中心メンバーの顔にも疲労が見えた。あの膨大な情報量をまとめるのに、彼らはどのくらいパソコンの前に座っていたのだろう。

 デスクワーク嫌いのバレットやエズラは酷くやつれていたのだから、相当だったはずだ。


「ただいま戻りました」

「おかえりなさい、リースさん」


 オフィスに戻れば、助手の星2研究員ウィル・ドイル(Will Doyle)が待っている。今日は特に仕事もないので先に帰るよう伝えたのだが_____残ってくれるのは好都合だ。


「随分とかかりましたね」


 デスクに研究員ファイルを置くリースの背中に、ウィルが言う。「ええ」とリースはファイルに手を置いた。行きよりも数倍分厚くなっているファイルだ。これでもかなり情報は削った方だと、エズラが言っていた。


「今週は新しいものが沢山見つかったと言っていて。すみません、こんな遅い時間まで」

「いえ。先輩より先に帰るわけにはいきませんから。リースさんが戻ってくるのを楽しみに待つ時間も、私は好きなんですよ」


 ウィルはリースの表情も気にせずに「コーヒーを淹れますね」と席を立った。


 自分は後輩時代、先輩が会議で遅くなるとなれば食堂で飯を食い、それでも戻ってこなければ、自室に戻って寝る準備までしていたというのに......。


 やはり、ウィルは変わった助手なのである。彼の行動が自分よりも優れている気がして、やっぱり顔に泥を塗られた気分になる。


「それで、どのような超常現象が見つかったんですか?」


 そうだった、とリースはファイルを開いた。ウィルが退勤していても構わないと思っていたが、オフィスに残ってくれていたことで会議の内容を伝えられるのでありがたい。もしかして、彼はそれすら見込んでこんな時間まで残ってくれていたのだろうか。


 そうだとしたら、やっぱり恐ろしい助手な気がしてきた。


「今回見つかった超常現象ですが、ある現象の外部調査の仕事を受けまして。今度の火曜日、ウィルさん予定はあります?」

「火曜日ですか」


 ウィルはコーヒーカップを引き抜いて、カレンダーの前に立った。


「特に何も無いですね」

「じゃあ、決まりですね」


 リースは自分が担当することになった外部調査の資料をファイルから抜き取り、コピー機に向かう。


「外部調査......噂には聞いていましたが、私も遂に外で仕事をするんですね。何だかドキドキします」


 ウィルがコーヒーカップをデスクに置いてくれたようだ。


「そう言えばウィルさんは初めての外部調査ですか」

「ええ。研究所の中での実験に慣れてきた頃なので、何だか新鮮です。危険な超常現象なんでしょうか?」

「いえ、危険性はそこまで無いという話でした。ただ、まあ、まだほとんど手の付いていないものなので、調べがいはありそうなものですよ」

「わあ、楽しみです」


 楽しみなのか、とリースは呆れる。

 自分は外部調査を任されることに面倒臭さを覚えていたのだ。中で済む仕事だけをしていたいというのに、この助手には「面倒臭い」という感覚が無いようだ。研究員としては完璧な人間である。


 助手に人間性が劣っている時点で、リースはやっぱり彼の先輩であることが嫌になるのであった。


「では、来週の火曜日までにこの資料、読んでおいてください」


 コピー機から出てきた紙をステープラーで留めて、リースはウィルに紙の束を渡した。


 *****


 リースは車の助手席に居た。高速道路の景色も飽きてきた。


「おまたせしました。コーラでよろしかったですか」

「ありがとうございます」


 車内にウィルが戻ってくる。手には紙製のカップが二つ。ひとつはリースが頼んだ炭酸ジュースだ。


 運転席にやって来たウィルは、扉を閉めてカップを置くや否や、カーナビに指を走らせ始めた。


「すみません。走り慣れない道ですから。少しだけ確認させてくださいね」

「いえ、ゆっくりで良いんです。十四時に間に合えば良い話ですから」


 リースはそう言いながら、自分の腕時計に目をやる。ちょうど十二時を回ったところだった。オフィスに居れば、今頃ホットドッグでも齧ってる頃だ。


 外を見たが、残念ながら廃れた高速道路のパーキングにそんなものは無い。ひび割れたコンクリートの上に、自販機とトイレが置かれているだけである。


 大型のトラックが七台、奥で休んでいる。その他には一般の自動車なんて見当たらない。


 外部調査で任されたのは、とある辺鄙な山奥にある湖に現れる超常現象だった。発生条件は、毎週火曜日、十四時にその湖内。天候は関係なく、曜日と時間さえ合っていれば必ず現れる超常現象らしい。


 高速に乗ってもう既に三時間が経過していた。運転はウィルが引き受けてくれたが、ずっと座りっぱなしでリースはいよいよ腰が痛い。予定ではあと一時間もすれば着くはずである。


 ジュースを口に含んだところで、ウィルが「行きましょうか」と車を発進させた。


「長時間運転、疲れませんか。俺が代わりますよ」

「いえ、運転するの好きなんです。それにこの車、運転しやすいですし、疲れにくくて。だから心配しなくても大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」

「はあ」


 運転を快く引き受けてくれた上に、運転席を譲らず、車まで褒め称えるとは。

 一方で自分は、とリースは手の中の飲み物を全て自分にぶっかけたくなる。


 車が発進してから「運転を代わる」なんて、最初から代わる気のない奴の言葉である。いや、はなから運転を代わる気などなかったのだが。それすら見透かされていそうである。

 おまけに「助手席」に助手ではない自分が座るなんて。皮肉も良いところだ。


 *****


 車はやがて、高速道路を降りて山の中に入った。長いこと人も入っていないのだろうか、伸び放題の草木が車のボディに傷をつけていく。


「ジャングルみたいですね」


 ウィルは車をさらに進めた。リースは果たしてこんな場所に超常現象が居るのだろうか、と周りを見回す。一面緑で何も見えない。上ですら伸びきった木の緑が覆って、空の青を隠してしまっているのだ。


「植物のトンネルって感じですね」

「ええ。人の気配はありませんね」


 リースは膝の上の研究員ファイルから資料を取り出したが、その途中で激しい揺れによる酔いが来てしまった。大人しく外を見るしか無さそうだ。


 リースは外に目を向けた。すると、


「あっ」

「何か見えましたか?」

「今、湖みたいなものが」


 木々の隙間から微かに輝く水面が見えた気がしたのである。車を進めていくと、やがて開けた場所に出た。木造の建物がある。その先に桟橋のような木の板が、湖にかかっているのが見えた。


「着きましたね」


 ウィルが建物の隣に車を停める。駐車場としてかつて使われていたのだろうが、もう植物に支配されてその形跡がほとんど無くなっていた。


 二人は車を降りた。建物は今にも崩れそうな木造二階建て。中を覗くと、腐ったベンチと時刻表、チケット売り場のような個室があった。奥には広い扉があり、その向こうが桟橋になっている。


「遊覧船乗り場のようですね」


 ウィルが建物の隣に立てかけられた看板の文字を読んでいる。


 今回の超常現象の発生条件場所が、この奥の湖である。かつて遊覧船が有名だった場所らしく、何十年も前に会社が倒産してからそのまま放置されていたらしい。


 事前に行われた地元の住人への聞きこみ調査では、時々、あるはずのない遊覧船がこの湖を動いていることがあるのだそうだ。海賊船だとか幽霊船だとか言われて恐れられているそうだが、不思議なことに火曜日の午後二時にしかその姿を現さないらしい。


 リースは腕時計を見た。二時まであと五十分はある。辺りを散策して資料に使える写真を撮っていれば時間になるだろう。


 二人は建物の中に入った。


「何が楽しくてこんな場所で遊覧船業なんてするんでしょうかね」


 リースは時刻表にカメラを向けた。朝の十時から十一時まで、午後は二時から三時まで、夜も時々船を出していたようだ。


「昔は手入れがされた森だったんでしょうね。遠くに見える山も綺麗ですし」


 ウィルが見ていたのは、桟橋に続く扉だった。奥には雲に霞んでいる背の高い山が見える。あの山が遊覧船の目玉だったことは間違いない。


「それに、広い湖みたいですよ」


 確かに、湖は向こう岸が見えない。海と言われても違和感の無い広さだ。一回の遊覧は一時間かかるようだし、面積は相当あるのだ。


「これが実際に使われていた船のようですね」


 待合室の壁にはポスターが貼ってあった。黄ばんでいて、破れたり汚れたりしているが、青い水面の上を滑るように走っている遊覧船の姿がプリントされている。白と赤の美しい小型の遊覧船だ。


 これが目撃された遊覧船なのだろうか。遊覧船の外見の情報は残念ながら入ってきていない。「遊覧船が現れるらしい」という噂だけが独り歩きしているのだ。


「思っていたより小さいですね」

「ええ、桟橋の大きさから考えてもそこまでのものではないみたいですね」


 ウィルは頷き、今度はチケット売り場に入っていった。ガラスが割られて、明らかに泥棒が入った形跡があった。金目のものなどあるわけがない。見るからに廃れていたことが分かる建物なのだ。


 リースは売り場の外で写真撮影を始めた。何処を撮ってもパッとしない。真面目な資料に貼り付けるものなのだから、良い風景など撮らなくても良いのだが。


「おや、これは」

「何かありましたか?」


 カメラを覗き込みながらリースが問う。「余ったチケットがありますよ」とウィル。


「これが乗船切符のようです。今回の超常現象さんに乗る時に必要になるでしょうか?」

「さあ、どうですかね」


 リースは振り返ってウィルを見た。助手の手の中には確かに一枚のチケットがある。デスクの引き出しの中から出てきたらしい。綺麗な保存状態だ。


「一応持っておきますか。立ち入り許可を貰う際に、何か気に入ったものがあれば持って帰っても良いと言われていたみたいなので」


 ウィルからチケットを受け取り、リースはファイルに挟んだ。


 二人はそれから細かい場所まで調べたが、真新しいものは見つからない。二階へ上る階段もあったが、腐って崩れていたので、上がるのはやめておくことにした。


「何だか落ち着くところですね」


 ウィルがベンチに座った。汚れていたので驚いたが、ハンカチを敷いていた。リースも進められたが、断った。


「落ち着くんですか。俺は全く思いませんけど」

「こういうの、ノスタルジックって言うんですよ」

「へえ」


 リースは周りを見回してみたが、ただ「廃墟」という感覚しかない。助手に人間性で劣っていることは痛いほど分かっているので、当然美に対する眼識だって劣っていて当然だ。


「ウィルさんって、前から思っていますけど変わってますよね」

「そうですか?」

「ええ。なんか、人よりズレているというか。いや、まあ俺がズレているだけだとは思うんですけど」

「リースさんは素晴らしい研究員だと思いますよ」


 こういうところだが、と言いたかったが、黙っていた。


「あんまり自分のことを卑下しすぎないでくださいね、リースさん」

「はあ」

「リースさんは素敵な方です。助手という枠から外れたって、私はそう言いきれます」

「そうですか」


 何気なく腕時計に目をやると、五分前だ。


「そろそろ時間ですね。桟橋に出てみますか」

「はい」


 桟橋に出ると、リースはカメラを構える。何処から船が現れるのだろう。突然目の前にポンと発生するのか、それとも奥からゆっくりと此方に向かってくるのか。


「船、リースさんが一人で乗ってくださいね」

「え?」


 リースは思わずウィルを振り返る。さっき散々自分を上げる発言をしておいて、まさか裏切るのか。相手は超常現象である。情報が少ない分、危険性も高まる。そんなものに尊敬する先輩を一人で乗せるとは。


「安心してください。此処で待ってますから。危険性は少ないと資料にはあったはずです。一時間で戻ってくる遊覧船ですから、一時間経っても戻らなかった場合は助けに行きますよ。最も恐れているのは、私も一緒に行って、二人とも誰にも知られず超常現象に連れ去られることです」


 全くもってその通りだった。一人は此処に残る人が必要だ。先輩よりも後輩の仕事ではないかと思ってしまう自分が情けなくなる。先輩の方が対象に対する知識があるのは当たり前なのだ。


「分かりました。じゃあ、俺が行きます」


 リースは資料を作った研究員の顔を思い浮かべる。危険性は本当に無いんだろうな、とその顔に何度も確認するのだった。


 *****


 遊覧船は、湖の奥からゆっくりとその姿を現した。水辺に生えた木々の向こうから、音もなく此方に向かってくる。


「何だか、さっきのポスターとは違いますね」


 リースは、待合室で見たポスターを思い出す。あのポスターにあった遊覧船は、白と赤の小さなものだったが、奥から現れた遊覧船は、まるで立派な蒸気船だった。この湖に浮かべるにはゴツゴツしすぎている気もする。


 そして、現れた遊覧船には、それ以上に異様な特徴があった。


「何だか物悲しい色をしていますね」

 ウィルが言う。


 そう、遊覧船は全体がグレーと黒、薄暗い白を貴重としていた。外見だけでなく、見える限り内装までもが暗い色で統一されている。モノクロ写真から飛び出してきたかのような色合いなのである。


「時間もピッタリ、あれで間違いないですね」


 リースは時計を確認する。ちょうど十四時だ。噂になっている遊覧船で間違いないのだろう。


「どうしてあんな色なんでしょうか」

「古い時代が関わっている超常現象なのかもしれないですね」


 最初に抱いた色のイメージから、リースはそんなことを言ってみる。その不気味さから、乗船した者は未だに居ないらしい。一時間で戻ってくるという証言だけは得ているが、果たしてその時自分は中に居るだろうか。

 この超常現象の危険性は低いと言われているが、それは外から見ている限りでの話である。中がどうなっているのかは、誰にも分からない。


「大丈夫ですよ。何かあればすぐに助けに行きますから」


 顔が強ばっていたらしい。助手に慰められるなど、本当に先輩として恥ずかしい。リースは小さく息を吐いて緊張を紛らす。


「超常現象なんて、腐るほど見てきているので。そこまで心配して頂かなくて大丈夫です」

「ふふ、そうですね」


 馬鹿にしているに違いない。


 リースは近づいてくる蒸気船をじっと見つめた。白煙に音がない。水面が静かに船の通った痕を残している。桟橋に近づいてくると、船からスロープが伸びてきた。

 リースはそのスロープに軽く飛び、船に乗った。


「行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」


 リースは振り返って、桟橋のウィルを確かめようとした。しかし、ある違和感に気がついた。


「どうされましたか?」

「色が......」


 それは、不気味な光景だった。今まで色付いていた世界が、突然モノトーンに変わったのだ。水面は灰色に、木々は黒く、ウィルから色が抜けている。


 リースは何度も目を擦って周りの景色を見たが、自分の姿ですらモノトーン一色になっている。


「おそらく、超常現象の力です」


 リースは冷静を装ったが、船から降りてもこうならばどうしようと内心気が気ではない。

 ウィルは報告書のために、リースが乗った状態の写真を撮ったり、メモをしたりするので忙しそうだ。その間にも船はゆっくりと桟橋から離れていく。


 リースは諦めて、船内を散策することにした。あまり時間は無い。一時間は長くて短いのだ。この船から降りられればの話だが。


 リースが乗船したのは、船の一階で、デッキ部分だった。柵が一箇所切れていて、リースはそこから乗船したのだ。乗船した際のスロープは今デッキの床に転がっている。自動で動くことは無さそうである。あれも超常現象の仕業だったようだ。


 色を失うと、その物質の質感まで疑わしくなる。リースはスロープを触った。足を置く部分はゴム、それ以外はザラザラとした金属らしい。知っている感触だ。


 それ以外の場所もぺたぺたと触ってみたが、目を閉じれば違和感ない触感ばかりだ。色が無いのは不思議な感覚だが、違和感だけで危険性はそこまで無い。


 リースは続いて、デッキから船内に入ることにした。扉は開かれており、窓の多い造りになっている。ベンチタイプの椅子が船の進行方向を前にして並んでいた。人は誰も乗っていない。色と人が無い以外、特に違和感の無い遊覧船の内部だ。


 奥は操舵室になっている。舵を握っている者は誰も居らず、ただ木の舵が右に左にゆっくり回転しているだけだ。扉についている取ってを押したり引いたりしてみたが、鍵がかかっているのかピクリともしない。


 写真を撮って、リースは操舵室の横から再びデッキに出た。ぐるりとデッキを一周すると、二階に上がるための階段を見つけた。乗ってしまった後では分からないが、上にも大きい船だった。


 リースは階段を上がりながら、外の景色を眺めた。助手の居る桟橋は、ちょうど逆の方で、船体に隠れて見えない。きっと、まだ桟橋に居るはず_____。


「置いて帰ってたりしないだろうな」


 嫌な予感がしたが、もう何もかも遅いのだ。船は自分の意思では動かせない。湖に落ちない限り、戻ろうにも戻れないのだ。


 二階も、大して変わらない造りだった。操舵室がない分、人が座れるスペースが広いだけである。


 しかし、リースはある違和感を覚えていた。


 視界がザラザラとしているのだ。モノクロなので分かりづらいが、古いビデオでも見ているようなノイズが、たまに自分の視界を邪魔してくる。


 目を擦るが、それは鬱陶しく目に張り付いて取れなかった。瞬きをしても同じことだ。


 自分の手のひらや、遠くの景色を見ても黒い粒がパッパッと点滅し、横に線が入ったりと騒がしい。


「なんなんだよ」


 リースは舌打ちして、三階デッキに上がった。今度は更にノイズが酷くなった。もしや、と二階に戻ると、最初に感じたくらいのノイズの具合である。


 階を増す毎にノイズが酷くなっているのだ。三階は、歩行に支障を来すくらいの酷さだ。上を見上げると、まだ階がありそうだった。


 安全な超常現象と聞いていたのだが。やはりそれは外見の情報だけだったのか。


 ついに自分も殉職する時が来たのだ。思えば、ウィルも、「一人で乗り込め」など怪しいことを言っていた。彼はこの超常現象の危険性を理解していたのだろう。


 リースは二度目の舌打ちをした。


 こんな不真面目で、助手に居場所を奪われているような人間がB.F.に残っていたってしょうがないだろう。喜んで殉職してやろうじゃないか。


 リースは覚束無い足取りで階段を踏み込んだ。三階を超え、四階に辿り着いた時、ついに視界の全てがノイズで埋め尽くされた。真夜中のテレビのようだ。不思議なのは、ノイズ音が全くないということだけ。


 しかし不思議なもので、視界がこれだけ煩いとホワイトノイズの幻聴が聞こえる。


 自分が今どの方向を向いているのか、そもそも本当に生きているのかすら、リースにはわからなかった。


 *****


 父が台所で皿を洗っている。母が入院して、父が家事の大半を行うことになった。まだ小さな妹と弟の世話は、リースが引き受けている。


「父さん、ミラがおしっこした」


 妹のオムツがパンパンに膨れているのに気がついて、リースは父の背中に報告した。


「服までいった?」

「いや、オムツだけ」

「じゃあ、リビングの棚の一番下に、オムツあるから。頼んだよ」


 リースはリビングに戻って、棚を覗く。キャラ物のオムツが並んでいる。妹はソファーの上で突っ立っていた。濡れて気持ち悪いのだろう、今にも泣き出しそうである。


 弟の方は、テレビで車のアニメを見ていた。口がパカッと開くのは、集中している時の彼の癖だ。


「ミラ、おいで」


 リースが呼ぶと、ミラはソファーから降りてたどたどしい足取りで近づいてきた。そして、兄の手の中にあるオムツを見るや否や、堰を切ったように泣き出した。


「これじゃない」


 拙いミラの言葉を繋ぎ合わせると、そういう意味らしかった。

 弟が煩わしそうに此方を見るが、リースはオムツの入ったカゴを棚から引き出すのに必死である。オムツはそれぞれ違うキャラクターが描かれていた。


 リースが最初に妹に差し出したオムツには、ゴリラの絵がプリントされていた。


「これは?」


 今度はうさぎの絵のオムツを差し出すが、泣き声は更に大きくなる。その後も順番に彼女の前にオムツを差し出したが、泣き声は増すばかりだった。皿洗いを終えた父がリビングに入ってくる。


 そして、全てを察したようだ。


「ああ、そっか。これじゃないんだっけ」


 彼はゴミ箱に捨てられていた、オムツがもともと入っていた袋を取り出す。袋には「アニマルフレンズ」とポップな字体で書かれている。その下には、オムツにプリントされていたキャラがずらりと並んでいた。


 リースの記憶が正しければ、ミラがよく履いていたのはあの袋のオムツではなかったはずだ。もっとキャラクターの数は少ないし、もっと万人受けしそうな動物たちだったはずだ。


「商品名、ママに聞くの忘れちゃったな......」


 父は苦い顔をしている。そして、カレンダーを見た。明日は水曜日。水曜日は毎週、母のお見舞いの日と決まっている。


「明日、聞きに行こうな」


 リースの頭に、大きな父の手が乗った。重くて、温かくて、湿っていた。


 *****


「そうですか、ではその日に......ああ、いえ、私は今から会議がありまして......はい、すみません」


 先輩が壁の固定電話を手にして、誰かと喋っている。おそらくブライスだろう。ナッシュかもしれない。


「はい、失礼します」


 先輩が電話を元の位置に戻した。


「ごめんな、リース。来週の土曜日に実験入った。たぶん人が足りない系だから、お前も参加ってことにしておいたよ」


「構わないです」


「良かった。実験は朝の十時からだって。たぶん、丸一日かかるな。事前の顔合わせ会が今週の金曜日に入ったから。カレンダーに書いといてくんないか」


 彼はドタドタと忙しそうに、机上の書類を掻き集めている。彼は、会議に出る直前だった。カレンダーは、机上で分厚い資料の風圧に負けて倒れている。


「わかりました」


「じゃ、会議行ってくるな。それだけよろしく」


「はい」


 扉が閉まった。先輩の机に近づく。嵐が去ったような机の上から、ボールペンを探し出した。カレンダーを掴んで、今日の日付を探す。二十三日、火曜日。


「今週の金曜日に会議、と」


 どの会議室なのか、何時からなのかは分からないので、空白にしておいた。

 続いて、次週の土曜日をペン先で探す。「午前十時から実験」と書き、ペンとカレンダーを置いた。


 *****


 煙が肺の奥の奥まで入り込んでいる。咳き込む気力も無い。視界はほとんど真っ暗で、音だけは鮮明に聞こえている。人が走る音。ジャリジャリと何かを踏みつける音だ。何度か爆発があったのだ。激しい衝撃で、地面が揺れた。


 意識が戻ったのだろう。戻らなくても良いのに。


 下半身がぼんやりとしている。厚ぼったいスキーウェアでも履いているような感覚だ。これは、もう足が使い物にならないかもしれない。車椅子だろうか。松葉杖なんて、生易しいものではもう無理な気がする。


 右手と左手は辛うじて動くらしい。動いたとて、何をすれば良いのか。自分の足を潰している瓦礫を退ければ良いのか?


 リースは手を動かそうと努めた。しかし、意外にも動かない。怪我をしているらしい。感覚があるのは、手のひらだけだと気づく。


 神経がやられたのかもしれない。


 なぜ、こんな状況で意識など戻るのだろう。


 目がおもむろに見えるようになると、白い壁が煤で真っ黒になっているのが確認できた。爆発が起こったのはかなり近かったのだろう。近くに武装した男が倒れていた。彼らの侵入が、施設をこんな有様にしているようだ。


 男は死んでいる。顔が見えないが、背中が上下していないところを見ると、息絶えているのだろう。


 視界の更に端の方には、白衣らしいものも見える。此方はB.F.研究員だろうか。知り合いじゃなければ良いが。此方もまた、うんともすんとも言わない。


 自分もそうでありたかった。死んでしまえば楽なのに。


 今ここで敵に見つかって拷問でもされる方がよっぽど苦痛だ。


 ジャリジャリと音が近づいてくる。敵なのか味方なのか分からない。


 リースは目を閉じようとしたが、上手くいかない。瞼を閉じれているような気もする。しかし、見えているということは、目が開いているということなのだろう。


 目を開けて死ぬ人間だっている。呼吸さえ止めておけば、バレないだろう。


 足音が止まった。視界には入らないが、顔のすぐ側にそれは居るようだ。


 口から息が漏れる。口元の細かい砂埃を飛ばす。死がすぐ近くに迫っている。こんな感じなんだなあ、と不思議な気持ちになる。


 天使だとか、死神だとか見えるものだと思っていたが。


 もしかして、今隣に立っているのが死神か。


『おい、状況を説明しろ』


 酷いノイズに混じった男の声がする。無線通信だ。ブライスの声ではない。やはり、敵だ。


 頭を撃ち抜かれるのだろうか。さっきから、激しい銃撃戦の音がしていたのだ。撃ち抜かれただろう研究員の遺体をいくつも見てきた。


『応答しろ、おい』


 ノイズの向こうに苛立たしそうな、男の声。少年のように若い声だ。


 情報共有は大事だ。返事くらいしてやれよ。


 そう思った時、ノイズがピタリと止んだ。無線が切られたらしい。


 そして、顔のそばに何かが降ってきた。迷彩柄だった。誰かの膝だった。


 スキーウェアが脱がされていく。下半身で止まっていた血が、じんわりと脳みそに向かってくる。


 いつかの昇格試験の事前講習で得た知識を思い出す。瓦礫で長く血が一箇所に滞っていた時、救助されたとしても数時間後に命を落とす可能性があること。


 クラッシュ症候群って言うんだっけ。


 走馬灯がこれか。


 *****


「リースさん」


 気がつくと、リースは桟橋に倒れていた。目の前に助手が跪いている。


「大丈夫ですか」


 目が開いたと分かると、彼は安堵して笑っている。


「良かった。目が覚めなかったらどうしようかと」


 顔を動かして周囲を確認すると、例の船は無かった。空が茜色に染まって、山の緑も染まっている。色がある。リースは大きく息を吐いた。


「俺、どうなってました?」


 助手に目を戻す。


「遊覧船が戻ってきて、リースさんが降りてきました。でも、桟橋に足を着くとすぐ意識を失ってしまって。なんだか、夢遊病のようでした。何を言っても反応をしませんでしたから」


 たしかに、夢を見ていたような気がする。

 リースは断片的な記憶を辿り、それをウィルに共有した。彼はすぐにボイスレコーダーを用意し、記録を始める。


「なるほど、全て火曜日に関する記憶のようですね」


 話を聞いた彼は、ボイスレコーダーを白衣のポケットにしまって言った。


「みたいですね......でも、覚えていないようなものばっかですよ。現象が作り出した偽の記憶かもしれませんし」


 弟と妹が居るのは本当だ。リースが五歳の頃、母が手術で一ヶ月家を空けていたのも本当だ。

 たしかに、妹の面倒を見るのは当時のリースの仕事だった。


 かつての先輩との仕事の話は記憶には無いが、研究員生活の何気ない一場面である。


「最後のは......」


 リースは、自分の右足に触れた。きちんと感触がある。


「あの日も、火曜日でしたね」


 ウィルが目を細めた。


「世間にあれだけ情報が出てちゃ、曜日まで分かっちゃいますよね」


 正直、リースは曜日までは知らなかった。メディアは日付と爆発発生時刻だけを忠実に守って放送している。


 カレンダーを見れば、きっとあの日は火曜日だったのだろう。


 どの記憶も、有り得そうなものではある。覚えていない個人の過去を、その人に甦らせる超常現象なのかもしれない。


「体調の方は大丈夫ですか」

「ええ」


 リースは頷き、立ち上がった。上手く足に力が入らない。記憶を引きずっているのだろうか。


「......置いてかれたのかと思いました」


 リースは、船で思ったことを伝えた。ウィルが微笑んで、体を支えてくれる。


「そんなわけないでしょう」


 車に戻りましょうか、と彼は歩き出す。リースも、彼に体重を預けて歩き始めた。


 クラッシュ症候群、と頭の中で言葉が蘇る。


 瓦礫から救助されて、三年と数百時間。


 自分はまだ生きている。

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