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Black File  作者: 葱鮪命
201/211

File089 〜神様の手〜

 目覚ましを止める手がだらん、と下がる。すると、壁越しにドンッ、と鈍い打音がした。

 手が再び目覚ましを探す。煩わしい音が去って、部屋には朝の鳥のさえずりが響き始めた。


「うー......」


 赤い髪が毛布の奥の方に戻っていく。一度起きはしても、体を起こすまでに時間がかかるのだ。

 起きて一番に何をするかを考えたり、出社後にするべきことを考えたりするので、頭の方は案外目覚めは良い。


 小鳥のさえずりに混じって、遠くの方で救急車のサイレンが聞こえた。

 大きな病院が複数あるノースロップでは、毎日どこかしらで救急車が走っているし、たまに医療用のヘリコプターも飛んでいる。遠くからの患者も此処へ来るのである。


 救急車は、かなり近い場所で停まった。もしかしたら、カーテンを開けたら見られるかもしれない。それくらいの近さだった。


 バレット・ルーカス(Barrett Lucas)は、そこで体を起こした。枕側の窓にかかっているカーテンを薄く開ける。


 今日は薄曇りで、太陽の仄かな光が街全体をぼんやりとした輪郭にさせている。その中で、目に飛び込んでくる物々しい光の点滅。


 やはり、向かい側のアパートである。救急隊がアパートの外階段を、担架を持って上がっている。二階が目的地らしい。他の部屋から、そしてバレットの居る建物でも、ベランダに出て皆が野次馬になってその光景を見守っていた。


 救急隊が部屋の中に消えると、その後はなかなか動きがなかった。気にはなるが、時間は待ってくれない。


 朝食として買っていたスーパーのパンを咥えながら、バレットは急いで着替える。

 洗顔も歯磨きも全部B.F.でできるので、トイレと着替えさえ済ませておけば移動はできる。

 最低限の準備だけして、あとは空腹を満たせたら此方のものだ。


 バレットが部屋を出ると、廊下の端の方に二人の男性が集まって話していた。


「随分長いこと病気を患っていたそうだ」

「肺だったか? 昔から悪かったもんなあ。気の毒なことだね」


 扉を閉める音で、彼らは此方に気がついたらしい。そのうち一人は、「あっ、君」と、今から出ようとするバレットを指さした。


「困るよ、朝からあんなに長く目覚ましを聞かされちゃ。こっちはとっくに起きてるんだ。壁が薄いんだから、早く止めてくれよな」

「すみません」


 バレットは素直に謝って、小走りで廊下を駆け抜けた。一瞬、自分の隣の部屋の扉に目をやったが、しっかりと鍵がかかっていて、留守だった。


 *****


「えーっと、会議がひとつあって、報告書が......」


 此処はバレットのオフィス。背を向けるようにして相棒のデスクが置いてあるが、彼は此処一週間、外部調査やら何やらでB.F.には来ていない。


「げっ、会議もう一個あるっ......!」


 昨日の自分が残したメモ書きを見つけ、バレットはブツブツと文句を垂れながら、今日の資料を用意し始める。


 最近見つかった現象の、保管方法についての会議である。

 小さな会議室で行われる小規模の会議だ。参加人数は五人程度で気を張る必要は無いのだが、事前情報は頭に入れておく必要がありそうだ。


 研究員ファイルから資料を取り出していると、電話が鳴った。


「もしもし、此方バレット・ルーカス」

『あっ、バレットさん! ぼ、僕です、キエラ・クレインですっ』


 バレットは椅子から腰を浮かせた。彼の声に緊迫したものを感じ取ったのだ。


「どうした!?」

『B.F.の前で、ひ、人と車の接触事故が_____』


 バレットの目の中で、朝見た向かいのアパートの景色が蘇った。


「すぐ行く! 救急車呼んで!」


 バレットは電話を切って、オフィスを飛び出した。


 *****


「だ、大丈夫でしょうか......」


 キエラは出社しようとしていたところだったらしい。B.F.のエントランスに入ろうとした時、背後で人の悲鳴と車のクラクションが響き渡ったのだそうだ。


 事故が起こったのは、B.F.の目の前にある交差点。赤信号を無視して侵入した車が、歩行者を轢いたのだ。クラクションを鳴らしたのは、信号で止まっていた別の車で、危険を知らせるためだったのだと言う。


 轢かれたのは若い男性だった。頭を強く打ったのか、救急車が到着しても意識はなく、既に絶命しているようにも見えた。


「ショッキングな出来事だし、あんまり見ない方が良いかもな」


 バレットはキエラの方を軽く見た。救急車を呼んだのは彼だった。救急隊に事情を話し、他の研究員もまた目撃者として話をしていた。


 昼頃まで、B.F.の前には野次馬が耐えなかった。

 B.F.という特殊な会社の前で起こったこととして、色のついた視線が研究員たちを追いかけるので、彼らはその日、エントランスにはなるべく降りないようにした。


「事故ねえ、大丈夫かなあ」


 ジェイス・クレイトン(Jace Clayton)が会議からの帰り、エントランスが見える廊下で立ち止まる。隣にはバレットとキエラも居た。


「車の方はかなりの速度が出ていたと聞きましたし、打った場所が悪いとなると、結構最悪かもしれないですね」


 バレットが言うと、ジェイスは「そっか」と頷く。


「会議の前まではその話で持ち切りだったよねえ。キエラ、事故の目撃者だったんだって? 今日はもう帰って、休んだら?」

「いえ、大丈夫です。瞬間は見てないんです」


 キエラはそう言っているが、アホ毛に心情が出ている。今日は元気に振られる姿を見ていないのだ。


「そういや、今朝も俺の家の近くで、救急車で運ばれた人が居たよ」


 ジェイスがぽつりと言った。


「奇遇ですね、俺もですよ」

「バレットも?」

「はい、お向かいさんです。近所の人の話じゃ、持病があったみたいですけど......」

「そっか。俺の方は若いお姉さんって聞いたなあ。何だか続くねえ」


 ジェイスは首を傾げ、キエラもしょんぼりしている。空気が何処と無く重いので、バレットは何か他の話題を探した。


「そういやあ、最近は人も居ないんで忙しいですよね。エズラは外部調査で居ないし......朝ごはん、パン齧っただけになっちゃいました」

「ええっ、朝はちゃんと食べた方が良いよ」

 ジェイスが大きく反応をくれる。キエラを気遣ったのだ。


「俺なんか、今日は腹はち切れるくらい食べてきたんだから。ベーグルでしょー、オレンジでしょー、グリーンサラダに、プロテイン、カフェラテ......」

「キエラは? やっぱコーヒー?」

「いえ、僕は今日寝坊しちゃって......」


 はにかんで笑うキエラのアホ毛が、へにょんと恥ずかしそうに曲がる。


「ダメだなあ、二人とも」


 ジェイスが首を横に振ったところで、バレットの携帯がけたたましい音を立てて鳴った。


「うおおっ、忘れてた!! 会議あるんだった!!」


 それは、会議のメンバーである研究員の一人からだったのだ。開始時間を五分も過ぎていた。


「すんません、俺行かないと!!」

「頑張ってねえ、お昼ちゃんと食いなよお」


 ジェイスの声を背中に聞いて、バレットは走りながら頭の中の資料を引っ張り出した。


 *****


「じゃあ、今度は右腕をあげてみてくれる?」

「こうかしら......」

「ええ、そのまま十秒キープしてね」


 此処はノースロップにある小さな診療所。診察室には看護師の女性と、女医が一人。そして、患者らしい老いた女性は、ベッドに腰掛けて女医の触診を受けていた。


 患者の腕の上がり具合を見ていた女医の顔が曇る。


「ふーん、ここまでしか上がらない?」

「ええ」

「前よりも上がってないわねえ」


 女医のベティ・エヴァレット(Betty Everette)は小さくため息をつく。


「紹介状を書くから、もう少し大きな病院で診てもらうべきだと思うわ」

 ベティは患者の腕を下ろさせて、自分の後ろに居る看護師に細かな指示を出した。


「信頼のできる先生を紹介するから、安心してください。それに、まだ大きな病気と決まったわけではないですし。断定するには早すぎるわ」


 それでも、患者の顔は晴れない。


 彼女はここ最近、上半身のあらゆるところに痛みが出始めたのだ。

 初めて診療所の扉を叩いたのは、今から三ヶ月前。その頃は右肩にちょっとした違和感があったのだが、月を跨ぐごとに痛みも範囲も大きく広くなっていった。


「はい、これを持って次の病院に行くのよ。大丈夫、そこの先生は信頼できるから」

「わかったわ......」

「今年、お孫さんが生まれたんですってね? なら、元気な姿を見せてあげなきゃ。孫の成長を見るって素敵なことよ」


 その言葉で、彼女の心は決まったらしい。顔に光がさしたのだ。


「わかったわ。頑張ってみる」

「ええ。何かあったら電話をくださいな。いつでも待ってるわ」


 女性が出ていき、ベティはカルテに書き込みをする。裏に行っていた看護師が戻ってきた。彼女はニキータ・ワイマン(Nikita Wyman)、ベティの助手の女性看護師だ。


「大病じゃないといいんですけど......」


 ニキータの目は、患者の出ていった扉に向けられる。


「人間の生きる力を信じなさいよ。ああいう人が長生きすんのよ」


 ベティは言って、カルテをニキータに押し付けた。ファイリングしろ、という意味である。ニキータは慣れた様子で受け取って、ファイルの棚に向かう。


「次の方ー」


 外でベティのもう一人の助手、ジャック・チャットウィン(Jack Chatwin)が次なる患者を呼ぶ声がした。


 扉が開いて、中年の男が入ってくる。


「やあ、先生」

「あらっ、ベンジャミンさん。一昨日ぶり_____って、は?! なんで、外に出てきてんのよ!? 一ヶ月安静にしてるよう言ったじゃないっ!」


 中年の男は、淡色のセーターを着込んで、照れたような笑みを浮かべてベティの前に現れた。彼は数日前に大怪我をしてこの診療所に運ばれてきたのだ。


 この診療所では彼を診るのは難しく、すぐ救急車で大きな病院へ運んだのだが、彼には一ヶ月、ベッドから出ないという約束がしてあったはず。

 それなのに、彼はベッドから起き上がった上、歩いて此処まで来たのである。


「いやあ、どうも奇跡が起きたみたいでね。今日の朝起きたら、何もかもすっかり良くなっちゃって。でも一応、ベティさんには報告を......」

「死んでもおかしくない怪我だったのよ!? ちょっと見せなさい!!」

「うわあっ、そんな大胆な!」


 ベティがセーターを掴んで捲りあげるので、患者の男は顔を真っ赤にした。もとより彼はベティに惚れていた。


「嘘よ、そんな」


 ベティの声を聞いて、ニキータも後ろから覗き込む。たしか、数日前にはそのへその横に大穴が空いていたのだ。それが、今や手術痕すら見当たらないほど綺麗すっかり治っているのである。


「アンタ、本当にベンジャミンさんなの?」

「そうですよう、言っているじゃないですか。今日の朝起きたら......」

「ありえないわ!!」


 ベティの声は、きんきんと響いた。


「だって、アンタ......此処にあった傷は!?」

「僕だって何が起こってるか分からないんですよう......だからこうして、来たんじゃないですか。でも、事故にあったときは死ぬと思いましたね」


 そう、彼は生死の間をさまよったのだ。ベティが診療所で彼の姿を見た時、最悪の事態も覚悟したくらいだった。

 ニキータは狐につままれたような顔をして、ベティの後ろから彼を観察していた。


「こんな人間居るはずないわ。全治いくらかかると思ってんの!?」


 患者の男は、ベティの顔とニキータの顔を交互に見ている。さすがに、この状況が異常だと分かったようだ。


「でも、もう良くないですか? 治ったんだし......」

「いいえ、心配すぎるわ。もう一度病院で検査を受けてらっしゃい」


 ベティはセーターから手を離して、すぐに書類を用意し始める。


「ええっ、だって、何ともないんですよ」

「何ともないのが変だっつってんのよ!」


 苛立たしそうにペンを動かし、稲妻の如き速さでそれを書き上げると、彼女は患者の鼻先にそれを突きつけた。彼は納得のいかない様子でそれを受け取る。


「変な薬でも飲んだの!?」

「いや、そういうわけじゃないけど......」

「じゃあ、どういうわけなのよ!!」

「とにかく、死ぬのが嫌だったから思いつく限りの方法は試したんだよね......神に祈ったりさ」

「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ。あんたは今度、違う意味で患者になるかもしれないわ」


 ベティがこめかみを抑えて溜息をつく。


 男はまだ何か言いたげだったが、手にある書類は、既に彼が次行くべき場所を指し示していた。待合室に居る人間のことも考えると、これ以上健康な人間が仕事の邪魔をするわけにはいかないだろう。


 彼が帰ると、ベティはまだこめかみを抑えたままだった。


「な、なんだったんですかね......」


 ニキータは、まだ信じられない様子である。ベティだってそうだ。


「これは、何か怪しい匂いがプンプンするわね」


 ベティが言うと、次の患者が入ってきた。


 *****


「はー、終わったあ」


 バレットは研究員ファイルをパタンと閉じた。今日だけで指一本分の厚みが増したような感覚である。

 椅子にもたれかかると、椅子も悲鳴を上げて疲労を叫んでいる。


 いつもならば「うるさい」「こっちも手伝え」という相棒の声が、今日は時計の針が進む音だけだ。バレットは椅子に頭をもたせたまま、ぼんやりとシャットダウン後のパソコンを見つめていた。


 ふと携帯電話を取り出し、相棒からのメッセージを確認するが、メールは一件も来ていなかった。そのままネットサーフィンに移ったところで、ある記事が彼の指と目を止めた。


「死の淵から奇跡の生還......トラックに轢かれて、翌日に無傷で退院?」


 それは奇妙な記事だった。ノースロップで起こったある交通事故についての記事である。

 一昨日、大型のトラックが交差点に信号無視で侵入。横断歩道を渡っていた大人二人が跳ねられたそうだ。一人は即死、もう一人は何とか一命は取り留めたそうだが、意識が朦朧としてほとんど会話も出来ない状態だったらしい。


 しかし翌日、看護師が部屋に入ると、彼の怪我は綺麗さっぱり消えていて、喋ることも歩くことも通常通りできたのだという。


 異常な奇跡だった。奇跡と呼ぶには、現実離れの域を超えている。


 その時、オフィスの扉がノックされた。ビクッと顔を上げると、キエラがひょっこり現れた。


「あ、バレットさん......すみません、遅くに」

「いや、大丈夫。どうかした?」

「えっと......ちょっと気になることがあったんです。これ、見てください」


 キエラが差し出してきたのは携帯電話だった。偶然だろうか、彼もまたネットのニュースの画面を開いていた。

 しかしそれは、バレットが直前まで見ていた記事とは少し異なっている。


「今朝の九時にノースロップ中央通りの交差点で......ってこれ、今朝、B.F.の前で起こった事故か?」

「はい、重要なのはその後の方に書いてるんですが......」


 スクロールすると、そこにもまた、もうひとつの奇跡が書かれていた。


「被害者は一命を取り留めた。それどころか、病院に運ばれるまでに怪我が完治_____えっ!? だってあの人、キエラが呼んだ救急車が到着する頃にはほとんど意識無くて......」


 バレットも、運ばれていくところは見たのだ。重症だった。もしかしたら助からないかもしれないと、彼処に居る者が密かに思ったくらいには。


「超常現象ですかね......」


 キエラが眉を顰める。


「うーん、でも、たしかに変な話だもんな」


 バレットはキエラに携帯を返した。


「とりあえず、その人に話を聞いてみようぜ。たぶん、家に帰っただろうし......いや、病院が不審がって無理にでも入院させてるかもしれないけど......」


「取り敢えず、僕が電話して聞いてみます」


 キエラはそう言って、オフィスを出ていく。バレットも帰り支度を進めた。


 *****


 家に戻ったバレットは、自分のアパートのエレベーターのボタンを押すや否や、ふと今朝ベッドから見た光景を思い出した。朝の光の中で点滅していた救急車のランプ。


 降りてきたエレベーターが扉を開けても、バレットは乗り込もうとはしなかった。そのまま踵を返して、アパートの敷地から出たのである。


 向かったのは、自分の部屋から見えるアパート。


「たしか、二階だったな」


 ベルを押すと、出てきたのは中年の女性だった。中肉中背で、健康的な体つきである。肌ツヤもあって、病気を患っているようには思えなかった。


「夜分遅くにすみません。少しお聞きしたいことがあるのですが_____」

「病気のことかしら」


 彼女はすぐにピンと来たようだった。バレットは少しまごついた。


「今日だけで八人に聞かれたんだもの。正直、私にも何が起こったのかはよく分からないのよ」


 彼女は若緑色のセーターの裾を気にしながら、バレットを見上げる。


「では、病院に運ばれた時はどのような容態だったのかだけでも、お聞かせください」

「もともと肺が悪いのよ。月に一度くらい、すごく痛む日があってね、呼吸が苦しくなるの。あまりそういうことはないんだけど、今日は立ち上がれないくらい痛くて。一人暮らしなものだから、死んでも他に誰もいないし、助けてくれる人も居ないでしょ。だから救急車を呼んだの、死ぬ前にね」


 彼女は小さくため息をついた。


「怖かったわ。初めて、死ぬ気がしたんだから」


「いつからご病気に......」


「三年前よ。母の家系が同じ病気で、若くして亡くなってるの。母は私が高校生の時に他界したのよ。あと四年で、私も母と同じ世界に行かないとならないの」


 バレットが返す言葉に困っていると、彼女は「でもね」と突然明るい声を出した。


「今日、肺の検査が病院で行われたんだけれど、病気の進行がピタリと止まったんですって」

「え......?」

「それどころか、あと一年もすれば元の肺に戻るかもしれないの。不知の病と呼ばれた病気よ、医者も顎が外れるくらい驚いていたわ」


 ぷっと、彼女は今度吹き出した。今まで漂っていた暗い空気は、全て彼女の演技だったのだ。バレットは唖然と立ち尽くす。


「だから、もう心配はいらないの。四年で死ぬなんて嘘。死ぬもんですか。十年でも二十年でも、百年だって生きてみせるわよ」


 去り際に残した彼女のウインクには、何かおかしな色が混ざっていた。バレットは黙って自分の部屋に戻った。まだ相棒の部屋には明かりもついていなかった。


 *****


「俺のところも、三日で退院したみたい。すぐに治って、元気に働いてるって話だよ」


 あれから数日後、食堂で会ったジェイスと共に、バレットは昼食をとっていた。


 ジェイスもまた、バレットと同じ日に家の近くで救急車に運ばれた者を見たのだ。

 彼の方でも聞き取りをしたらしかったが、やはり健康体で戻ってきたらしい。


「運ばれた先の病院に凄腕の医者が居るか、超常現象か、ってところだろうね」

「そうですね、まあ、後者なんでしょうけど......」


 バレットはトマトスープを啜った。


「でもさあ、変な話なんだよなあ」


 ジェイスは首を傾げている。


「あんなに綺麗に完治するんだったら、病院に入院する患者なんて、減っても良いはずなのに」


 バレットはジェイスとの間に自分の携帯電話を置いていた。その画面には、バレットが見つけた交通事故のニュース_____二人の男性が巻き込まれ、一人は命を落とし、もう一人は無事だったというあのニュースが映っている。


 ジェイスはそれを一通り読んだのだった。


「何か条件があるのかもしれないねえ」


「条件ですか......」


「もう少し詳しく調べたいけど、残念ながらみんな曖昧な記憶しか残ってないみたいだし」


 そうなのだ。バレットが尋ねた彼女も言っていた。


 _____正直、私にも何が起こったのかはよく分からないのよ。


 あれは演技ではない。去り際にもまた同じことを言っていたのだ。

 ジェイスの方でもまた、そうだったようである。思い当たることは何もない、と言った回答を貰ったそうだ。


「ま、しっぽ出すのを待つしかないさ」


 ジェイスはぐっと背伸びをした。


「そうですよね。悪いことは、してないですもんね......」


 バレットは頷き、バゲットをトマトスープに浸した。じわじわとスープが染み込む。血のようだ、とバレットは思った。


 *****


「ボランティアというのは素晴らしい行いです」


 ある、午後の授業。子供たちは昼食後の眠たさの中、女性教師の話に耳を傾けていた。


「社会との繋がりを感じ、創造性を育むにはピッタリの活動です。この授業では何度も話してきた通り、皆さんにボランティアの大切さを感じてもらいたいのです」


 それぞれの手の中には配布されたプリントがあるが、既に教師から見えない位置に座る子の手によって、紙飛行機や落書き用紙に変わっていた。


 ポージー・モフェット(Posie Moffett)もその一人だった。

 羊の毛のようなカールを巻いた髪の毛は、落書きをしている自分の顔に何度も落ちてくる。慣れた様子でそれを掻きあげて、紙に描かれた羊の群れを木の柵で囲んでいた。


「それじゃ、何か素晴らしい奉仕活動をしたことはある人?」


 ポージーは、まだ余裕があるな、と思った。羊を、あと三頭は描けそうだ。


「はい、ジミー」

「落ち葉拾いと、児童書の読み聞かせ、それから祭りの準備をしたことがあります」

「素晴らしい。みんな聞きましたか? 彼は三つも素晴らしい活動を行ったことがあるそうです。他に......はい、ポット」


 ポージーは思った。子羊も付け足そう。近くに母親が居るのが良いだろう。じゃあ、雌の羊の近くに_____雌羊ってどれだろう。雄とは何か違うのかな。


 ポージーが子羊の場所を決めかねていると、


「ねえ、ポージー」

「ん?」


 ポージーは顔を上げた。それは、グループ席になった際、斜め前に座っている女子だった。アーリンだ。


「見て、魔女が喋るよ」

 アーリンは悪い笑みを浮かべて、親指で自分の後方を指した。


 ポージーはそっと彼女の背中の方を見た。黒髪の少女が居る。たしかに、今から喋ろうとしているようだ。


「レイシーは、どんな素敵な奉仕活動をしたことがあるのかしら」

「......」

「まだ無いかしら?」

「......」


 沈黙を破るように、誰かが叫んだ。


「黙っててもできる活動があると良いね、レイシーッ!」


 クラスが笑いに包まれた。

 特に大きな声で笑ったのは、アーリンだった。


 ポージーはハッとして、顔に引きつった笑みを浮かべた。先生が「こら」と周りを叱る。ポージーはすぐに表情を戻したが、まだクラスの大半は笑っていた。


「レイシー、ありがとう。奉仕活動はあくまで自主性が大事なの。自分でやろうと思わないとね。私が強制することじゃないから、好きな時間に、自分に合ったものをするのが一番。少しシャイなあなたでも、ピッタリ合うものがあるはずよ」


 ポージーは、そっとレイシーを見た。彼女は俯いて、此処からでは顔が見えなかった。華奢な肩が小さく震えているように見えた。


「この中にきっと、ボランティアをしたことが無い人も居るでしょう」


 生徒の意識を戻すため、女性教師は手をパンパンと叩いた。


「これから宿題を出します。皆さん、自分で何か一つボランティア活動をしてみましょう。学校の中にはポスターがたくさん貼ってありますし、この学校のボランティアセンターに行けば沢山の活動を紹介していますよ」


 ポージーは羊を描く遊びに戻っていた。ちょうど良いスペースを見つけたのである。ここならば、あと二匹押し込めそうだ。大きい羊と、小さい羊。


「もちろん、インターネットで調べるのも良し。とにかく、来月までに一つボランティアを選んで参加し、そのレポートを書いて提出してください」


 終業のチャイムが鳴った。

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