追跡者
その日、目を覚ましたルネ・プラント(Rene Plant)は、目覚ましが鳴って十五分も経ってから、もぞもぞとベッドから起き上がった。白いシャツに腕を通して、のろのろと仕事着に着替える。
朝食ができたという母の話を半ば聞かず、洗面台で顔を洗って、歯磨きをする。髪をひとつに結び終えると、そのまま家を出た。
携帯電話を開くと、着信が三件。顔を上げると、向かいの家は既に留守のようだった。ハドリーの家は両親共働きで、朝早く留守になる。おそらく、ハドリーももう居ないはずだ。
ルネはバス停に向かって歩き始めた。太陽は既に高くのぼり始めている。
「......みんな、ガッカリするだろうな」
ポケットから、くしゃくしゃの封筒を取り出して、ルネはため息をついた。
*****
バスに乗ると、昨日見たような客はほとんど居ない。遅い時間ということもあるのだろう。病院が開く時間だからか、患者らしい人が大半を占めていた。
ルネはじっとバスの外を見つめた。オレンジ色の看板が目に入る。オレンジ色の靴を履いた人を目で追ってしまう。リュックサック、Tシャツ、靴下_____。
バスの停止ボタンが押されて、ルネはハッとした。慌ててバス停名を確認するが、まだ降りる予定のバス停ではなかった。
病院の最寄りのバス停である。想像通り、大半の客はそこで降りていく。寂しくなっていく車内で、ルネは再び窓の外に目をやった。冬がもう間近に近づいて、いよいよ雪の予報が来週に入ったところだ。
クリスマスのオーナメントがところどころに見える。
オレンジ色のプレゼントボックス、オレンジ色の靴下、オレンジ色の_____。
その時、ルネの視界に映りこんだ人物が居た。それは、三つ離れたバス乗り場で、バスを待っていた。
そのバス乗り場には、乗客が「彼」と、もう一人しか居ない。田舎に行くバスなのだろうか、随分と少ない乗客だ。それとも、もうバスが行ってしまったのだろうか。
すると、ロータリーに新たなバスが入ってきた。ルネは次の瞬間、席から立ち上がっていた。ルネのバスでは、最後の客が降りたところだった。
「発車します」
「お、降りますっ!!」
通路を駆けていく音に気がついたのか、運転手は怪訝な顔でルネを待ってくれた。料金を押し付けるようにして、ルネはバスを飛び降りた。視線を巡らせると、あのバス乗り場に新しいバスが到着したところだった。
「彼」はそれに吸い込まれるように、消えていく。ルネは追いかけようとしたが、客が二人しか居なかったので、そのバスの扉はすぐに閉まってしまった。
ぼんやりと立ちつくしているうちに、バスは出発してロータリーを出て行った。
「......」
立ち尽くす彼の真後ろでも、扉が閉まった。B.F.行きのそのバスもまた、発車してしまった。
*****
「あっ、もしもし、ルネか?」
ハドリーは昼休みを利用して、幼なじみに電話をかけた。午前中は資料作りと報告書作り体験、午後には明日の実験に備えた座学講座がある。特に午後は、ルネが楽しみにしていたものだ。なのに彼は、今日は一度も顔を出していない。
「なあ、そろそろ始まっちゃうぜ。別に無理やり助手入りする必要なんか無いんだからさ、気軽に受けに来いよ。俺が助手入りした先輩に事情を説明したら、一緒に助手にしてやるってさ。ラッキーだぜ。優しいんだ、俺の先輩」
ハドリーは買ってきたサンドイッチを齧った。
「勿体ねえよ、折角の機会なんだから。B.F.研究員になるんだろ? お前、ずっと夢だって言ってたじゃん。ボーナム先生、ガッカリするぜ」
しかし、電話の向こうは静かだった。
「ルネ?」
『......うん、でも今は、もう少し粘ってみる』
「粘ってみるって何をだよ? コナーさんを見つけたのか?」
うん、と電話の向こうで返事があった。
『病院の前のバス停で見たんだ。そのバスには乗り損ねちゃったんだけど......でもね、ハドリー。僕だって運が良いんだよ』
ルネの声は弾んでいた。昨日の暗雲のような表情は、感じられないくらいに。
『だってこのバス路線、バス停が三つしか無いんだもん』
*****
ルネは「レッドメイン行」の二つ目のバス停を下りたところだった。一つ目のバス停を降りた時、そこは都会の外れだった。周囲を歩き回ってみたが、橙髪は見当たらなかった。
次いで、二つ目のバス停を降りた。もう郊外とも言えない、田舎の風景が広がって来る。周囲に建物はほとんど無く、ここも外れらしい。
ルネは次のバスの来る時間を調べた。あと三時間後とある。次に腕時計を見た。もう午後一時を過ぎたところだ。ルネの腹がきゅう、と大きく鳴った。
「......帰ろうかなあ」
しかし、此処まで来たのだ。何の偶然かは分からないが、此処まで来られたのだ。
ルネはぼんやりと座っていたが、ふとある考えが頭に浮かんだ。別に、バスを待っている必要は無い。自分には足があるのだ。
ルネはベンチから立ち上がった。バスが消えていった果てしない道を見つめた。大きな道が一本、ずっと続いている。ほとんど車が通らないのは不安だが、しかし、彼はこの道を行ったのだ。もしかしたらもう帰った後かもしれないが_____それでも、彼はこの道をたしかに通ったのだ。
「よし」
ルネは歩き始めた。
あの日みたいだ、と思った。あの日も、こんなふうに心が弾んでいた。冒険は、いつも何気ないところから始まるのだ。
*****
街灯はずっと広い間隔を空けて立っていた。ルネはなるべく足元に気をつけて、次の街灯を目指して歩いていた。
空は徐々に光を失ってきている。闇がそこかしこから迫ってきている。
ルネの携帯は時々震えた。しかし、その回数は減っていく。電波が入らないのだ。
いつしか周囲は深い森になっていた。コンクリートの割れ目から何かが出てきそうだ。手入れもされていないのか、森は人間に奪われたものを取り返そうと奮起しているようだった。闇も彼らの味方らしい。ルネは時々草に足を取られて転びそうになった。
どのくらい歩いただろう。とにかく果てしない。
ルネは携帯を久々に開いた。腕時計はもう使い物にならない暗さだ。
デジタル時計は午後の五時を示している。
その時、ルネは視界の端に今までと異なる色を見た。闇の一部分に異なる闇があるのだ。森が作る暗さではない。
ルネはゆっくり顔を上げた。それは、錆びた鉄のフェンスだった。蔦が絡んで長いこと開けられていないようだ。まるで中世の城でもあるかのような、レンガ造りの立派な門だった。
ルネは足を止めてそれを見やった。こんな場所に人でも住んでいるのだろうか。
携帯電話のライト機能をオンにして奥を照らしてみると、庭が続いているのだろうか、白い敷石が続いている。見る限りかなりのお屋敷だが、人の気配は全くと言って良いほどない。
ルネはぶるっと震えた。
その時、遠くからエンジンの音がした。驚いて振り返ると、遠くからトラックがやって来る。ルネもよく知る有名な引越し業者のトラックだった。
それは、ルネが居る建物の前で停車した。窓が開かれて、そこから中年の男が顔を出した。
「兄ちゃん、こんな場所で何してるんだ!?」
トラックのエンジン音に負けないように、彼は大声でそう聞いた。
「あ、あの、人を探していてっ......」
「人だー? こんな場所に人なんて居ないよ。長いこと廃屋だからね、そこは」
「あ、いえ、此処とは限らなくて......」
その時、ルネはトラックのライトに照らされたある物を見つけた。バス停だった。終点が此処なのだ。
「あ、あの、此処以外に建物ってありますかっ?」
「いや、無いね。此処から先は本当に無いよ。俺は隣の街から来たんだ。今からノースロップに向かうところ。兄ちゃんはそこから来たのか?」
「そうです......」
「もう暗いから、帰ることをオススメするよ。バスはもう無いんじゃないかな。乗せていこうか」
ルネはぼんやりとトラックが今来た方を見つめる。
此処から先に建物は無い。
つまり、彼は_____。
「兄ちゃん。この辺りは森も深いんだ。人より動物の方が怖いんだから。悪いことは言わないから、乗っていきなさい。不安なら、人通りのある場所まで乗せていってあげるから」
「......ありがとうございます」
ルネはもう一度鉄とレンガの門を振り返った。
彼は此処に居るのかもしれない。
*****
「あの家はね、もう何十年も前に家主が亡くなったのさ」
トラックの運転手は、窓に肘をかけながら片手でハンドルを操作していた。
「すごく金持ちだったって話だよ。でも、主人が亡くなってからは右肩下がりに金が消えていって、結局、誰も居なくなっちゃって」
「建物はそのままにしてあるんですか?」
「みたいだね。もう持ち主も居ないと思うんだけど......でも、たしか、主人には子どもが二人居たって話だな。どっちかが所有してるんじゃないのかな」
運転手の話は、半分しか入ってこなかった。
コナーがあんな家に住んでいるとは到底思えない。あそこが実家なのだろうか。
ルネが黙っていると、トラックの運転手は様々な話をしてくれた。自分の家族の話や、仕事の話。これから向かうノースロップでは、大きな仕事があるそうだ。
ルネはそれを聞きながら、明日の予定を考えていた。
*****
「ありがとうございました」
結局、家まで送り届けてもらった。家の前で下ろしてもらい、トラックが去ったのを見届けて、ルネは自分の家の庭に入った。すると、
「転職先は引越し業者か?」
「ハドリー!」
家の垣根から顔を出したのはハドリーだった。
「待ってたの?」
「今帰ってきたんだよ。お前、B.F.は辞めて引越し業者に決めたわけ? やれやれ、ボーナム先生もびっくりだな」
「違うよ......」
ルネはどれから説明しようかと思ったが、特に言えるような収穫も無かったのだ。それより、今日ハドリーがB.F.で何をしたのかが気になる。
「まあ、それはお前の家で話してやるよ。おばさんが、俺にも飯作ってくれるんだってさ」
ルネは目を丸くした。
「母さんが?」
ハドリーは目を細めている。
「ったく、俺と一緒に帰ってくると思ってたみたいでさ、おばさん。口合わせ大変だったんだからな。いいか、優秀な研究員に助手に取られたおかげで、遅くまで実験に付き合わされました、ってことにしてあるから!」
ルネは笑った。
「ありがとう、ハドリー」
*****
次の日、ルネはハドリーと共に朝のバスに乗った。
「それで、今日は終点で降りるんだ?」
ハドリーはルネを見る。うん、とルネ。
「もしかしたら、あの建物にコナーさんが居るかもしれないんだ」
「どうだかなあ。だってそこ、誰も住んでないんだろ?」
「うん......でも、行くなら彼処だと思うんだ」
「さあ、森の方かもしれないぜ。B.F.辞めて、自殺とか_____」
ハドリーは言いかけて、止めた。
「まあ、暗くなる前に帰って来いよ。昨日みたいに運良くトラックのじいさんに拾われるってことは無いだろうから」
「うん、帰りのバスの時間は調べてあるから」
ルネはボタンを押した。病院最寄りのバス停に着いたのだ。昨日は此処で乗り換えたのである。
「じゃあ、頑張ってね」
「おう、なんか変な感じだけど」
本来なら、ルネもハドリーと同じ場所へ行かなければならない。しかし、今は此方の方が大事なのだ。
ルネはバスを降りて、例のバスの停留所へ向かう。そこにコナーの姿は無かった。
*****
終点では、ルネしか降りなかった。
「本当に此処で降りるのかい」
バスの運転手の言葉だった。ルネが頷くと、彼はルネの頭のてっぺんから足の先まで舐めるように眺める。
「人を探していて。此処に居るかもしれなくて」
「それって、あの車の人の事?」
ルネはフロントから見える景色にハッとした。歩道に半分乗りかかるようにして、車が一台停まっている。そしてそれは、ルネが一度だけ乗ったことのある_____コナーの車だった。
「あ、あの、僕行かなきゃ」
ルネは転がり落ちるようにバスを降りた。車に走り寄るが、運転手は乗っていない。後部座席にはダンボールと、ジャケットが積まれていた。
ダンボールと言えば、記憶に新しい。一昨日、コナーのオフィスを尋ねた際に、彼のデスクの上に置いてあったのだ。
間違いない。この車は、彼のものだ。ナンバープレートまでは記憶にないが、彼しか居ないと思った。
「コ、コナーさん」
ルネは周囲に向かって名前を呼んだ。聞こえてくるのは小鳥の囀りくらいだ。昨日と違って明るいので、雰囲気も随分異なる。
閉じられたフェンスの向こうを覗く。荒れ放題の庭が見えた。相変わらず人の気配はないが、この車が停まっているということは、此処に用事があるということなのだろう。
ルネはフェンスを掴んで押してみたが、びくともしない。鍵がかかっているのか、錆びているのか。動かした形跡が無いということは、他の場所から入った可能性がある。しかし、家の周囲は深い森と高いレンガの壁で囲われていた。
ルネは、ポッティンジャー幼稚園に忍び込んだ時を思い出す。あの時も、たしか崩れている壁を見つけて入ったのだ。何処かが崩れているのかもしれない。
ルネが周囲を見回している時、カサッと乾いたものを踏んだ感触があった。驚いて足元を見ると、右足が何かを踏んづけている。白い封筒だった。
屈んでそれを拾い上げようとした時、車のエンジン音が聞こえてきた。まさかと思って顔を上げたが、やって来たのは黒い車で、トラックでは無かった。しかし、驚くべきことにそれはルネの目の前で止まったのだ。後部座席の扉が開いて、中から現れたのは若い男だった。
「やあ、お客さんとは珍しいや」
若い男は、ルネを見て気味の悪い笑みを浮かべた。というのも、ルネは彼に良い気を起こさなかった。彼の視線が、コナーの車を舐めるように、嫌な視線で見るのだ。
「ねえ君、この車の主とは知り合いかい」
「......はい」
「もしかして、君もBlack Fileの研究員かい? 実は聞きたいことがあってね、ここのところ、ずっとこの辺りを彷徨いているんだ」
男はコナーの車を見る。彼のことを言っているのだろう。
「何で此処に来ているのか知らないかい? 此処の屋敷と、Black Fileが何か関係あるのかな」
矢継ぎ早に質問をしてくる男にルネがしどろもどろになっていると、車からもう一人男が降りてきた。次は若い男より一回り歳をとった男だった。此方もまた良い視線を寄越さない。
「君、その封筒は拾ったのか?」
年嵩の方は、ルネの手に握られた封筒を指さした。
「えっと......はい。今、此処で」
「此処で?」
二人が顔を見合わせた。
「ちょっと見せなさい」
ルネはハッとして後ろに下がった。
「落とし主は、たぶん、その車の主だな」
「ええ、そうだと思います......でも」
ルネは彼らを睨みつけた。
「これは、本人に僕が届けますから」
「そうか。でも君は彼と本当に知り合いなのかい? まだ学生みたいだけどね。今、たしか職業体験のイベントをしているそうじゃないか。それの参加者かい?」
ルネは、初めてBlack Fileという名前を知った時のことを思い出していた。夕方のニュースだった。爆発事故が起きた時、何度もヘリコプターからの映像が流れ、その施設の周囲にたくさんのマスコミが居たのだ。
その後、何度も研究員がテレビに映ることがあった。そういう時、研究員たちを追いかけているのは、目の前の彼らのような人間が大抵だったのだ。
彼らも、そういう類の人間なのだ。
ルネは封筒をぎゅっと握りしめたまま、彼らから距離を置こうとした。
その時、
「おい」
低い声が聞こえてきた。フェンスの向こうにいつの間にか橙髪の男が立っている。
「コナーさん......!」
「何してんの」
「あ、えっと......落し物......」
ルネは彼に駆け寄った。コナーは一昨日からほとんど変わっていない。冷たい目、声。
彼はルネの手のひらにある封筒を見つめた。フェンスの隙間から手が差し出される。ゴツゴツした、冷たい手だ。ルネはその手に封筒を手渡した。その時、今まで黙っていた例の男二人がルネの背後にやって来る。ルネの顔の横に差し出されたのは、マイクだった。
「此処は誰の家なんです? あなた、Black Fileの職員でしょう。此処を買ったんです? それとも、此処が家なんですか」
コナーは二人の男をじっと見つめていた。ルネは、両方から男に挟まれて身動きが取れなかった。
「その手紙は何なんですか? 誰からのものなんですか? そもそも、あなたのものなんですか?」
「そこの少年とは知り合いですか。彼も研究員なんですか」
ルネはコナーをそっと見た。その時、びゅうと強い風が吹いた。コナーの手から封筒が風にさらわれて飛んでいく。男たちはそれを見逃さなかった。
「追いかけろ!!」
二人がそれを急いで追いかけて消えていく。
ぽかん、とルネがそれに気を取られている横で、コナーはフェンスを掴んだ。上下に軽く揺すると、棒が抜ける。
「細いからこれで通れんだろ」
「えっ、あの、封筒は......」
ルネは豆のようになっていく男たちと、フェンスを抜いたコナーを交互に見た。
早く通れ、と言いたげな目をされる。
ルネはコナーによって作られた、細いフェンスの隙間を通った。ルネが通ると、コナーはフェンスを元に戻した。
「あの、封筒は......」
「放っとけ」
コナーはにんまり笑っている。そして、自分のズボンのポケットに手を突っ込んだ。そこには、くしゃくしゃに皺がついた白い封筒が入っていた。
「今頃、車に撥ねられてるだろうな」
ルネはそういえばと、封筒の感触を思い出す。あの封筒は、空だった。




