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第8話 ザンザード・バロネッタ

―いよいよこの日が来たんだ。

門の前に立ったハルヒコは大きく息を吸った。

「ハルってば緊張してる」

にひひっとシャーリエが口元を抑える。相変わらず、シャーリエは緊張なんてしていないようだった。

「うん、緊張してる。でもそれ以上にわくわくしてるよ!」

ハルヒコの言葉にシャーリエとユメコは頷く。

試験の日、威圧的にハルヒコたちを見下ろしていた扉は、今、ハルヒコたちの門出を祝うように大きくあけ放たれている。

「行こう」

三人は英雄への一歩を踏み出した。


門をくぐったハルヒコは、試験の日のことを思い出した。試験の日にも、三つの塔と中央の大滝を前にして圧倒された。けれど、あの日は自分が試される場所として見上げていた。今は違う。自分もここで学ぶ一人なのだ。大理石を基調とした白い壁も、今日は少し違って見えた。ここへ来ることを許されたのだという実感が、胸の奥で膨らんでいく。

中央の大滝からは、変わらず滝音が響いていた。試験の日に轟々とハルヒコを押しつぶすか如く響いていた滝音も、今はこれから始まる日々のファンファーレのように聞こえた。水しぶきが日の光を受け、淡く輝いていた。ハルヒコは光を受ける雫を眩しそうに一目見て言った。

「…本当に、ここで学べるんだね」

呟いた声は、滝の音にかき消されそうだった。それでも、視線は自然と塔の頂へ向かった。試験の日には、見上げることさえ場違いに思えた。今は、あの塔の中で学ぶ自分を想像している。


ノルデン国立紋術院。今日はその入院式だった。

ハルヒコは、未だに着慣れない真新しい制服の裾を握りしめた。

ハルヒコたちが着る制服は白を基調とした詰襟の征服だった。襟元と縁取りには濃紺の差し色が入り、金色のボタンが気高く輝く。胸元にはノルデン国立紋術院の院章が誇らしげにあしらわれていた。

この制服を着ていると、どうしても指先に力が入ってしまう。なのに、頬が緩み、自然と笑みが浮かんでしまった。

「ハル君、口開いてるよ」

ユメコに言われ、ハルヒコは慌てて口を閉じた。

「開いてないよ」

「開いてたわよ。あの滝より大きく」

「そんなわけないだろ!」

言い返しながらも、ハルヒコの視線はすぐに塔へ戻ってしまう。ユメコは肩を揺らして笑い、シャーリエも目を細めた。

「でも、ハルの気持ち、わかるよ。僕だって、なんだかまだ不思議な気持ちだよ」

シャーリエはそびえる塔を見上げていた。彼もまた、この場所に立つために試験を乗り越えてきたのだ。

「早く行こう。入院式に遅れたら、せっかくの合格が台無しだわ」

ユメコに促され、ハルヒコはようやく歩き出した。足取りは軽い。数歩進むたび、今度は何が見えるのかと視線があちこちへ跳ねた。

「…?」

ふと、どこからか視線を感じた。しかし、その違和感はすぐに消え、改めてハルヒコの意識はこれからの生活にとらわれた。


三人は案内に従って回廊を進む。高い窓から柔らかく降り注がれる光が、白亜の床に淡い影を落としていた。壁には複雑な模様が刻まれていた。時々、模様が光るように見えるのは気のせいだろうか。

また壁には濃紺の旗が静かに揺れている。ハルヒコたちの入院を祝い、手を振ってくれているようだった。

試験の日には気づかなかったものが、今日は自然と目に入った。ここで過ごす日々を思うと、足取りが少し軽くなる。

やがて、大きな扉の前に着いた。扉を開くと、新たな門出を迎えた学生たちのざわめきが、ひときわ高い天井に吸い込まれている。

講堂は、声をひそめてしまうほどに広かった。壇上だけが窓から差す光に照らされている。壇上の壁に掛けられている院章を見て、ハルヒコは自然と背筋を伸ばした。

学生たちが席へと座り、ざわめきは徐々に小さくなり、最後には衣擦れさえ目立つ静かさが訪れた。


壇上に、一人の男が姿を現した。

銀白の髪と短い髭をたくわえた老人だった。額と目元には深いしわが刻まれていたが、それは経験と決断を刻んでいるようだった。瞳は灰青色で、薪が燃え尽きた後のような温かさを持っていた。彼がまとっている濃紺の長衣の襟元や袖口にも金の刺繍が施され、胸元には古びたえんじ色の紋章が付いていた。その姿には、長い年月を重ねた者だけが持つ威厳があった。

「候補生諸君。ノルデン国立紋術院へ、ようこそ。紋術院長のアルゴリア・バンドールだ」

声は大きくない。だが、不思議と後ろの席まで届いた。

「諸君は今日、この門をくぐった。ここに至るまでに、努力を重ねた者もいるだろう。諸君らの顔を見ていると才気に満ちあふれていることがよくわかる」

アルゴリア院長は学生をぐるりと見渡した。一瞬、ハルヒコと目が合ったような気がした。

アルゴリア院長は続ける。

「中には誰かに背を押された者も、あるいは、誰にも頼れず歩いてきた者もいるはずだ」

ハルヒコは膝の上で、両手をぎゅっと握った。

「だが本日、諸君らは一様にして紋術師としての問いを学ぶ資格を得た。紋術は、諸君らの願いの一助となる大いなる力だ。ゆえに、力を磨くことと同じだけ、自らの願いを知ることが重要になる。何を守りたいのか。何を成し遂げたいのか。」

ハルヒコの指先にますます力がこもる。

「強さだけを求めてはならん。強さだけを信じる者は、自らの強さが誰かを追い詰めていることに気づけないかもしれない。だからこそ、ここで学びなさい。仲間とぶつかり、己の未熟さを知り、それでも考えることをやめないでほしい。そのために諸君らはここにいるのだ」

彼は一度、言葉を切った。

「諸君らが、どのような紋術師になるのか。私はそれを、楽しみにしている」

深く頭を下げる。一拍の静寂のあと、講堂に拍手が広がった。

ハルヒコも立ち上がり、手が熱くなるほど拍手した。隣のユメコも頬を赤くし、何度も頷いていた。シャーリエは静かに拍手しながら、壇上から降りる老人を真っすぐ見つめている。

アルゴリア・バンドール。その名を、ハルヒコは心に刻んだ。


式典が終わると、講堂を満たしていた緊張がほどけた。

「院長先生の話すごかったね!力だけじゃなくて、自分の願いを知れって」

ユメコは両腕を大きく広げながら二人に言った。

「うん。僕、ここでいろんなことを学べそうな気がする」

シャーリエがそう言うと、ハルヒコは勢いよく頷いた。

「僕も!絶対に強くなる。みんなを守る英雄になるんだ」

自分の言葉に背中を押されたように、ハルヒコの足に力が入る。

―父さん。見ててね。

三人は講堂をあとにしようとした、そのときだった。

「くだらねえこと言ってんなよ」

突然後ろから声がした。振り向くと、数歩先に三人の少年が立っていた。中央の少年は、白い制服の襟元から靴先まで、寸分の乱れもない。整った金髪を軽く払う仕草にも、周囲が自分に道を譲るのが当然だというような迷いのなさがあった。そして思わず道を譲ってしまいそうな、そんな品位を兼ね備えていた。

その視線が、まずハルヒコに向き、次にユメコへ移る。

「俺はザンザード・バロネッタ。後ろのこいつらはポートとグレイスだ。ただの雑魚だから覚えなくてもいいがな」

中央の少年が自身の名前と、後ろの二人を雑に紹介する。なのに、二人はへこへととしながら、いやな笑みを浮かべている。

「お前の名前は?」

ザンザードがハルヒコに尋ねる。

「…ハルヒコ」

「ふっ、ハルヒコか。ずいぶんと田舎臭い名前だ。お前、トークニ地方の出身か」

「…」

ハルヒコが黙っていると彼は気分がよくなったのか、言葉を並べる

「ここはノルデン国立紋術院だ。王国中から優れた者が集まる場所だからな。そんな田舎の出身者がやっていけるか、心配だ」

少年は自身の中に込められた見下しを一切隠そうとしなかった。少年はシャーリエに目を向けた途端、わずかに顎を引いた。

「そっちのお前。お前は確か、入院試験で竜巻を起こしていたな。名前は?」

「シャーリエ。」

シャーリエは作り笑いを張り付けて答えた。だが、ハルヒコの半歩後ろにいた彼は、いつの間にかハルヒコの横へ並んでいた。

「シャーリエ?お前はトークニ地方の出じゃないのか?」

「どうでもいいでしょ」

「ふんっ。まあな。俺の家名、バロネッタの名は田舎もんでも聞いたことくらいあるだろう?」

その言葉に誇りがにじんでいた。ポートとグレイスもそれを当然のこととして受け止めている。

「聞いたことがない」

ハルヒコが即答すると、ザンザードの眉がぴくりと動いた。

「……そうか。地方では、名家について学ぶ機会もないらしい」

「お前、さっきから何が言いたいんだよ」

ハルヒコが一歩踏み出した。ギリギリと握った拳が音を立てる。ユメコがその袖をつかんだが、ハルヒコは振り返らなかった。ただ、腕を引いて彼女の手を振りほどくこともしなかった。

ザンザードは、その拳を見てからハルヒコの顔へ視線を戻した。

「事実を言ってやってんだよ。実力ってのは、どこに生まれたかで決まる。お前らみたいな田舎もんが英雄になんかなれるわけねえんだよ。聞いてるだけで、イライラして来るぜ」

「家柄が立派なら、偉いのか?」

「えらいかどうかは知らねえが、俺には背負ってるものがある。家の名を汚さず、期待に応える責任がな!」

ザンザードの声に熱がこもった。彼は胸元の院章を指先で整える。ほんの一瞬、誰かにその姿を見せるような仕草だった。

「俺は、その責任を果たす。そのためにここへ来たんだ。願いを叶えるには、何かを選び、誰かを切り捨てる覚悟がある!みんなを守る英雄?反吐が出るぜ」

「もう一回言ってみろ!」

ハルヒコはザンザードの胸ぐらをつかむ。ユメコは両手を胸元に当て、表情に不安の色を浮かべる。シャーリエだけが冷めた目でザンザードを見ていた。

「英雄っていうのはみんなを守る存在だろ!」

「はぁ…。じゃあお前は、すべてを守ろうとした結果、本当に大切なもんを失ってもいいのか?」

「え?」

ザンザードの問いは深くハルヒコに刺さった。父の顔が脳裏をよぎる。誰も守れなかったと自責の念を抱きながら死んだ父。

「僕は…」

喉が詰まった。それでも、ハルヒコは顔を上げた。

「僕はみんなを守る英雄になる!誰かを犠牲にすることを、最初から正しいことにしたくない」

ザンザードは鼻で笑った。だが、その笑いはすぐに消えた。

「甘いな。俺は願いを叶えるためなら、迷わず犠牲を選ぶぜ。たとえ、他人の願いを踏みにじっても…。それができる人間こそ、何かを成し遂げられる英雄になれるんだ」

「そんなの、英雄じゃない!」

ハルヒコはもう一歩、前へ出た。

「英雄は、誰かを守るためにいるんだ!」

二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちた。

ザンザードはすぐには答えなかった。唇を引き結び、ハルヒコを見据える。その瞳には怒りがあったが、見下しはすでに消えているように思えた。

やがて彼はハルヒコの手を掴み自身の襟元から離すと、乱れた制服をもう一度整えた。その所作があまりに美しく、ハルヒコは目を奪われた。

「だったら、ここで証明するしかねえな。俺とお前のどちらが正しいのか。本当の英雄はどっちか。」

「言われなくても、そのつもりだ」

ハルヒコは即座に返した。声はまだ震えていた。それでも、足は一歩も退かなかった。

「お前の名前は覚えた、ハルヒコ。お前も覚えておけ。俺は、ザンザード・バロネッタだ。」

ザンザードは踵を返した。二人の取り巻きがその後に続く。


姿が回廊の向こうへ消えると、ユメコはようやく体の力を抜いた。。

「……初日から、ずいぶん目立っちゃったね」

「あいつが先に絡んできたんだろ」

ハルヒコは言い返したものの、握りしめていた拳を見下ろした。指が白くなるほど力を入れていたことに、今さら気づく。

「でも、アルゴリア院長は言っていたよね。自分の願いを知ることが大切だって」

シャーリエが静かに言った。

「ザンザードも、自分の願いを信じているんだと思う。ただ…その願いのためなら、何を切り捨ててもいいと思っている」

「それでも僕はあいつが正しいなんて思えない」

開いた掌には爪の跡が残っていた。

「みんなを守れる英雄になる。絶対に」

言葉にするたび、その決意は胸の奥へ深く沈んでいく。ハルヒコは再び歩き出した。今度は、さっきのようにあちこちを見回すことはなかった。目の前に続く白い回廊を、まっすぐ見つめていた。


その先には、まだ知らない授業も、仲間も、試練も待っている。

頭上では、三つの塔が空へ伸びていた。中央の大滝は変わらず轟き、白い水しぶきを空へと散らしていた。


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