第6話 理をねじ伏せる願い
最初、ハルヒコの異変に気付いたのは試験官だった。
目の前の受験者は、決して特別な何かを感じさせる少年ではなかった。事実、第二試験が始まってもなかなか紋術が発動できずに焦っている様子だった。唯一、他の受験者たちと違うところといえば、強い意志を感じさせる。その程度だった。
そんな少年の浅黒く焼けた細い腕に刻まれた紋。その線が、ほんのわずかに動いた。
—今、紋が動いたか…?
試験官は自分の目を疑った。
—いや、見間違いだ、そうに違いない。
試験官はそう結論づけた。しかし、疑念を振り払うどころか、試験官の目は少年の腕に釘付けになった。
紋は刻まれた時点で不変の形を持ち、発動できる現象も確定する。原素を通すための道筋は決まっているのだ。確かに紋術師の技量が上がれば、同じ紋でもより大きな現象を引き出せるようになる。例えば、受験者は拳程度の火の玉しか起こせないが、熟練者にもなれば岩石ほどの大きさの火の玉を、より早く飛ばすことができるだろう。しかし、それはあくまでも同じ現象を大きく、強くするという話だ。紋そのものの形が変わるなど、ありえない。
試験官は目を細め、ハルヒコを見つめた。これは何かおかしい、彼は自分の直感を信じた。
「君、一度試験をやめなさい。…聞こえないのか!原素の流れを止めろと言っているんだ!」
試験官の声はハルヒコには届いていなかった。ハルヒコの意識は、ただ一つの願いにとらわれていた。
—英雄になりたい。
ハルヒコの腕で、ありえないことが起きていた。紋を象る幾重もの線が、ハルヒコの皮膚の上を這うようにずれていく。線は枝分かれを繰り返し、別の線と交わり、生き物のように形を変えていった。刻まれた瞬間に定まったはずの紋の形が書き換えられていく。まるで、ハルヒコの願いに応えるかのように。
「何だ、あれ……」
受験者の一人が呟いた。ざわめきが大きくなる。
周りの騒ぎが大きくなってもハルヒコは気づかずに、目を閉じ、ただひたすらに願っていた。
—英雄になりたい。
—父さんは偉大だったと証明したい。
—誰かを救える人間になりたい。
ハルヒコの拙くも純粋な願いが、紋に変化を起こしていることを、彼を含めその場の誰もが知らなかった。
再び、紋が一度、強く光った。
その瞬間。ハルヒコの掌から炎が噴き出した。しかし、拳ほどの火の玉が浮かんだわけではなかった。掌の先に現れたのは、細く、鋭く圧縮された炎だった。燃え盛る炎というよりは、熱を帯びた一本の矢のようだった。その先端は、何かを貫くためだけに研ぎ澄まされた形を持っていた。
ハルヒコはカッと目を開くと、炎の矢を握るように腕を引き、投擲の動作で的にめがけて矢を放った。炎の矢は空気を裂き、一直線に飛んだ。
広場を揺らす轟音が鳴り響いた。
的は炎に包まれ轟々と焼かれていた。火柱が立ち、木材がはじける音ともに、黒煙が空へと昇った。
風が広場を撫でた。的を燃やす炎のせいだろうか、その風は熱気を帯びているように感じられた
受験者や試験官は動けないでいる。その中心でハルヒコだけが、震える自分の指先を見つめていた。自分でも何が起きたのか理解できていなかった。望んだとおりに火を出すことはできた。しかしそれは、ハルヒコが思い描いていた形とは全く異なる形で出現した。炎は細く、鋭く、何かを貫くためだけに生まれたような形をしていた。ハルヒコは自分の体から熱が引くのを感じ、手足に力が入らなくなった。
「今のはなんだ!」
呆然としていた試験官が我に返り、すごい剣幕でハルヒコを問い詰める。
「君は意図してあれを生み出したのか?」
「…わかりません」
ハルヒコは正直に答えた。
「わからない?」
試験官は訝しそうに片方の眉をピクリと吊り上げた。
「火の玉を作ろうとしたんです!。でも、できなくて…。だから強く願ったんです。できるようになりたいって。父さんの願いを叶えたいって…」
ハルヒコは言い訳のように弁明した。ハルヒコはなおも言葉を探す。ハルヒコだって何が起きたか知りたかった。その時、視界の端に自身の腕が映った。
「…っ!!」
腕に刻まれていた紋が形を変えていることにハルヒコは初めて気づいた。
「紋の形が…」
訳が分からなくなり、ハルヒコは紋を指で掻いた。だが、紋は消えることも形を変えることもなかった。こすった箇所の皮膚だけがジワリと赤くなった。。
その様子を見て試験官はふぅっとため息をついた。こんなことは前代未聞だった。しかし、少年の様子を見るに意図的にやったわけでもなさそうだ。
「もう一度、同じことができるか」
試験官は確かめるようにハルヒコに尋ねた。ハルヒコはできるかどうかわからなかったが、ここでできないと言えば失格になるのではないかと思い、弱弱しくうなずいた。
—大丈夫!さっきと同じようにやればいいだけだ。
ハルヒコは目を閉じ、腕を天へと突き立てた。深呼吸をし、先ほどと同じように体内に原素を感じる。ぽわぽわと温かい原素を紋へと流し込む。そして、強く願った。
炎の矢を生み出した時と同じようにやれたはずだった。しかし、何も起きなかった。ハルヒコはさっきまでの感覚が、どこにも残っていないことに気付き、うつむいた。
「…できません」
ハルヒコは涙をこぼしながら言った。いつの間にか、的を包んでいた炎も消え、炭と化した木の板だけが頼りなさそうに立っている。
ハルヒコの答えに試験官は顔をますます険しくした。
—これは間違いなく異様なことだ。仮に特殊な何かが起きたとして、なぜ再現できないのか。
試験官は黙って頭を悩ませたが、答えは出なかった。
「試験は一時中断する。全員、そこから動くな」
試験官は自身一人で考えることを諦めた。受験者たちに言い放つと、バンバレットのもとへと走った。
受験者たちはいぶかしむようにハルヒコを遠巻きに見ていた。ただハルヒコだけが、炭となり朽ち果てた的を見つめていた。
—英雄に近づけたのだろうか。それとも、自分は何か取り返しのつかないことを起こしてしまったのだろうか。
「ハル!」
悶々とするハルヒコにシャーリエが大声で呼びかけながら、ハルヒコのもとへと向かってくる。どうやら騒ぎに気付き、いてもいられなくなってハルヒコのもとへと駆け付けたようだった。
「大丈夫!?ケガはない!?」
ハルヒコに勢いよく抱き着きながら、シャーリエはハルヒコの安否を心配した。混乱しながらもハルヒコは親友の心配が嬉しく少しだけ冷静を取り戻した。
「ありがとう、シャル。大丈夫だから、泣かないで」
「本当に?」
「…うん」
シャーリエは、ハルヒコの腕を見て、先ほどまでの泣き顔が嘘のように表情を明るくしながら言った。
「本当にすごいよ、ハル!」
「そうかな」
親友の賞讃にハルヒコは苦笑いで答えた。自分の身体に起きたことなのに、何ひとつわからない。そのことがハルヒコを複雑な気持ちにした。
—合格できたのかな。
今はただ、それだけが心配だった。




