第1話 英雄の父
ハルヒコは、父がかつて「英雄」と呼ばれていたらしいことを知っていた。そして、村中、いや、国中の人たちから嫌われていることも。「負け犬」「卑怯者」。ふと耳にしたそんな言葉が頭をよぎる。
ハルヒコはそのことが不思議でたまらなかった。父は強くて、優しい。困っている人がいれば、迷わずに手を差し伸べる。ハルヒコにとって、父は正真正銘の英雄だった。
「どうして父さんは、みんなから嫌われてるんだろう」
ハルヒコは幼馴染みのシャーリエに愚痴に似た相談を漏らした。シャーリエは同い年とは思えないほど頭が良いから、何か知っているかもしれないという期待もあった。
「どうしてだろうね…。おじさんは優しいし、強いし、面白いし…」
「そうだよね!」
ハルヒコの期待していた答えはもらえなかったが、それでもハルヒコはシャーリエの言葉に強く同意した。
「父さんは森の異形者だって倒しちゃうし、僕の誕生日には変な格好をして笑わせてくれるし…」
ハルヒコは父が時折見せる優しい笑顔を思い出していた。
父は今、村人たちに頼まれて森へ異形者を討伐しに行っている。村人たちは父を嫌っているくせに、危険な仕事だけは押しつける。ハルヒコは、その方がよほど卑怯だと思ったが父は快く引き受けている。そのこともハルヒコを少しだけもやもやさせた。
「はぁ…。やっぱり納得できないや。あんなにかっこいいのに」
ハルヒコは足元の石を思いきり蹴飛ばした。
ゴトンっ。
石は草むらの奥へ飛び、何かに当たったような鈍い音を立てた。しかし、二人はおしゃべりに夢中でその音には気づかなかった。
ここは森の入り口の手前だった。大人たちは、異形者が出るから子供だけで遊んではいけないと言っていた。それでも、珍しい植物やきれいな石を見つけられるこの場所だったため、二人は大人の忠告を無視してよくここで遊んでいた。
ガサガサと草むらが大きく揺れた。
「うわっ…!」
草むらから鹿に似た異形者が飛び出してきた。額には三本の角が生え、口元から鋭い牙をのぞかせ、よだれを垂らしている。
「ハ、ハル…。どうしよぅ…」
シャーリエがハルヒコの袖をつかんだ。その手はブルブルと震えていた。見ると、シャーリエの瞳には大粒の涙が浮かんで、今にもあふれ出そうだった。
—怖い…。でも…!
怖いのはハルヒコも同じだった。どうすればいいのか、何ひとつわからない。
それでも、隣で泣き出しそうな親友を見て、逃げるわけにはいかなかった。
「シャル。僕が合図したら、村まで逃げて。」
「え?」
「僕が囮になるよ!僕がシャルだけは絶対に守るから!」
「そんな!だめだよ!ハルも一緒に逃げよう!」
異形者が前脚で地面をかいた。土が跳ね、低いうなり声が森に響く。
「二人で逃げたら共倒れになっちゃう。シャル…。僕の言うとおりにして!」
ハルヒコがこんな強い声を出すのは初めてだった。シャーリエは唇を噛み、それから小さくうなずいた。
「…わかった。でも、絶対に帰ってきてね」
「うん。約束する」
異形者が地を蹴り、二人の元へと走り出した。
「今だ!シャル!」
シャーリエが村へと走り出す。ハルヒコは反対に、異形者へ向かって駆けた。足が絡まり転びそうになる。それでも、何とかバランスを保ち、少しでも足止めをしようと、異形者の胸に体当たりをした。
子供の思わぬ攻撃に怯んだのか、異形者の動きが一瞬止まる。ハルヒコは後ろに尻もちをついたが、すぐに立ち上がると、異形者がひるんでいる隙に背中へ飛び乗る。二本の角をつかみ、必死に力を込めた。
「グルルルルッ!」
異形者がハルヒコを振り払おうと激しく首を振った。
—怖い。怖い。怖い。
恐怖に襲われながらも親友を助けたいというその一心で、ハルヒコも必死に抵抗を続けた。それでも力では勝てずに、ついにハルヒコは宙へと放り出され、大木の幹に背中を打ち付けた。
「ぐっ…!」
背中に激痛が走る。肺も圧迫されたのか、息も吸うことさえままならない。それでも、ハルヒコは震える腕で体を起こし、周囲を見た。シャーリエの姿はない。どうやら逃げ切れたらしい。
「よかった…」
体は満身創痍でもう動けそうにもないが、ハルヒコは親友が逃げ切れたことに何よりも安堵した。異形者は既に態勢を立て直し、こちらへ向き直っていた。毛は逆立ち、鼻息も荒い。目は赤く充血していた。異形者は全身で怒りを表現し、ハルヒコを捉えていた。
—これは、逃げられないや。
ハルヒコは死を覚悟した。できることなら、今すぐ逃げ出したかった。
「シャルが逃げられて、本当によかった…」
恐怖が鎮まることはなかった。それでも、ハルヒコは親友が逃げられたことをただただ喜んだ。
覚悟を決め、目を閉じた、その瞬間。
ズシャッ。
何かが裂ける音がし、しばらくの後、血の匂いが鼻をかすめる。
ハルヒコが目を開けると、見慣れた大きな背中が目の前にあった。その向こうでは、異形者が胴体を裂かれ、血を流しながら倒れていた。
「父さん!」
父は大剣を鞘に収め、ハルヒコを振り返った。
「大丈夫か、ハルヒコ」
とても低く、しかし、なぜか心が温かくなるような。ハルヒコの大好きな父の声だった。堰を切ったようにハルヒコの瞳から涙があふれる。
父は大きく武骨な手をハルヒコの頭に置いた。どうやら、頭を撫でてくれているらしかった。
「本当に無事でよかった」
父はハルヒコを強く抱きしめ、耳元で囁いた。ハルヒコはいつまでも泣いた。それは親友を守った英雄ではなく、父の胸で安心して泣くどこにでもいる普通の少年だった。
「ねぇ、父さん。どうして、僕がここにいるってわかったの?」
帰り道、父の背中におぶわれながら、ハルヒコは尋ねた。
「それは…。俺はお前の英雄だからな」
父は照れくさそうに頬をかいた。心なしか父の耳は赤みを帯びていた。もしかすると夕日のせいかもしれない。
ハルヒコは、シャーリエが村へ知らせに行ってくれたのだろうと思っていた。それでも、父の言葉がうれしくて、何も言わなかった。
国中の人が父を何と呼ぼうと、ハルヒコにとって父は、間違いなく英雄だった。
そんな英雄の父が、首を吊って自殺した。
第一発見者は、八歳になったばかりのハルヒコだった。




