第0話 英雄の敗北
鼻を刺す血の匂いが、【異形の王】の城の広間に満ちていた。百人を超えていた仲間たちは、もう誰ひとり立っていない。剣を交え、ともに切磋琢磨した戦友のドラウドも。くだらない冗談で笑い合ったエルマも。そして、シロウが愛したニーフィンさえも。彼らはかつての面影を殆ど残さずに床に散らばっていた。
阿鼻叫喚。
地獄と化した広間の中央にシロウだけが立っていた。彼は仲間たちとともに【異形の王】の討伐を誓い、意気揚々とこの城へと足を踏み入れたはずだった。一寸の疑いも持たずに、ただ勝利だけを信じていた。
その確信は、今や床に散らばる仲間とともに、見る影もなく潰れていた。汗と血で何度も剣を落としそうになる。
—生きたい…
生物としての当然の本能だけがシロウの気力を支えていた。
「お前は、英雄と呼ばれているのだったな」
【異形の王】の声が、シロウの鼓膜を揺らす。その声を聴いただけで、シロウは卒倒しそうだった。
「…っ!」
【異形の王】の問いにシロウは答えようとしたが、喉は乾き切り、辛うじて息が漏れ出す程度だった。目の前にいる【異形の王】は退屈そうに悠然と玉座に坐っている。仲間たちが命を懸けて振るった剣も、紋術も、その足元に伸びる影にさえ届かなかった。
「…た、助けて…」
それは紛れもない本音だった。
「聞こえんな。はっきりと喋れ」
全身から力が抜け、シロウは膝を地面につけた。床に手をつき、穴が開くほど強く額を地面に擦りつけた。そこにかつて英雄と呼ばれた男はいなかった。
「見逃してください!」
声が広間に反響した。あまりにも情けなく、切実な叫びだった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 許してください!」
【異形の王】の配下たちの笑い声が、死体が転がる広間を満たした。それでもシロウはピクリとも動かずに【異形の王】に対して、自身の生を懇願した。
シロウはぎゅっと目を瞑っていた。目を開けばどうしても仲間が目に入る。生気を失った瞳がまるでシロウを責めているように感じられたのだ。
—お前のせいで…
そんな声が聞こえた気がして、シロウはさらに身を丸めた。
「静まれ、同胞たちよ」
【異形の王】がひと言告げると、広間に静寂が戻る。
「醜い欲望こそ、人間の本質か。…シロウ。お前を見逃してやろう」
シロウは、思わず顔を上げた。
—聞き間違いか…?
しかし、【異形の王】は本当に興味を失くしたようにあらぬ方向を見ている。
—生きて帰れる!
その可能性を理解した瞬間、歓喜が全身に押し寄せてきた。
そして、麻痺していた生きるための機能が戻った。いや、戻ってしまった。
「う、うえええ……!」
シロウはその場に吐いた。辺りに漂う腐臭や飛び散った仲間の体液、積まれた死体の山がシロウの五感に襲い掛かってきた。
「はぁ…。つくづくお前は醜いな。さっさと失せろ。そして人間どもに、我々の恐怖を伝えるのだ。お前がここを生きて出られるのはそれだけが理由だ」
「…ありがとうございます」
シロウは震える足で立ち上がり、一歩目を踏み出した。しかし、何かに躓き盛大に転んだ。再び嘲笑に包まれる。
しかし、その嘲笑はシロウに聞こえなかった。シロウが躓いたのは、仲間の腕だった。
「あ…」
その手にできた剣ダコに見覚えがあった。落ち込んだ自分の背中を叩いてくれた手。倒れそうなとき力強く引き起こしてくれた手。温かかった手。紛れもなく、ドラウドの手だった。
「うわあああああっ!」
彼は逃げた。何度も躓き、転びそうになりながらただひたすらに逃げた。彼が踏みつけたものの中にはエルマの太腿や、ニーフィンの胴体があったが、彼はそんなことに構いもせずにすべて置き去りにして逃げた。【異形の王】たちは追ってこなかった。本当に、彼を逃がすつもりらしい。
どれほど走っただろうか。吐き出すものは何もなくなり、シロウはあまりの疲労からそばに立つ木の幹に背を預けて座り込んだ。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
どこからか微かな音が聞こえた。
—そんなまさか…。
驚きながら、シロウは体に鞭打ち、音のする方へと向かった。シロウの耳が捉えたのは赤ん坊の泣き声らしかった。しかし、シロウはその可能性を否定した。
—こんな場所に、赤ん坊がいるはずがない!
それでも、声は確かに聞こえた。声に導かれるように足を進めると、小屋を見つけた。警戒しながらも小屋のドアを開けると、やはりそこには赤ん坊がいた。どう見ても人間の子供だった。
シロウは赤ん坊を見つめた。そして、恐る恐る赤ん坊に触れ、シロウは思わず手を引いた。赤ん坊の体は信じられないほどに冷たかったのだ。まるで、つい先ほどまで雪の中に埋められていたかのように。よく見ると、不思議なことに赤ん坊の体とその周りの床はしっとりと濡れているようだった。
シロウは頭に血が巡るのを感じた。
—この子は、一体…。
シロウの戸惑いなど知ったことかとばかりに赤ん坊は大声で泣き続けていた。
—この子は俺が捨てかけたものを持っているのか…。
それは生きようとする意志だった。
「…そうか」
シロウはつぶやく。シロウを支配していた恐怖はいつの間にか霧散し、代わりに違う熱が胸に灯った。シロウは、赤ん坊の掌に人差し指を差し出す。すると、あまりにも弱く、しかし、今のシロウにとっては信じられないほど強く感じられる力で握り返してきた。
シロウは赤ん坊を抱き上げた。シロウの足は未だに震えているが、それでも力が少しずつ戻りつつあった。
そしてシロウは再び、故郷をめざして夜闇を駆けだした。
このとき、シロウは知らなかった。
この選択が遠い未来、世界を揺るがす結果になることを。




