第10話 ヴァレン教授
旧研究棟は、学院の中心から少し離れた場所にあった。石造りの廊下には古びた紙と薬品の匂いが漂い、窓の向こうでは秋の木々が風に揺れている。人通りは少なく、三人の足音だけが妙にはっきり響いた。
「ここで合ってるんだよね?」
ユメコが案内板と手元の紙を見比べる。
「合ってるはず。ヴァレン教授の研究ゼミ。…今いるゼミ生は一人だけらしいけどその人も今はいないみたい」
シャーリエが掲示版の隅を指した。実地調査のためしばらく留守にします、と細い字で書かれている。
「一人だけ?本当に人気がないんだね」
ハルヒコは声を落としていった。けれど、未知の世界を知ることができるかもしれないという期待感もあった。
扉を叩こうとしたとき、中からガタン、と音がした。
「あっ、待って待って! そっちは壁だ!」
ハルヒコが薄く開けた扉の隙間から金属球が飛び出した。床を跳ね、壁へ向かう。ハルヒコが勤続球を止めようと足を出しかけた瞬間、球はハルヒコの靴にぶつかる直前で進路を変え、三人の靴先をかすめることなく廊下の端へ転がった。
続いて扉が内側から押され、裾がやけに長い白衣を着た青年が廊下へ飛び出してきた。乱れた髪にインクのついた袖。大きな丸眼鏡を筋の通った綺麗な鼻に掛け、片手にはノート、もう片方には空の小箱を持っている。
「よかった、傷は…うん、ついてないな。あっ、君たち、ゼミの見学者かい。ごめんね、危なかったね。怪我はない?」
青年は三人を気遣って一歩下がったが、代わりに自分の白衣の裾を踏んだ。体が傾き、ノートがパラパラと宙を舞う。ハルヒコが手を伸ばすより先に、ノートは床へ落ちた。ページが散らばらなかったのは幸いだった。
「…初対面で、ずいぶんと派手な登場ですね」
シャーリエがからかうように言った。
「目立つのは苦手なんだけどなぁ…」
青年は尻もちをついたまま、頭をポリポリと掻きながら頷いた。
ユメコが思わず笑い、ハルヒコもつられて笑った。青年は耳を赤くし、眼鏡の位置を直しながら立ち上がると、今度は机の脚に膝をぶつけた。
「痛っ。ああ、こんなところに机が!」
「机はずっとそこにありましたよ」
「…歩くのが苦手なんだ。生後間もない赤子の方が幾分ましかもね。でも、実験の話なら任せてほしい。私はヴァレン。紋の構造や紋術が現象を引き起こす仕組みを研究している」
ヴァレンが三人を招き入れる。よほどぶつけた膝が痛いのか、ひょこひょこと背中が揺れている。それに合わせて寝癖が躍る。
―なんだか頼りない先生だなぁ。
それでもヴァレンは不思議な雰囲気をまとっており、ハルヒコは自然と緊張をほどいた。
研究室は書物や器具で雑然としていたが、中央の床だけは不思議なほど整っていた。白い線がいくつも交差し、床には高さの異なる金属柱が並んでいる。
「さっきの球、勝手に動いているように見えました。あれは先生が動かしていたんですか?」
ハルヒコが尋ねた。
「うん、そうだよ。まぁ正確には、球に働いていた力の向きを変えたんだ。無理やり押し返したわけでも、強引に止めたわけでもないよ」
ヴァレンは小さな金属球を三つ、床の端に並べ少しだけ球を押し出した。
「少し危ないから私の後ろから見ててね」
そう言いながらヴァレンがくるりと指先をまわすと、球は勢いをもってそれぞれ別の方向へ走り出す。球はぶつかりそうになるたびに、進む向きがわずかに変わり、衝突するはずの球同士が紙一枚ほどの間隔ですれ違った。速さはほとんど変わらない。床の白線はどうやら金属球の軌跡のようだった。
「すごい……!」
ハルヒコはいつの間にかヴァレンの後ろから身を乗り出していた。球が次にどこへ向かうのか、目で追うだけでハルヒコの胸も目の間の金属球のように弾んだ。
紋術は、偉大な力だと思っていた。自分に絶対的な自信をくれるようなそんな強大な力。
けれど、これは違う。力の向きを変えるだけで、ぶつかるはずの未来が別の未来に変わっていく。
「速さはほとんど変わっていませんね」
シャーリエが言った。
「よく見ているね。今回は向きだけを変えてるんだ」
「球が転がる方向は、どうやって決めているんですか?」
ユメコが尋ねた。
「ぶつかる!と思ってからでは遅いですよね?」
ヴァレンの顔がぱっと明るくなった。
「その通り!起きたことに反応するだけじゃあ遅いんだ。何が起きるか予測して、力の向きを変えて進む方向を示してやるんだ!観察して、考えて、試す。地味だけど、それが私の研究の基本だよ」
ユメコは床の線を見つめていた。頭の中で球の軌道をなぞっているようだった。シャーリエも、いつもの軽い笑みを忘れて球を見ていた。
「僕にもできますか?」
ハルヒコが尋ねた。
「できるかどうかはこれから確かめるんだ!できることだって、やってみないとできないからね!ただ、君の検査結果が測定不能だったということは聞いているよ。必ずしもここで答えが見つかると約束はできない。それでもいいかい?」
ハルヒコは右腕を見た。入学試験で、願いに応えるように形を変えた紋。あのとき何が起きたのか、今も分からない。父の手紙に書かれた願いを果たすには強くならなければならない。だが、強さだけを追いかけても、自分の力が分からなければ、大事な何かを見落とすかもしれない。
「はい。僕は僕のことを分からないままにしたくないんです」
ヴァレンは少年の腕を一瞬だけ見た。値踏みする目ではなく、誰も挑んだことがない問いを前にした研究者の目だった。
「なら、歓迎するよ。ようこそ、私の研究室へ」
「僕も入ります」
シャーリエが続けた。
ハルヒコが振り向く。
「シャル、推薦されたゼミは精密制御系だったよね?」
「うん。だから迷ったんだ。薦められたゼミなら僕はきっと輝けるかもしれない」
「じゃあ、どうして…」
シャーリエは球の止まった場所を見た。
「でもやっぱり僕はハルの隣にいたいんだ。ハルがこれからどこへ進むのか、それを見てたいんだ」
いつもの冗談めいた口調ではなかった。ハルヒコは、その言葉をまっすぐ受け止めた。
「だから、僕に気を使ったりしないでね、ハル。僕の選択は僕だけのものだから。君にだってあげやしないさ」
真剣な空気をふっと軽くしながらシャーリエが言った。
「…一緒に頑張ろう、シャル」
「うん!」
ユメコは二人を見てから、自分の推薦用紙を取り出した。
「二人は相変わらずだね。私は勧められたゼミに行ってみる。ヴァレン先生の話を聞いて、見てるだけでも分かることがあるって思ったの。それに、二人が何を見つけたときに記録してあげたいんだ」
「そっか。僕たちもユメコのこと、応援してるよ」
ハルヒコが言う。
「うん。とはいっても、試験はいろんなゼミの内容が出されるみたいだから、分かったことは持ち寄ろうね」
三人のやりとりをニコニコとみていたヴァレンハはっと思い出したように、ゼミに入るための書類を探し始めた。その書類は机の上に置かれていたのだがヴァレンはなかなか見つけられず、引き出しを二つ開けた。見かねて三人が同時に机の上の書類を指さすと、ヴァレンは「あ、こんなところに」
と心底ほっとした顔をした。
研究室を出るころ、ハルヒコの胸は、初めて見る景色を前にしたときのように浮き立っていた。ここなら、知らないことを知らないと言ってもいい。失敗しても、答えを探すところから始められる。
廊下へ出る直前、彼はもう一度、金属球が転がっていた床を振り返った。球の軌跡を刻むように細い白線が交わっている。ほんの一瞬、その線の上に、球の進むはずだった道と実際の道を結ぶ糸のようなものが見えた気がした。
瞬きをすると、何もない。
「ハル?」
「何でもない…明日、また来ます。」
「もちろん。明日の私は、今日よりスマートなはずさ」
ヴァレンが真剣に言うので、三人は笑った。未知の世界は、思っていたより不思議で、少しおかしくて、そして目が離せなかった。




