第8話 セクハラ教師の疑惑
校門を出たところで、直斗は周囲に誰もいないことを確かめ、鞄からスマホを取り出した。
学校への携帯持ち込みは、校則で禁止されている。
だが、こんな大変な日にわざわざ手荷物検査はしないだろうと高をくくり、朝、鞄に忍ばせてきたのだ。
麻衣にメッセージを送るか、直接かけるか――
一瞬迷い、思い切って通話をタップした。
呼び出し音は、二度で切れた。
「……直斗?」
耳に届いた声は、思っていた以上にか細かった。風邪でもひいているのかと思うほど息が浅く、言葉の端が揺れている。
「学校休んでたけど、体調、大丈夫か?」
「うん……ちょっと疲れてただけ」
「学校、どうだった?」
「……部活は中止。先生たち、ピリピリしてた」
直斗は、校内の様子をかいつまんで話した。
武が犯人扱いされている噂も、麻衣が登校すればどうせ耳にする。
それは隠せなかった。
ただし、犯行時刻に武を目撃したことだけは、まだ言わなかった。
準備室でのやり取り、門脇の主張、田中先生の制止、そして自分が口走ってしまった犯人探しの宣言。
麻衣は静かに、冷静に聞いていた。
「……直斗らしいね」
「そうか?」
「うん。止められても、やるって言うところ」
「まあね」
「でも、武が犯人なわけないから。その気持ちはわかるよ」
「うん、そうだよな!」
「ちょっと、声大きいよ」
微かに笑ったような声だったが、すぐに沈黙が戻る。
「麻衣は……警察、どうだった?」
一瞬、通話の向こうが無音になる。
電波が切れたのかと不安になるほど、長い間が空いた。
「……質問、いっぱいされた」
「どんな?」
「事件の夜のこと。誰といたか、どこから見たか、何時くらいだったか。何回も、同じこと」
淡々とした口調だが、その裏に緊張が隠されているのがわかる。
灰色の壁、机越しの視線。
想像するだけで、胸の奥が重くなった。
「犯人の顔は見てないって何度も言ってるのに、しつこかった」
直斗は歩みを少し緩めた。夕暮れの街のざわめきの中で、スマホを握る手に力が入る。
「ああ、それは俺も同じだった」
「私、何か間違ったこと言ってないかなって、ずっと考えちゃって。……本当に、全部悪い夢だったらよかったのに」
電話口で、麻衣が小さく鼻をすする音がした。
「大丈夫だ。麻衣はちゃんと自分で考えてる。それだけで十分だ」
根拠はなかったが、そう言った。少しでも安心させたかったからだ。
しばらく沈黙が流れ、麻衣がぽつりと言う。
「ねえ、直斗」
「なに?」
「……明日、学校行くよ」
「本当に?」
「うん。家にいても、余計に考えちゃうし。親ともなるべく顔合わせたくないし。普通に授業受けてた方が、少しは……」
無理している、と思った。
だが同時に、それが麻衣なりの踏ん張り方なのだろう。
「よし。じゃあ明日、朝、学校で」
「……うん、ありがとう」
一応、麻衣は無事。
しかし、通話が切れたあとも、直斗はなぜか胸騒ぎが収まらない。
しばらくの間、スマホを握ったままその場から動けなかった。
◇ ◇ ◇
翌日、鉛色の雲が低く垂れ込めた重たい空模様の中、直斗は重い体を引きずるように学校へ向かった。
事件以来、三日ぶりに麻衣と会えるはずなのに、不思議と嬉しさは湧いてこない。
新校舎の昇降口で、麻衣が下駄箱の前で上履きに履き替えようとしているのが見えた。
「麻衣!」
声をかけると、肩をびくりと震わせて振り向く。
案の定、顔色は悪い。
目の下には青黒く、いつもは凛としている瞳が、自信なげに揺れていた。
「……おはよう、直斗」
「ああ、おはよう。……大丈夫?」
周りの目が気になり、声は自然と低くなる。
どこか、よそよしい。
殺人事件の目撃者という共通の立場が、かえって見えない壁になり、二人の間に立ちはだかっているようだった。
「うん、なんとか。……行こう」
麻衣は俯いたまま歩き出した。
昨日は電話であんなに話したのに、教室までの階段を上がる間、会話はなかった。
廊下に、二人の上履きが鳴らす乾いた音だけが響く。
すれ違う生徒が、ひそひそ何かを囁き合う。
武の噂か、事件の憶測か。直斗はそれらを振り払うように、前だけを見て歩いた。
一時間目の英語は淡々と進み、すぐ二時間目になった。
時間割は体育。
担当は、よりによってあの荒井だ。
昨日、恵から聞いた言葉が、頭の隅にこびりついて離れない。
――荒井が、北川先生に言い寄っていた。
グラウンドに出ると、湿気を含んだ生温かい風が頬を撫でた。頭上の雲はさらに厚みを増し、今にも雨を落としてきそうだ。
そんな灰色の空とは対照的に、荒井の声だけが、鼓膜を震わせるほど大きく響き渡っていた。
「おいおい、なんだその辛気臭いツラは! 事件だなんだと暗くなってても仕方ねえだろ! 体動かして、嫌な空気全部吐き出せ!」
ジャージにポロシャツという軽装の荒井は、逞しい胸板を張り、わざとらしいほどの快活さを演出している。
日焼けした肌に白い歯、精悍な顔立ちは、確かに一部の生徒や保護者受けする「熱血教師」のそれだ。
だが直斗には、その過剰なテンションが、どこか空回っているように見えてならなかった。
「いつも通り準備体操から行くぞ! ほら、声が小さい! いち、に、さん、し!」
生徒たちは気圧されて従うが、動きは鈍い。
少しは皆の気持ちを考えてくれればいいのに――
直斗はそう思って、屈伸をしながら、さりげなく女子の列へ目をやった。
麻衣は列の後方で、少し俯き加減に柔軟体操をしている。
相変わらず元気がなく、細い手足は見ていて痛々しいほどだ。
精神的な疲労が、体の動きの端々ににじみ出ている。
その様子を見た荒井が、麻衣の後ろで足を止めた。
「おいおい七瀬、全然伸びてないぞ。体がガチガチじゃないか」
荒井の大きな手が、麻衣の背中に伸びる。
ビクリと肩が跳ねた。
しかし荒井は気にする素振りもなく、その背中に手を置くと、グイグイと押し込み始める。
「いいからもっと力を抜け。そう、それでいい!」
指導という名目なら、教師として正当な行為に見えるかもしれない。
だが、直斗の目はごまかせなかった。
背中を押すふりをして、肩に置いた手が必要以上に長くとどまっている。麻衣が嫌悪と緊張で身を強張らせているのが、遠目にもわかった。
小さく首を振り、体を引こうとするのに、荒井は「ほら、しっかり伸ばせ」と笑いながら、逃がさない。
(あの野郎――!)
直斗の体温が、一気に跳ね上がった。血が逆流するような怒りが、脳天を突き抜ける。
二人に駆け寄って腕を払いのけ、その顔を殴り飛ばしてやりたい
衝動に拳を握り、一歩踏み出す。
けれど、すぐに足が止まった。
いま最も重要な目的は、荒井を責めることじゃない。
奴から北川先生との関係を聞き出すことなのだ。
一時の感情に流されて大騒ぎをすれば、その機会は永遠に失われてしまう。




