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第5話 取調室は灰色

「緊張してる?」


一ノ瀬刑事がやさしく声をかけ、紙コップを机に置いた。


「ココア。甘いから、少し落ち着くよ」


「……ありがとうございます」


両手でコップを包む。温かさは確かにあるのに、指先の震えは止まらない。


いきなりココアを出すなんて、まるで子ども扱いだ。

今の直斗には、そんな気遣いですら、警察の罠に思えた。


「あんまり居心地よくないかもしれないけど、別に君を犯人扱いするわけじゃないから、安心してね」


冗談のつもりらしいが、まったく笑えない。

むしろ顔が引きつってしまう。


「昨日の夜、何があったのかを聞くだけだからね。――最初に、名前と年齢、職業を教えてください」


直斗はフルネームと、年齢、中学三年であることをぼそりと言った。


「オーケー。じゃあ滝沢君、昨日の夜、屋上にいた理由を聞かせて」


「……天体観測です。天文部の活動で」


「何時ごろから?」


「だいたい、午後七時くらいです」


「その場にいた部員は?」


「自分の他は、部長の七瀬さんと」


直斗は、天文部の部員全員の名前をそのまま挙げた。

当然、嘘はない。

だが、何気ない会話の最中でも、あらぬ疑いをかけられそうな居心地の悪さがあった。


「なるほど。機材を全員で運んで、同時に屋上へ出た、と」


「はい。七瀬部長が、先生から預かった鍵で扉を開けました」


「先生って、顧問の田中先生? 先生は観測に参加しなかったの?」


「最初はいなくて、後から様子を見に来て、それからはずっと一緒でした」


「後から来た――?」


一ノ瀬刑事が、細い眉をピクリと動かす。


「それは何時ごろ?」


「……七時三十分ごろだと思います」


その瞬間、ずっと立って聞いていた山田刑事が、低い声で割り込んだ。


「ごろだと思います、か。じゃあ、確実じゃないんだ」


「……いえ、天体の動きを観測するのに時計をこまめに見てたので、間違いないです」


「ああ、そう」


山田刑事は一度だけ頷き、それきり何も言わない。

だがその視線は、じっと直斗の顔に注がれて離れなかった。


見られている――


何を考えているのか、どこで嘘をつくのか。それを待っているような目だった。


「では質問に戻るけど、事件が発覚するまで何をしてたの?」


「天体望遠鏡で観測を続けてました。そうしたら、八時過ぎごろ、七瀬部長が何かを見て驚いて、双眼鏡を落としたんです。それを拾って、旧校舎の方を見ました」


「なんで旧校舎を?」


「七瀬さんが見ていた方角に、レンズを合わせただけです」


「で、双眼鏡には何が映った?」


来た

喉の奥で唾を飲み込む。


「……旧校舎の二階の廊下を、誰かが走って逃げていくのが見えました」


「方角は? どっちからどっちへ?」


「えっと……右から左です」


「それ、知らない人だった?」


「顔は見えませんでした。距離があったし、暗かったので」


「他には?」


「廊下に人が倒れているのが、窓越しにちらりと。でも、うつ伏せだったので誰かはわかりませんでした」


一ノ瀬刑事はこまめにメモを取りながら、聴取を続ける。


「それからどうしたの?」


「様子を見に行こうと、屋上から走りました」


「真っ先に、一人で。怖くなかった?」


「考えなかったです。人が倒れてるのはわかったので、とにかく助けなきゃと」


本当は『廊下を走って逃げる武』のほうが気になったのだが、もちろん、何も言わなかった。


「で、廊下で何を見たの?」


「倒れている北川先生を見つけて、助け起こそうとしました」


「亡くなっているとは思わなかった?」


「……そんなこと、は思いません」


「現場に、他に人影は?」


「いません。あとから田中先生や七瀬さんが来ましたが、それまでは俺と北川先生だけでした」


「ふうん」


山田刑事が、低く相槌を打つ。

窓の方を向いたまま、こちらを見ない。

だが次の瞬間、唐突に振り返った。


「で?」


「え……」


「“誰か”って、便利な言葉だよなあ」


口元が、わずかに歪む。


「知らない人でした、で済むもんな」


「……だから、顔が、よく見えなかったので」


「見えなかった、ねえ」


ゆっくり近づいてくる。

靴音がやけに大きく響いた。


「暗かったから?」


「……はい」


「へえ、でもさあ」


山田刑事は直斗のすぐ横に立ち、机に手をついた。

逃げ場を塞ぐような位置だった。


「おじさんたちもね、ちゃんと確認してるんだよ。君がいた屋上から、同じ型の双眼鏡で。結構、はっきり見えたんだけど」


「……あっという間だったので」


「ふうん。じゃあさ」


間髪を容れずに、聞く。


「きみ、視力、いいよね?」


「……はい」


「だよなあ。その逃げてった奴、顔は無理でも、服とか、体格とか、歩き方とか。なんかあるでしょ、普通」


「本当に一瞬で……でも、黒っぽい服でした」


「黒っぽい、ねえ」


中学生だからと軽く見て、馬鹿にしているのか。

直斗は、山田刑事の露骨に不遜な態度が、とにかく不快だった。


「で? 本当にそれだけ?」


「それだけです!」


直斗は少しムキになって答えた。


そして沈黙。

山田刑事はしばらく直斗を見つめ、やがて小さく息を吐いた。


「……まあいいか」


そう言いながらも、納得した様子はない。

窓の方へ戻りかけて、ふと思い出したように、唐突に振り返る。


「ああ、そうだ。七瀬さん、いたよな。部長の」


直斗の心臓が、一拍、強く鳴った。


「あの子もさ、犯人の顔は見てない、って言ってるんだよな」


軽い口調だったが、その目はまったく笑っていない。


「おかしくない? 同じ双眼鏡で見てるのにさ。二人とも顔がわかりません、って」


「それは……七瀬部長のことは知らないですけど、俺は本当に見てません」


「本当かぁ、それ?」


「は、はい……」


まるで凶悪犯を尋問するような乱暴さ。

さすがに見咎めたのか、一ノ瀬刑事が「警部補、ちょっと――」と小声でたしなめた。


山田刑事は「おう」と頷き、窓側に戻る。


「まあ別に、犯人を庇う理由もないもんなあ、君には」


だが、今の刑事の話が本当なら、やっぱり麻衣はあの時、武の姿を見ていないことになる。

それがわかっただけで、胸が軽くなるのを感じた。


結局、その後も、直斗は武のことは黙ったまま通した。


そして――


取調室を出た。

頭はぼうっとして、口の中がカラカラだった。


けれど、ほっと安心する暇は一秒も続かなかった。

ロビーで待っていた奈美恵が、苛立った様子で直斗を睨みつけてきたのだ。


「本当にもう……」


それが第一声だった。

直斗をいたわる気持ちは、微塵も感じられない。


「どうだったの、何を聞かれたの?」


「別に、昨日のこと話しただけだよ」


「まったく、面倒なことに巻き込まれて」


直斗には、母がいつも以上に不機嫌な理由がわかっていた。

高校受験を控えた三年で、急に天文部へ入ったことが、前から不満だったのだ。


そこへ、今回の事件。

間が悪いなんてものじゃない。


「……だから言ったじゃない。今さら部活なんてやめときなさいって」


奈美恵は、ほら見たことかという顔で、大きなため息をついた。

直斗はムカッときて、強く言い返す。


「そういう言い方ないだろ! 北川先生が亡くなったのに」


「それはお気の毒だったけど、これとは話が別」


「別じゃないって!」


「もう口答えはいいから、どうせしばらく天文部も活動できないだろうし、この先は受験に専念しなさい!」


争う気力もなかった。

長い取り調べで、身も心も疲れ切っていた。


「さあ、帰るわよ。学校は明日から再開するそうだから、きちんと登校しなさい」


奈美恵はさっさと出口へ向かう。

直斗はその背中を追いながら思った。


俺は、警察に嘘をつき通した。


あの場所に武がいたことは、たぶん自分以外、誰も知らない。

もちろん、親にも言わない。


――もう、後戻りはできない。


取調室の椅子の冷たさが、まだ背中に残っている気がした。

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