第4話 蒼白の光の下で
闇にぼんやり浮かぶ旧校舎の空き教室は、一枚の静止画のように動きがなく、そこだけ時間が切り離されたようだった。
古びた蛍光灯の冷たい光が、部員たちの顔から色を奪う。
叫ぶ者も泣き出す者もいない。
ただ暗い沈黙だけが、教室の空気を重く淀ませていた。
やがて遠くの廊下から、慌ただしい足音と、無線機の短いノイズが聞こえてきた。
警察が、校内へ入ってきている。
これは夢じゃない。
本当に、目の前で起きていることなのだ。
その現実が、じわじわと神経を締めつける。
「みんなここで待ってて。勝手に動かないで」
部長として、部員たちに指示を出す麻衣。
その声は、ずいぶん落ち着いていた。
だがどこか乾いていて、言葉だけが先に転がっていくようにも聞こえる。
直斗はその背中を見つめながら、屋上で見せた真っ青な横顔を思い出した。
双眼鏡を落とした、あの瞬間の表情を。
今なら聞ける。
いや、聞かなければならない。
どうしても、麻衣と二人で――
ざわめきが一瞬緩んだ隙に、直斗は麻衣の袖を軽く引いた。
「……麻衣。来て」
麻衣は迷うように視線を揺らしたが、小さく頷いた。二人は教室の後方へ移動する。
ロッカーの陰は蛍光灯の光が届かず、影が濃く落ちていた。
誰にも聞かれない距離まで近づいた時、麻衣の息遣いがわずかに乱れていることに気づいた。
「……さっきさ」
声を、極限まで落とす。
「双眼鏡で……何を見た?」
麻衣の肩が、はっきりと震えた。
その反応だけで、答えはもう半分わかってしまった気がして、直斗は胸が苦しくなった。
「……見ちゃった」
麻衣は、ほとんど囁くように言った。
声はひどく細く、今にも切れそうだった。
「屋上から、旧校舎の廊下を……北川先生が……」
一度、言葉が途切れる。麻衣は自分の白い腕を強く抱きしめた。爪が食い込み、指先が赤くなる。
「……誰かに、襲われていた。首を絞められて」
その一言が、直斗の中にかろうじて残っていた希望を踏み潰した。
わかってはいたが、これは間違いなく殺人だ。
「先生、すぐにぐったりして……倒れた」
思い出したのか、麻衣の瞳が遠くを見るように揺れた。
直斗は、それ以上の描写を聞いてはいけない気がして、言葉を挟めなかった。
「……犯人の顔は?」
沈黙の後、直斗はそう尋ねた。声が上ずるのが自分でもわかる。
麻衣は一瞬言葉に詰まり、そして言った。
「……見てない」
「ほんと?」
「うん、犯人は後ろ向いてて、背中しか見えなかった。それで驚いて、双眼鏡落としたから……」
そう言うと、口を閉ざした。
その硬い表情から、これ以上話したくないという強い意志が伝わる。
それでも直斗は大きく息をつき、胸を撫で下ろした。
麻衣が犯人の顔を見ていない以上、まだ武が犯人と決まったわけではない――
そう考えたからだ。
「俺も、犯人の顔は見えなかった」
直斗は嘘をついた。
殺人現場を目撃しただけでも十分ショックなのに、それが武だったと知ればどうなる?
繊細な麻衣の心は、取り返しのつかないほど傷ついてしまうだろう。
「誰かが倒れてるのと、走って逃げる人影だけは見えた。遠かったし、あっという間だったから」
「そう……」
麻衣の表情が、ほんの一瞬だけ安堵で緩んだように見えた。だがそれもすぐに、元の暗さに戻ってしまう。
二人の間に、再び沈黙が訪れた。
ほんのわずかな間だったかもしれない。
だが直斗には、その時間が異様に長く感じられた。
「とにかく、これから警察にいろいろ聞かれると思うけど、麻衣には俺がついてる。それに、武も」
ようやく口を開く。
あえて武の名を出したのは、麻衣の反応を見るためでもあった。
「うん、そうだね」
表情と声に、わずかに生気が戻る。
やはり、武のことは言わないで正解だった。
後は、一刻も早く武本人に会わなければならいと、直斗は思った。
あんな時刻になぜ旧校舎にいたのか、できれば警察に事情を聞かれる前に、理由を確かめたかった。
「えーと、みんな、ちょっといいかな?」
その時、教室の入り口の引き戸が乾いた音を立てて開いた。
中学校には場違いな制服を着た警官が、室内に入ってくる。
直斗は麻衣から離れ、近くの席に静かに腰を下ろした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日は夜も遅いという理由で事情聴取は見送られ、直斗たちはパトカーでそれぞれ家へ送り届けられた。
翌日、学校は臨時休校になった。
校内で起きた殺人事件
しかも被害者が若い女性教諭という事実は、過剰なほどセンセーショナルに報じられ、校門前には朝から報道陣が詰めかけた。
教職員はその対応に追われ、さらに午後には、保護者説明会が行われることとなった。
だが、直斗と母の奈美恵はそこにいなかった。
向かっていたのは、最寄りの警察署。
もちろん、事件の事情聴取のためだ。
未成年の聴取には保護者の同席が原則――
しかし、奈美恵はロビーで待つよう指示され、取調室に入ったのは直斗一人きりだった。
取調室は、想像以上に狭く、息苦しい。
灰色の壁、金属の机、床に固定された椅子。
高い位置の小さな窓から差す光が、時間の感覚さえ曖昧にする。
直斗は椅子に座らされ、机越しに二人の刑事と向き合った。
一人は五十代半ばだろうか。
腹の出た体型に、くたびれたスーツ。目つきは鋭く、黙っているだけで圧がある山田という刑事だ。
もう一人は若い女の刑事で、一ノ瀬と名乗った。整った顔立ちに穏やかな口調。
でも、この人も、目は笑っていない。




