第2話 旧校舎の死角
「……大丈夫か、麻衣?」
直斗が呼びかけても返事はない。
麻衣の呼吸は浅く速く、肩がかすかに上下している。
何か信じられないものを見たように、瞳は大きく見開かれ、視線は青白い照明だけが灯る旧校舎に釘付けだった。
「麻衣、どうしたんだよ」
本気で心配になって一歩近づいた、その瞬間。
麻衣の指から双眼鏡が滑り落ちた。
――ガチャン。
金属の鈍い音が、静まり返った屋上に響く。双眼鏡はコンクリートで一度跳ね、転がって止まった。
「お、おい……!」
慌ててしゃがみ、双眼鏡を拾った。
レンズの傷を確かめて顔を上げると、麻衣はまだそこに立ち尽くしていた。
血の気の引いた真っ青な顔で、唇が震えている。何か言おうとして、声にならない。
「麻衣、ほんと、どうした?」
問いかけると、麻衣は黙ったまま二、三歩後ずさった。その動きはどこか機械的で、さっきまでとは別人のようだった。
いったい、何を見たんだ――?
直斗は、麻衣が見ていた旧校舎へ視線を向けた。
一瞬、その中で何かが動いた気がした。
だが、この屋上からでは遠すぎる。
双眼鏡を、麻衣の視線の先へ向ける。
夜の闇に沈む旧校舎の二階が、ぼんやりと浮かび上がった。
まず目に飛び込んできたのは、青白く薄暗い蛍光灯に照らされた廊下の床の端に転がる、不自然な塊。
誰かが倒れている――女性らしい。
窓の下の壁に隠れていて、見えるのは灰色のスカートと、突き出した足だけだが、まったく動く気配がない。
「え……?」
息を呑んだ次の瞬間。
倒れた人物から数メートル離れた場所に、黒い人影があった。
背が高く、がっしりした体格の男。
男は踵を返し、倒れた人とは反対方向へ、滑るように廊下を走り去っていった。
直斗は、その顔とシルエットを瞬時に認識した。
武――!?
双眼鏡の先に映ったのは、間違いなく親友の尾崎武だった。
なぜ、こんな時間に旧校舎にいて、何から逃げている――?
直斗の思考はそこで止まった。
だが、その「何か」が、廊下で倒れている人物と関係があり、今この瞬間、異常な出来事が起きたことだけは間違いなかった。
直斗は双眼鏡を麻衣の胸元に押し付けると、みんなに何も告げず駆け出した。
屋上の鉄扉を力任せに開け、階段を一気に下る。
「おい、滝沢、どこ行くんだ!」
田中先生の声が屋上から響いた。だが、直斗は振り返らなかった。
心臓の鼓動が耳の奥でガンガンと鳴り響く。
グラウンドを突っ切り、旧校舎へ急ぐ。
夜が輪郭を曖昧にしたその建物は、黒い巨体のように佇んでいた。
人影はなく、辺りは静まり返っている。
旧校舎の、古びたスチールの両開きドアは閉まっていたが、施錠はされていない。
嫌な予感を押し込め、薄暗い校内へ踏み込んだ。エントランスは非常灯にぼんやり照らされ、くすんだ黄色に染まっている。
階段を駆け上がり、二階へ。奥へ進むほど、ますます動悸が強くなる。
長い廊下の先――
武の姿を見かけた場所を少し過ぎたあたりで、誰かが仰向けに倒れていた。
足が、ぴたりと止まる。
やはり女性だった。
紺のジャケットに白いブラウス。細身のスカート。長く艶やかな黒髪。
「北川、先生……?」
英語教師の北川京子だった。
直斗は、貧血か何かで倒れただけだと、必死に言い聞かせる。
武も先生を見て、慌てて助けを呼びに走ったのかもしれない。
「先生、大丈夫ですか!?」
膝をついて、肩にそっと手をかけると、まだ温かい。
「先生、北川先生!」
呼びかけながら、身体を支え、起こそうと傾ける。
その時だった。
廊下の青白い光が、彼女の顔と細い首筋を照らし出す。
北川先生の瞳は半ば開いたまま、虚空を見つめていた。
その表情には、恐怖や苦痛が凍りついたように張り付いている。
そして乳白色の、華奢な首。
直斗の視線が、そこに吸い寄せられた。
息が止まる。
さっきまで双眼鏡を握っていた手が、今は空っぽのまま小刻みに震えている。
それでも、首筋に鮮明に残るその痕から、目を離せなかった。
皮膚は濃い赤紫に変色し、周囲も不自然な土気色に変わり始めている。
まるで、そこから生命が抜き取られたことを告げるように。
直斗の喉の奥から、乾いた息が漏れた。
全身が一瞬で硬直する。触れている手のひらから、氷のような冷たさが神経を逆流していく。
気絶なんかじゃない。
死んでいる――!
その理解が、脳を焼いた。
大声で叫び出しそうになるのを、奥歯を噛み締め必死にこらえた。
自分の身体なのに、もう力が入らない。
その場に立ち尽くしていると、本校舎側の通用口から、慌ただしい足音が響いてきた。
「滝沢、何があった!」
田中先生の緊迫した声が飛び込んでくる。
だが、答えられなかった。
「直斗!!」
遅れて駆けつけた麻衣も、途端に言葉を失った。視線が、床に横たわる北川先生を捉えたのだ。
「あ……!」
青白い顔から、さらに血の気が引いていく。
田中先生でさえ、すぐには状況を理解できないようだった。
「きゃああっ――!!」
甲高い悲鳴を上げたのは、麻衣を追ってきた一年の星野恵だ。
「星野、静かに!! 滝沢、そこをどいてくれ!」
田中先生は直斗を押しのけ、北川先生のもとへ駆け寄り抱き起こそうとした。
だが首筋に浮かぶ赤紫の痕を見た瞬間、その顔が絶望と戦慄に歪む。
それでもなお、思い切ったようにブラウスの袖をまくり、手首の脈を確かめた。
さらに呼吸も確認したが、やがて顔を上げ、首を横に振った。
「七瀬、急いで職員室へ……誰か残っているかもしれない。いや待て! 一人では危ない。滝沢と一緒に、いや、それでもまずいか……」
言葉が空回りする。
「……くそっ、とにかく救急車――あと110番だ。大丈夫、それは先生がやる」
こんなに取り乱した田中先生を見るのは、直斗も初めてだった。
経験したことのない異常事態に、若い顔が強張っている。
「先生、わたし、屋上に戻ってみんなを――」
部長としての責任感からか、麻衣が新校舎へ戻ろうとする。
しかし、その必要はなかった。
好奇心と不安に駆られた部員たちが、屋上から次々とこちらへ向かってきていたのだ。
足音とざわめきが、廊下の向こうから近づいてくる。
「……仕方ない。七瀬は生徒たちをまとめて、空き教室で待機していてくれ。ここはできるだけ見せるな。あとは先生に任せて、いいな?」
部員たちを前にして、田中先生は何とか落ち着きを取り戻そうと、無理に立ち上がり、ポケットからスマートフォンを取り出した。
震える指で画面を操作すると、すぐに電話は繋がった。
「はい、こちら……○○中学校です。旧校舎に教員が倒れていまして。ええ、おそらく……亡くなっています」
そのやりとりを聞きながら、直斗は、暗闇を走り去る武の姿を思い返していた。
さっき双眼鏡で見た光景、悪夢のように何度も蘇る。
武が、やったのか。
本当に、あの武が――?
その問いを抱えたまま、直斗の意識は、遠い日の記憶へと引き戻されていった。




