第1話 殺人観測
放課後の学校が、ゆっくりと闇に沈みはじめた。
六月の風はほんのわずかに湿っていて、川のほうから吹き上がる匂いが、梅雨の近いことを告げている。
新校舎の屋上へ続く重い鉄扉を押し開けると、足元のコンクリートに夕暮れの濃い藍色が滲んでいた。
まるで自分ひとりだけが、青い異世界に紛れ込んでしまったような――
そんな奇妙な感覚に、直斗は一瞬とらわれた。
始まりは、今年の春のことだ。
直斗が通う中学の天文部で、部員が一人転校し、欠員が出た。
その際、直斗は、幼馴染でクラスメイトでもある天文部部長、七瀬麻衣から入部を頼まれたのだ。
本当は星空になど、直斗はこれっぽっちも興味はなかった。
夜空に散らばった無数の光の名前を覚えるより、教室の窓から外をぼんやり眺めているほうが、まだ好きだった。
中学三年にもなって新しい部に入るのも、まわりから見れば少々不自然だったかもしれない。
けれど、直斗は二つ返事で入部を決めた。
他人の目なんてどうでもよかった。
麻衣がそこにいる――
理由は、それで十分だった。
静寂に包まれた屋上。
部員たちが望遠鏡のレンズを調整し、双眼鏡のピントを合わせ、今年二回目の天体観測会の準備を黙々と進めている。
だが、直斗にとっては、これが生まれて初めての天体観測だ。
何をどうしてよいか、まるでわからない。
「直斗、星図の向き、まだ覚えてないんでしょ」
すぐ後ろから声が降ってきた。
振り返らなくても誰だかわかる。
麻衣だ。
光沢のある黒髪を低い位置でひとつに結び、今日は制服の上に薄い紺のカーディガンを羽織っている。
日が落ちた校舎の屋上に吹く風は、昼間の熱を忘れたように冷たかった。
「覚えてる。たぶん」
直斗は、わざと素っ気なく麻衣に答えた。
「たぶんって何よ。ほら、もう北斗七星が肉眼でも見えてるでしょ。柄杓の形、わかる?」
「それくらいは、さすがに」
「……ふうん」
麻衣が、わざとらしく鼻を鳴らす。
挑発というより、半ば呆れて、それでいてどこか楽しんでいる。
他愛のないやり取りのはずが、気がつけば言い争いになる。いつもそうだ。
幼いころからの癖のようなもので、どれだけぎくしゃくしても、麻衣が近くにいると直斗の中で何かが動き出す。
夜空へまっすぐ向けられた彼女の横顔を、薄暗い光が照らしている。
直斗は、その顔を見るだけで胸の奥が痛くなった。
その時、ふいに、背後で扉の開く音がした。
「よお、みんな。観測は順調か? 遅れてすまんな。校務が長引いてしまった」
軽い声とともに現れたのは、両手いっぱいに観測器具を抱えた顧問の田中先生だった。
まだ二十代後半の若い社会科教師で、背が高くスポーツマンタイプ。
バスケ部の顧問も掛け持ちしていて、女子からの人気は相当高い。
「もちろんです。夜の学校を使う許可、取っていただいたので」
麻衣が笑顔で答えると、先生はうんうんと頷いた。
「今日はよく見えるぞ。湿度は高いが、上空の風が安定してる。せっかくだ、月も観ておこう。写真も撮ろう。――七瀬、悪いが器具の調整を手伝ってくれ。追加でいろいろ持ってきたから」
麻衣は「はい」と返事をして駆け寄り、望遠鏡や三脚を受け取って地面に広げ、一緒に設置を始めた。
その少し弾んだ、嬉しそうな様子を見て、直斗の心はほんのわずかにざわめいた。
「おい、滝沢も覗いてみろよ。新入なんだから、望遠鏡で見る月は初めてだろ?」
田中先生が、そんな直斗に声をかけた。
新入部員として、どうにもよそよそしさが抜けない感じを見兼ねたのだろう。
促されるまま、直斗は接眼レンズを覗き込んだ。
その瞬間――視界いっぱいに鮮烈な白い光が満ちた。
土で覆われた月の表面に、無数のクレーターが刻まれ、影がくっきりと浮かび上がる。
圧倒的な立体の世界が、そこにあった。
「……すごい」
漏れた一言が、少し恥ずかしい。先生は満足そうに笑い、麻衣がからかう。
「珍しい。直斗が感動してる」
「当たり前だろ」
「え、普段は絶対ないでしょ。いつも斜に構えてるくせに」
部員たちの他愛ない笑いが起こり、温かい空気が屋上にふわりと広がった。
――この雰囲気、悪くない。
騒がしいわけでも、特別なことが起きているわけでもないのに、胸の奥がじんわりとしてくる。
「じゃあ交代で他の星も見よう。滝沢は初めてだから、慣れるためにその望遠鏡を一人で使っていい。七瀬と組んで南の空を頼む」
先生の配慮で、直斗は望遠鏡をひとり占めできることになった。
器具一式を抱えて屋上の南側へ移動し、麻衣に手伝ってもらいながら設置する。
それからレンズを覗き、見よう見まねでダイヤルを回すと、偶然にも宝石のように輝く一等星が視界に飛び込んできた。
だが、じっと星を見ていると、不思議ことに気がつく。
ピントを合わせたはずの星が、ゆっくりと視界の端へと移動していくのだ。
数分もしないうちに、その星は枠の外へと消えてしまった。
「……あれ? 星がなくなった」
「なくなった、じゃない。動いてるの」
そばにいた麻衣が、くすりと笑った。
手には、部の備品の黒い双眼鏡がある。
「高倍率にすると、地球が自転してるスピードが目で見えるの。星が動いてるんじゃなくて、私たちの乗ってる地球が猛スピードで回ってるってわけ。それくらい常識でしょ?」
「でも……こんなに速いのかよ」
直斗はもう一度、星をファインダーの中央に入れてみた。
宇宙の広さと、地球が動いていることが、なんとなく実感できた気がする。
その間も麻衣はそばを離れず、ペンライトの光で手元を照らしながら、自分のノートに何かを熱心に書き込んでいた。
「なに書いてるの?」
直斗はファインダーから目を離し、ノートを脇から覗き込もうとした。
ページには南東から東にかけての星図らしきものが描きかけで、まだ星は少なく、余白が目立っていた。
「あっ、ちょっと!」
麻衣はびくりと肩を揺らし、ノートをぱっと閉じてしまった。
「見せてよ。その立派な観測記録」
「だめ! まだ書けてないし……それに、直斗には絶対見せない」
ノートを胸に抱え込み、少し恥ずかしそうにそっぽを向く。
「なんだよ、ケチ。減るもんじゃないだろ」
「そういう問題じゃない! 天文部に入ってからずっとつけてきた大切な天体ノートなんだから。……もう、直斗、早く自分の観測に戻りなよ」
直斗は見るのを諦めて、肩をすくめ、望遠鏡に向き直った。
だが、今度はなかなかうまくレンズで星を捉えることができない。
「おかしい、星が全然視界に入ってこない。なあ麻衣、織姫と彦星ってどこら辺にあるんだ? 俺の知ってる星の名前ってそれくらいなんだけど」
「……天文部員ならそれくらい覚えなよ。織姫はベガ、彦星はアルタイル。直斗、レンズを南東に向けてみて」
麻衣は自分の双眼鏡を空へ向けた。直斗ももう一度ファインダーを覗く。
「自分で探してみて。一等星なんだからすぐ見つかるはず。――ほら、ベガもアルタイルも、デネブもあった。その三つの星が有名な夏の大三角形を作ってるの」
麻衣は、早くもその大三角形を見つけたらしい。
「わかった」と頷いた直斗は、改めて望遠鏡を南東へ合わせた。
ダイヤルを回し、懸命に光を探す。
だが、やはりレンズに映るのは真っ暗な夜空ばかり。
直斗はすぐに諦めて、ファインダーから目を離した。
「やっぱ俺じゃ無理だ。全然見えない。麻衣、ちょっと代わって――」
腰を伸ばして横を向く。
だが、彼女はもう空を見ていなかった。
双眼鏡を水平よりやや下に構え、はるか向こうを見つめている。
レンズのピントは、グラウンドを挟んだ六十メートル先――旧校舎に合っているようだった。
「おい、麻衣。何やってんだよ。天体観測は?」
返事はない。
様子がおかしい。
麻衣の双眼鏡を握る両手が、小刻みに震えている。
時刻は、ちょうど午後八時を回ったところだった。




