89 願いの前提
久しぶりに踵の高くない靴で走って、軽く上がった息を整える。
「……義姉上、止めないで下さい」
「えっと、どこへ行く気ですか? リベラ殿下」
いつも完璧に整えられているのは、レイチェル様と共通の仕様だ。そんな王子様が、いつもキッチリと撫で付けられている前髪さえ、おろしたまま、怒り、焦り、悲しみ、色々な感情がごちゃ混ぜになったような表情のまま振り返った。
「シュルツ侯爵家は、すでにもぬけの殻で、レイチェルとディルクと、偽物の王立騎士団しかいなかった。確実に、長い期間準備されていたんです」
それは、そうだろう。以前の人生の経験も、記憶も取り戻したアレス殿下にすら、尻尾を完全に掴むことが出来なかった。周到な準備をしていたに、違いない。
そう、悪役令嬢ルルーシアと、第一皇子アレスを追い込んだ時のように。
「……ところで、俺の傷、治ってますよね」
「そっ、そうね! アレス殿下が治してくれたわ」
「……レイチェルだけ、守れればいいと、あの瞬間覚悟していたんですよ。俺を誰だと思っているんですか?」
「魔術師ギルドの、最高責任者……リベラ・ロレンディア第二王子殿下です」
いつもキッチリと閉めているのに、今日は半ば開いたままの詰襟をリベラ殿下のスラリと長い指が掴んだ。
そこには、うっすらと黒い跡が残っているだけだった。だって、その半分は、レイチェル様が。
魔術の深淵に、今現在、王国中の誰よりも近いのが、リベラ殿下だ。彼ほどの力を持ってしても、死を覚悟するほどの呪いと傷。
「……あの傷が、癒えることはないはずだった。だから、周囲を巻き込むと分かっていながら、レイチェルを救うために力を使ったんだ。今、俺がここに立っていることは、もうないはずだった。傷と傷を治癒するのを妨げる呪いを、分離でもしない限り」
――――ほらぁ、流石に正解に限りなく近いところまで、辿り着いていらっしゃる。あと少しで、答えは出てしまう。
「呪いの無効化は、あそこまで複雑な術式であれば、いくら兄上や闇の精霊様の力を使ったって、不可能なんですよ。そうでしょう? 義姉上」
「…………それは」
その時、後ろから、トンッと軽い足音がした。
「その通りだ。だが、それを知ってお前はどうする?」
「っフェイ」
モフモフに埋もれていたはずの、アレス殿下はどちらに?!
「ん? アレスなら、お前が離れた途端、目を覚ましたぞ? そのまま、フラフラしながら、ルドルフのところへ行った。笑ってたけど、たぶんあれは、すごく怒ってたからな?」
笑顔のまま、すごく怒ったアレス殿下、恐ろしい以外の言葉が出ない。
「まあ、それはさておき。リベラ・ロレンディア、お前は何を願う?」
「フェイ?」
精霊の提示する選択肢は、人生の岐路に現れる。
その答えによって、その後の人生は、大きく変わってしまう。私たちのように。
「魔術師ギルドの最高責任者として、得た情報から導き出されたのは、竜の魔力が災厄を引き起こす可能性だ。それを未然に防ぎたい」
「ふーん。ところで、レイチェル嬢を守ろうとすると、その難易度が格段に上がるぞ?」
「前提が間違っている。レイチェルのために、願うのだから」
「公明正大で、つまらない男だと思っていたのにな。聞いていたんだろう? 姿を消す前に、きちんと話し合え」
ズルズルと、黒い塊が、一瞬でこちらに引き寄せられる。
その直後には、蜘蛛の糸のような、それでいて闇のように黒い糸で、がんじがらめになったレイチェル様が、涙目でフェイを睨みつけていた。
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