41 恋に落ちる音。
馬車の中で、なぜか向かい側ではなく私の隣に座ったアレス殿下は、辛そうに息を吐く。
それなのに、私は自分にできることがわからずにオロオロするばかりで情けなくなる。
「ルル……」
そんな私の心中を、知ってか知らずか、アレス殿下が私に微笑む。
「はい、アレス殿下」
「ちょっとだけ、休んでもいい?」
もちろん休んでほしい私は、二つ返事で「休んでください!」と言った。
その瞬間、少しだけ俯いたアレス殿下が「じゃあ、遠慮なく」とつぶやいた。
「はぇ?!」
直後、なぜか私の膝の上に頭をのせてきたアレス殿下。
向こうを向いて頭をのせているから、その表情は見えないけれど。
あわてて、身じろぎしたのに、どいてくれる様子はない。
魔力が枯渇しているから、ものすごくだるくて苦しいのはわかるけれど、この状況は?
アレス殿下が、その頬を私に摺り寄せる。
「ひゃ?!」
馬車の進む、ガタゴトという音だけが、車内に響いている。
少しの沈黙の後、少しためらったようにアレス殿下が口を開く。
「――――ルルーシア……君のためなら、俺はなんだってできる」
それは、眠りかけた人の寝言のような、それでいて本心を伝える絞り出すような言葉だった。
「――――アレス殿下?」
「どんな残酷にも、どんな薄情にもなることができる。だからたぶん、ルルが思っているような人間じゃないんだ俺は……」
小説の中の、アレス殿下は、婚約破棄直前からルルーシアとは距離を取り、いつも冷たく接していた。
その肩には、いつも王太子としての重圧がかかっていたし、そうでありながらルルーシアを何としても守りたいという思いがあったのだとわかる。
でも、第一王子アレスは、志半ばで、死を迎える。
ルルーシアのために、あまりにあっけなく。
「――――ルルのためなら、今度こそすべてを犠牲にしたって構わない」
「っ……アレス殿下」
そこまで言わせてしまって、いいのだろうか。
……良くない。絶対にそんなのだめだ。
アレス殿下が、自分のことをなんて言おうと、やっぱり太陽のようなその笑顔も、誰よりも努力したその剣も、王族としての心も……。
「――――私は、今のアレス殿下が好きです……。でも、あの時のルルーシアだって」
そっと、柔らかい金色をしたその髪の毛を撫でる。
第一王子の婚約者として、ふさわしくありたいから、その仮面の下に隠し通してきた気持ち。
私は、その気持ちを誰よりも知っているから。
「ルルーシアだって、誰よりもアレス様をお慕いしていました……」
「え?」
「政略による婚約でしたが、一目お会いした時から心からあなたに惹かれていたんです。ルルーシアは、アレス様のことを、心から愛していました。っ……だから、私のことを忘れてしまう上に、『今度こそ好きになって』と言うなんて、ひど過ぎます。だって、ずっと好きだったのに。どんな目にあったって、私はあなたと一緒にいたかったのに」
思わず起き上がろうとした、アレス殿下の頭を抱きしめるようにして、押しとどめる。
これは、今の私の言葉ではない。悪役令嬢としてその生を終えた、それでもたった一人が好きで、その人のために第一王子の婚約者という立場にしがみついた、一人の少女の言葉だ。
膝が、冷たく濡れていく感触がした。
だまって、その髪の毛に口づけを落とす。
「でも……すべてを失ってもいいなんて言わないで。あの時の私には、戦う力がなかったけれど、今は違うから。アレス殿下の後ろで守られるだけなんて、もうしないから」
アレス殿下の瞳が、あんなふうに陰ってしまうなんて、私は望まない。
キラキラと透明に輝く、サファイアのようなその瞳が大好きだから。
「王太子としての仮面をいつもかぶっているくせに、冒険者クラスや私と過ごす時間には、屈託なく笑ってくれることも、すべてが宝物みたいだから。何があったとしても、もうこの時間を失ってやり直したいなんて思わない」
「ルル……」
「ありがとうございます。私に、こんな素敵な時間をくれて。私は今、あなたのおかげで幸せです。アレス様……。だから、今度は私と一緒に運命に一緒に抗ってくださいませんか? あなたを一人で戦わせたり、しないから」
だまったまま摺り寄せられる頬がくすぐったい。
大好きなアレス殿下。時々見せる姿は、子犬のようでかわいい。
「ずるい……」
「へ?」
急に、アレス殿下の声が、低く不機嫌なものになった。
どこかに、いつもおおらかで、私のしでかすことを、いつも笑顔で許してくれるアレス殿下が、こんなに不機嫌になる要素があったのだろうか。
――――しかも、ずるいとは?
「俺のことは、殿下呼びのくせに」
「は……?」
少し潤んだままの瞳で、アレス殿下は今度こそ起き上がって、真正面から私のことを見つめた。
何がずるいのか、理解に苦しんだ私は、小首をかしげて、少しだけ光を失っているような気がする、その瞳を見つめ返した。
光を失ったとしても、その瞳は、夜が明ける直前の空の色みたいで、どんな景色とだって比べることができないくらい美しい。……動きが鈍くなってしまった思考回路で、そんなことを考える。
「過去の俺のことを、アレス様って呼ぶなら、今は、アレスって呼んで」
――――は? なんですかそれ。アレス殿下は、王族で、第一王子だからアレス殿下です。
「今すぐに、王族の地位なんて捨ててしまえば、アレスって呼んでくれる?」
――――は? なんですかそれ。心を読みました?
「俺だけが、ルルと呼ぶなんて切ない。ルル……アレスって呼んで」
顔がどんどん熱く茹ってしまう。思わず手の甲で口元を隠したのに、アレス殿下に手首をつかまれて、それすら許してもらえない。
そんな私の表情を見て、余裕を取り戻してしまったらしいアレス殿下が、絶対にあきらめることがないと決めてしまった時にみせる、王族らしい笑顔で私を見つめる。
「愛してる、ルルーシア」
いけない。黙っていればいるほど、おそらく口にしなくてはいけない台詞の難易度が、上がっていく予感がする。
――――今は、私たち二人しかいないから。
私は、たった一度だけ、アレス殿下の最後についての記憶を取り戻した時に呼んだ、王族でもない、第一王子でもない、ただのその名を、勇気を振り絞って口にした。
「ぁ……アレス?」
長い溜息が聞こえる。ちらりとだけ、アレス殿下の顔を見ると、なぜか耳元が赤くなっていて、しかも目元が潤んでいるから、すごい破壊力だった。その瞳が、弧を描いて、本当にうれしいと言っているみたいに、私に微笑みかけた。
「――――うわ」
思わず吐息と一緒に漏れてしまった声。
だって、アレス殿下はいつも一緒に過ごしてきた、大好きな人で。
でも、距離が近すぎるから、かわいい弟とか幼馴染みたいに感じていて。
でも、アレスと呼んだ瞬間、そんな線引きが全部、ガシャンと音を立てて壊れてしまって。
胸がキュウッ……と苦しく締め付けられて、息がうまく吸えないせいで、目が潤んでしまう。
今になってもまだ、悪役令嬢の運命に巻き込みたくないと一線を引いていたことを自覚する。
そんなの全部、無駄なあがきでしかなかったことも。
「名前を呼ばれるだけで、こんなに幸せだなんて」
柔らかく、甘い唇が触れた瞬間に、もう一度、何かが壊れてしまう音が聞こえた。
「ありがとう。もう全部、報われた」
――――そう言ってもう一度笑ったアレス殿下を見た瞬間、心の中でもう一度響き渡ってしまった音は、絶対抜けられないくらい深く、恋に落ちてしまった音なのだと、あきらめるしかなかった。
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