7.靖川の翳りの正体
わしたちはふり向いた。
書類一式を抱えた穂積 さと子が立っていた。
精進苑で一番の古株のケアマネージャー。その懐の深さから職員はもちろん、要支援・要介護認定者をはじめ、その家族からも信頼が篤いことで知られていた。
わしにしたら、いささか実直すぎるのが玉に瑕だったが。
穂積は快活な笑みを浮かべ、靖川の背中をどやした。
「田力さんったら、どうせお得意の話芸で、この子を丸め込んじゃったんでしょ? ダメですよ、靖川はちょっと天然なところがあるんですから。感化されちゃったらどうするんですか」
「話芸だと」
「たった今、田力さんから、すごい話を聞かされたんです。それが衝撃的で」
靖川は穂積を見上げて言った。
「さては、まんまと担がれたでしょ。田力さんは別のレクで弁論大会をさせたら、名人級の語りをして、優勝したことがあるんですから」
瞬間的に鶏冠に来たわしは、すかさず手をかざした。弁論大会だと?
「待ってくれ。わしは真実を言ったまでだ。担ぐだなんて、人聞きの悪い――」
「だったら謝ります。ですが、奥さんの身体に藁が詰められてたなんて。不謹慎すぎます」
「真実を言ったまでだぞ」
わしが抵抗すると、穂積は腕組みし、片方の眉を吊り上げた。
「田力さんの奥さまは、大変残念なお亡くなりになられたとのことですが、おかしな処置はされていないと思います。ちゃんとした法的手続きをとり、埋葬されたはずです。あなたが精進苑へ入居するにあたり、わたし自身がご家族の方と面談したんです。まったく嘘ばっかり」
「全部聞いてたんですか、今の話」
と、靖川。
「田力さんったら夢中になって語ってるんだもの。聞くなという方が無茶な話です」
「妻に異状がなかっただと?」と、わしは眼を剥いて声を荒らげた。「そんなはずはない。なにかの間違いだ。妻にはたくさんの藁が詰まっていた。そんな嘘を並べてなんになる」
「ま」と、穂積は口を開けたまま、ぴしゃりと遮った。「どうやら平行線のようですし、このへんにしときましょう。今後は、くれぐれも若い娘をたぶらかさないようにしてください」
穂積はそう言って、事務所へ戻っていった。
わしの言い分には耳も貸さなかった。
靖川の、憮然たる眼差しを頬に感じずにはいられない。
いたたまれず、わしは下を向くしかなかった。
彼女から発される青白い非難を甘んじて受け容れねばなるまい。
だますつもりは毛頭なかったが、結果的にこの新人看護師を惑わせてしまったようだ。
穂積 さと子は現実社会における理性そのものというわけか。あのケアマネが言うことが絶対のマニュアルであり、無条件に正しいのだろう。
どうやら禍々しい認知症の魔手は、浴室で黒カビが繁殖するようにわしの大脳皮質を蝕んでいたのかもしれない。
ところが茫然自失しているところへ、靖川は明るい笑顔でこう言った。
「わたしは信じてます、田力さんのお話を。あなたは嘘をつく人じゃない」やれ、よかった。靖川は力強く頷いてみせた。わしの手を取った。「藁人間について、わたしにも思い当たる節があります。よかったら、わたしの話も聞いてくれませんか」
「どういうことだね、思い当たる節とは?」
「レクが始まる前、事務所で雑用をしてたんです。カッターナイフを使ってコピー用紙を四分割にする作業をしてたんですが――」
と言って、左手を広げてみせた。
中指に無残な切り傷がパックリ開いていた。縦に裂け、表皮はおろか、赤い真皮まで見えるほどやってしまっている。
それを、包帯も巻かず剥き出しとは……。
「えらいものを、見せてくれるじゃないか」
「手元を誤り、切ってしまったんです。ごつい業務用カッターで。ですがザックリやってしまったはずなのに、ホラ、このとおり血が流れない」
「流れないだ?」
「切った直後から一滴も出なかったんです。ひょっとして、わたしって血が通ってないのかな」
靖川はむしろ、あっけらかんと言った。
「解せんね。うまい具合に厚い皮だけ切ってしまったなら、出血しないこともあるが、それだけ深く切ってりゃ出ないのはおかしい」
「思えば、わたしは」しかつめらしい顔の彼女は窓の外を見ながら言った。「小学二年生のころ、父親が失踪したんです。理由はわかりません。もともと放浪癖があった人だったみたい。未だに父の行方はつかめない。わたしも小さすぎたんで、よく顔も憶えていないんです」
「それとこれとが、どういうつながりがある」
「父にどんな考えがあったのか、推し量ることはできません。わたしたち母子を捨てたも同然でしょう。ですが、ちっとも恨んじゃいません。頭の中で思い描くと、父の顔だけが真っ黒なベールで覆われたまま、スーツ姿で浮かぶんです。できることなら記憶を取り戻したい。知りたいと思うのは罪なことでしょうか?」
なるほど、彼女が時折見せる翳りの正体がこれだったか。
休憩時間、窓辺に立ってマグカップを両手で包み込み、コーヒーを飲みながら山並みを見つめているときは、えてして父の面影を探し求めていた瞬間だったのかもしれない。
「ちっとも罪じゃないさ」
「わたしは本当に父から生を受け継いだのでしょうか? だって血が流れないんです。なにもかも実感が伴っていない」
「実感が伴わない感覚。今のわしにも当てはまるな」
「田力さん」と、靖川はすがるような眼差しをよこした。「この際ハッキリ言います。あなたは嘘はついていない。かつて鍵師であったことも事実のはずです。入居者の個人情報に眼を通したわけじゃありませんが、裏付ける証拠はあります。あなたはそのピッキング能力を使って、たびたび精進苑の裏口のドアを開け、屋外へ出ていってましたね」
「なんだと」
「ここだけの話、あなたはちょっとした問題入居者として、職員の間では知られていたんです。いくら錠を替えても替えても、そのたびにピッキングで開けて、こっそり抜け出していた……」
「わしが? とんと憶えはないぞ。抜け出して、どこへ行ってたんだか」
「敷地内を散歩したり、時には公園まで遠出したこともめずらしくなかったんです。幸いすぐに確保できたんで、問題にならなかっただけで。自覚がないのは、それだけ認知症が進んでいる証かも。今さらそれを責めるわけじゃありません」




