2.この道50年の自負をもつ元職人
「ほーら、やっぱり起きてた」
「保育園児じゃあるまいし、この年になってお遊戯に付き合う気にはならないね。こっちはいいから、みなさんの相手をしておやり。窓辺でこの寒空を見ながら物思いに耽り、日本の行く末にでも考えるとしょう」
「孤高を気取っちゃって。田力さんって、昔からこんな調子だったんですか? 『おれはおまえたちとは立ち位置がちがう。ここにゃ、おれの居場所はない』みたいな。まるで大沢在昌のハードボイルド小説の主人公みたい」
「大沢なんとかさんなんて、知らんよ」
「本当はレクに参加してくれたらありがたいんですけど、無理強いできないし」と、靖川は言いながら、隣の椅子に座った。ショートカットが似合う、大きな眼がくりくりと動く娘だった。かと思えば、仕事疲れなのか、時折ふっと見せる悲し気な翳りをわしは知っている。「特別に、私とお話でもしましょっか。話すことにより、田力さんの気持ちがほぐれたら幸いですわ。戦時中のお話でもドンと来いです。あそこの車椅子の富岡さんなんか、野戦病院に配属され、迫撃砲でバラバラになったご遺体を回収されたって話をねちっこく聞かされましたから、免疫はついてます」
「おいおい。なにも気持ちが凝り固まってるつもりはないんだが」
わしはテーブルの上の湯呑を取り、冷めたお茶を口にした。
「あそう」
「戦時中の話なんて願い下げだ。そもそもわしゃ、まだ小さかったから出征しなかった」
「だったら」と、彼女は言って、わしの手をつかんだ。「田力さんの手って、いくら洗っても真っ黒よね。ガサガサだけど、職人の手って感じ。いかにもナウシカが褒めるような。ゴルおじいちゃんがこう言うのよ。『この手を見てくだされ、ジルさまと同じ病じゃ。あと半年もすれば石と同じになっちまう。じゃが、わしらの姫さまはこの手を好きだと言うてくれる。働き者のきれいな手だと』」
わしは声を出して笑った。
歯並びの悪いわしの歯列を見せる相手は、ここ最近じゃ彼女だけだ。
「あんたは精進苑きってのモノマネ名人だな。元ネタは知らんから、比べようもないが」
と言い、手を引っ込め、節くれ立った自身のそれを見た。
「モノマネは得意ですから。で、なぜ手が黒いんですか?」
「黒いのはオイルが染み込んで、半ば入れ墨みたいになってるからだ。職業病の一種だな。働き者の手か。言えてるかもしれん。きれいかどうかは怪しいが」
「もしかして自動車整備士だとか」
「ちがうな。職人は的を射てる」
「言わないで。当ててみせるから」
「ちと難しいぞ。このごつい手からは想像もつくまい」わしはそう言って、手の平を広げてみせた。「こう見えて、現役のころは繊細な指使いをしたんだ。それがヒントだ」
「とっさに、時計職人かピアノの調律師が浮かんだけど」
「残念ながら、そんな上品なもんじゃない」
「――降参。正解を教えてください」
靖川はわしの顔をのぞき込んだ。
わしは手をひっくり返し見つめた。
そうだ。わしはこの道50年の自負をもつ職人だった。他の業種の空気を吸ったことがないので視野は狭いかもしれんが。
こと業界においては突出した才能をもっていたと言って憚らない。もっとも現役から退いてからは、ちょっとヘソ曲がりなただの老いぼれにすぎん。
◆◆◆◆◆
……さて、わしは何者だったかな。
おかしい。わしの過去が衣類の虫食いみたいに穴だらけのような気がする。
今日は2018年の12月11日、火曜日、先負。
現在、14時20分、苑内はレクリエーションの最中で、わしだけが辞退している。
外は寒空が広がり、中庭のプラタナスの葉っぱが辛子色に染まっていた。
夏にはよく手入れされる芝生も錆色が広がっている。いずれにしろ、そこかしこで木枯らしが吹き、およそ外出したい気持ちは挫かれる。
わしの名は田力 肇。
今年のクリスマス・イブで83になる。
秋田県南秋田郡の井川町の米農家に生まれた。三男坊だったので、中学を卒業するとともに東京へ出てきた。いかんせん学がなかったもんだから、季節労働者をハシゴし、とある講習会に参加したのがきっかけでこの業界に飛び込んだ。
やがて一人前になり、店を経営するまでになった。
平凡ながら家庭も築き、一姫二太郎の子宝にも恵まれた。
なのに、どうも釈然としない。
わしはそんなありふれた人生を送ってきちゃいない。もっと妙ちきりんな体験をしたはずだ。
高齢からくる見当識障害だろうか?
まさか苑内で孤立を深めていたばかりに、知らず知らずのうちに認知症の魔の手が、わしの脳内に勢力を広げていたとでも?
肝心ななにかを置き忘れている。
もっと強烈な出来事があった気がしてならない。
漠たる灰色の空白。
この窓ガラスの向こうの風景のように。




