9話 二百年の孤独
◇
「おーい! アネモイ! 契約したい奴がおるぞー!」
「そんな呼び方なの!?」
エリーが呆れた声を上げた直後、林の奥で葉擦れの音が急に大きくなった。
最初は木々の上だけを撫でていた風が、やがて地面の草までまとめて薙ぎ倒すほど強くなり、焚き火の灰や落ち葉が渦を巻いて舞い上がる。薄く残っていた朝靄も一気に吹き散らされ、代わりに空を覆うような灰色の雲が北から流れ込んできた。
「ちょっ、ケール! これ呼んだんじゃなくて怒らせたんじゃないの!?」
「知らん知らん。風の奴は大体こんなもんじゃ」
「大体で済ませるなよ!」
四方から吹き込んでいた風は草地の中央へ集まり、巻き上げられた土や葉で巨大な渦を作っていく。周囲の景色がほとんど見えなくなるほど荒れているのに、その中心だけは何もない空洞のように澄んでいた。
「うわっ……なんかいる!」
やがて嵐の中心から、俺たちを見下ろすようにそいつが姿を現した。
『……誰だ』
低い声が風に混じって響き、その周囲では嵐が生き物のように唸り続けている。
ケールが黒い翼を揺らしながら笑った。
「ヒッヒッヒ。ほら、来たじゃろ? 風の精霊――アネモイじゃ」
「はあ? こんなんで本当に来るのかよー」
渦の中心から現れたのは、細身の男だった。
二十代半ばほどに見えるが、風に煽られているわけでもないのに長い銀灰色の髪が絶えず宙を漂っている。肌は白く、細い顔の中では切れ長の目だけが妙に鋭い。
本人は退屈そうに俺たちを眺めているだけなのに、周囲では風だけが荒れ続けていた。まるでコイツ自身ではなく、機嫌の悪い空そのものが人の姿を取ったようだった。
「会えて嬉しいわ。想像より遥かにアクティブな感じ、嫌いじゃないわ」
「そりゃ、あ、ありがと。お前さん、名前は?」
「エリーよ。よろしく、アネモイさん」
「ああ、よろしく。エリー」
「早速だけど、誓約を組み込んだ契約をアタシは望むわ」
「ふははははっ! 面白いお方だ! 死ぬ確率の方が高い誓約を自ら望むか。だが、誓約内容はどうする?」
「アタシは今弱い。だから内容は一つしか知らないけど、命を賭けるし、肉体が滅んでも貴方は別にロストしなくても構わないわ」
「ほう……意気込みは気に入ったが、そいつはできねー相談だな」
「足りないってこと?」
「逆だ。そんな契約は美しくない上に、レディと結ぶものではないと思っている。ただでさえ俺の誓約は地獄なのだから……耐えられるとも思えんしな」
「それでも……それでもアタシは迦楼羅の役に立ちたいんだ!」
エリーはアネモイを睨むように見上げて声を張り上げたあと、背筋を伸ばしてその場に正座した。
「どうか……力を――」
そのまま頭を下げようとしたエリーの肩を、それまで荒れ狂っていたものとはまるで違う柔らかな風が支えた。
「愛する者のためか……ふははははっ! 悪くない。その愛がどれほどのものか、確かめたくなった。だから……」
エリーの身体が風にすくい上げられ、三メートルほどの高さまでふわりと浮かぶ。
「うわぁ!」
「耐えられたなら――共に歩もう」
落ちてきたエリーを風が包み込むように受け止めると、アネモイの身体はそのまま空気へ溶けて消えた。エリーも風に運ばれるようにゆっくり地面へ降りてくる。
「うあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!」
足が地面についた途端、エリーは頭を抱えて叫びながら転げ回った。
「もう耐えられないかも! もう嫌だ! 迦楼羅!!」
「おい? ケール、大丈夫なのか、これ?」
「お前さんも似たようなもんだったぞ?」
「えっ?」
ミヤビを見ると、目を潤ませながら何度も頷いている。
だが、エリーの苦しみ方は俺とは少し違っていた。
「まだなの……? もう無理だよ、迦楼羅……」
「ごめん……迦楼羅……会いたい……」
目の前に俺がいるのに、まるでどこか遠い場所から俺を探しているようだった。
「ケール? どうなってんだ? なにが起きている?」
「知らんよ。他の精霊がどんな誓約を結ぶのかまでは分からん。内容によっても違うしな。ただ一つ言えるのは、アネモイも同じ苦しみを味わっているということだけじゃ」
「……まさか、昨日の痛みや今も残ってる俺の痛みは、ケールも感じ続けているのか?」
「ヒョッホッホ」
怪しい笑い方をしているが、ケールは小さく頷いた。
「なぜそこまでして精霊は――」
「アプサラスもきっと同じだろう。我々が精霊になった理由なんて、碌なもんじゃないって話さ」
エリーは二十分ほど叫び続けた末に、ようやく呼吸が落ち着き、そのまま力を失ったように眠った。俺とミヤビで身体を支え、ゆっくりテントの中へ運ぶ。
辺りが暗くなり、林の中から虫の声が聞こえ始めた頃、ようやくエリーが目を覚ました。
「エリー、大丈夫か? 痛みは続いていないか?」
「か……る……ら?」
「ああ、生きてたな! 発狂したから心――」
最後まで言い終える前に、エリーが俺へ飛びついてきた。
そのまま貪るように何度も口を重ねてくる。
何年も牢獄に閉じ込められて、ようやく外へ出された人間もこんな感じになるのだろうか。俺には何が起きているのかまだ分からなかったが、横にいるミヤビも止めようとはせず、エリーの様子を見ていた。
それは夜が明けるまで続いた。
◇
昼頃に俺たちが目を覚ますと、エリーの身に何が起きていたのかを本人とアネモイから聞くことにした。
話を聞いても、簡単には想像できなかった。
誓約の間、エリーは二百年もの時間を台風のような暴風の中で過ごしていたらしい。地面へ降りることも、どこかへ辿り着くこともできず、ひたすら風に巻き上げられたまま空を彷徨い、その眼下で流れていく歴史だけを見続けていたという。
「なにもすることないのに、ずっとうるさいし、一日経つのがめちゃくちゃ遅く感じるしね?」
こっちでは二十分ほどしか経っていない。
最初のうちは何とか抜け出そうとしたり、時間を数えたり、俺たちのことを考えたりしていたらしいが、終わりの見えない年月が続くうち、いつからか考えることすらやめて、ただ風に運ばれていたという。
だから目を覚ました時、俺が目の前にいることを確認するだけじゃ足りなかったのだろう。
聞けば聞くほど、俺にはやっぱり二百年なんてものを想像できなかった。
◇
「アプサラス! 私も誓約する!」
「なあミヤビ、やったアタシが言うのもなんだけどさ? やめたほうが良いぜ? 特に回復役で今アタシたちも困ってないからさ?」
「ああ。エリーもキツかっただろうけど、俺なんか未だに身体中が激痛だしな?」
「いや〜、そう言われてもねぇ〜。自分だけ弱いの嫌だしなー」
「妾も反対じゃぞ? お主の場合、殺害数もゼロのまま。一度でも汚れたら命を落とすような誓約になるやもしれん。妾はミヤビと離れとうないぞ」
「いや、エリー見てて私も誓約するって決めた!」
珍しくミヤビが頑として引かなかった。
戦うことを制限してきたのは俺だし、本人もそれを受け入れているように見えていた。それでも時々、自分だけ弱いだの、役に立てていないだのと漏らすことはあった。
俺が思っていたより、ずっと気にしていたらしい。
ミヤビがアプサラスと誓約を交わすと、その身体も光へ溶けるように消えていった。
俺とエリーは何が始まるのか身構えていたが、三分ほどするとミヤビは何事もなかったように目を開けた。
「なっ? ミヤビ? 大丈夫か? 三億年くらいどっかに飛ばされてたか?」
「それとも俺みたいに、なんか意味分からなく全身痛えとか?」
ミヤビはゆっくり首を振り、大きく息を吐いた。
「よく……耐えたのぉ……ミヤビ……」
戻ってきたアプサラスが、ミヤビをそっと抱きしめる。
「いやー! 大変でしたよぉ〜! なんか私の好みをリサーチされてたのかな? めちゃくちゃどストライクの男が、次々と甘い言葉で誘ってくるんですよぉ〜。断っても断ってもコクってきてー、超大変でした」
「「えっ? ミヤビだけ甘くね?」」




