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幻想の頂、時の庭

 嵐の咆哮が、嘘のように遠のいていった。


 サクラが踏み出したその場所は、もはや「山の一部」とは呼べないほどに、浮世離れした美しさを湛えていた。

 足元に広がるのは土でも岩でもなく、乳白色に透き通った巨大な水晶の地層。

 一歩歩くごとに、足裏からは微かな鈴の音のような残響が響き、波紋のように光が広がっていく。


「ここは……時間が、形になっているのね……」


 サクラは思わず息を呑んだ。

 庭園のあちこちには、氷で彫られたような不思議な造形物が並んでいる。

 それは、羽ばたこうとした瞬間の蝶であったり、弾ける直前の水滴であったりした。

 それらは決して溶けることも壊れることもなく、永遠の「一瞬」を閉じ込めたまま、月光のような青白い光を放っている。


 ここは、世界中から零れ落ちた「時間」が流れ着き、凍りつく場所。

 サクラが中を進むと、透明な柱の影から、かつての自分によく似た幻影がいくつも通り過ぎていった。

 離宮で笑っている自分、ユウの根元で本を読んでいる自分――それらは記憶ではなく、そこに「保存」された時間そのものだった。


 庭園の中央に、天を指してそびえる一本の巨大な氷の尖塔があった。

 その塔の頂には、たった一輪、見たこともないほど清らかな花が、蕾のまま逆さまに吊り下げられている。


 薄い花弁は、夜空の色を閉じ込めたように深い紺碧から透明な白へとグラデーションを描き、中心からは黄金色の細い糸のような雄蕊おしべが、銀河の渦のように輝きを放っている。


「時の花……」


 サクラはその塔の下まで辿り着いた。

 近くで見ると、その花の周りだけ、空間が歪んでいるのがわかった。

 ある瞬間には花弁が開き、次の瞬間には蕾に戻る。

 数秒間の時間が、その花の周囲でだけ、無限の円環を描いて繰り返されているのだ。


 サクラは尖塔の階段を一段ずつ上り始めた。

 身体が重い。

 まるで、自分という存在が、この巨大な時の集積の中に吸い込まれ、霧散してしまいそうな感覚に襲われる。


「……っ、負けない。私は、みんなの明日を取り戻しに来たの」


 胸元で銀色の木の葉が、かつてないほど激しく熱を放った。

 ユウの想いが、サクラをこの場に繋ぎ止めている。


 ようやく最上階へ辿り着き、サクラは時の花を目の当たりにした。

 手を伸ばせば届く距離。

 けれど、花から溢れ出す圧倒的な「時間の重圧」に、指先が痺れて動かない。


 その時、花の奥から、静かな声が響いた。

 それは言葉ではなく、サクラの心に直接染み込んでくる「意識」の波だった。


『小さな守り神よ。お前は本当に、この花を摘むつもりか?』


 サクラは立ち止まった。


『この花を摘めば、お前が愛した“永遠の春”は、二度と戻らない。桜は散り、木々は老い、お前自身も、いつかは土へ還る運命を受け入れることになる。この庭にあるような“完璧な美しさ”を永遠に失うのだぞ』


 サクラは、透き通った足元の水晶に映る自分の姿を見つめた。

 傷だらけの顔、ボロボロになった薄紅色の羽織。

 けれど、そこには離宮にいた頃の自分にはなかった、生きた体温と、未来を望む強い瞳があった。


「……完璧な美しさなんて、いりません」


 サクラの声は、静かだが凛としていた。


「散るからこそ、桜はあんなに優しい色をしていたのね。終わるからこそ、命はあんなに懸命に輝くのね。私は、この美しい氷の世界よりも、泥にまみれても明日へと進む、汚れても愛おしい本物の世界に帰りたい」


 サクラの決意に呼応するように、時の花が大きく脈打った。

 繰り返されていた時間の円環が崩れ、花弁がゆっくりと解け始める。


 サクラは、震える両手をそっと伸ばした。

 その瞬間、庭園を満たしていた青白い光が一点に収束し、世界は完全な静寂に包まれた。

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