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最後の一輪

 時の花に触れる寸前、サクラの指先は目に見えない拒絶の膜に押し返されていた。

 花の周囲で渦巻く時間はあまりにも濃密で、彼女が伸ばした腕は、ある瞬間には赤ん坊のような産毛に覆われ、次の瞬間にはしわの寄った老人の肌へと変貌を繰り返す。


「っ……ああ……!」


 自身の肉体が、数千年の時間を秒単位で駆け抜ける不気味な感覚。

 脳裏には、さくらの森の輝かしい日々が、走馬灯のように高速で流れていく。

 このまま花を摘めば、自分という存在が時間の激流に削り取られ、跡形もなく消えてしまうのではないか。

 そんな根源的な恐怖が、サクラの心臓を締め上げた。


『サクラよ、今ならまだ間に合う。手を引けば、お前は永遠に清らかな王女のまま、あの春の夢の中でまどろんでいられるのだぞ』


 時の庭の精霊とも、あるいは彼女自身の迷いとも取れる声が、甘く耳を撫でる。

 だが、サクラは歯を食いしばり、一歩踏み込んだ。

 彼女の脳裏に浮かんだのは、自分自身の安寧ではなく、あの「静止した村」で井戸の傍らに固まっていた女性の姿だった。

 落ちることのできなかった一滴の水。

 止まったままの恋心。

 届かなかった「さよなら」の言葉。


(私の『今』を守るために、世界中の『明日』を凍らせたままにはしておけない!)


 サクラは、銀色の木の葉を握りしめた。

 その瞬間、ユウから授かった木の葉が、彼女の覚悟に呼応して、眩い黄金色の光を放った。

 その光はサクラの腕を包み込む「時の障壁」を真っ向から押し返し、荒れ狂う時間の渦を、穏やかな凪へと変えていく。


 ついに、彼女の指先が、時の花の茎に触れた。


 ひんやりとした、けれどどこか脈打つような、命の感触。

 サクラは意を決し、その茎を、そっと、けれど力強く摘み取った。


 その瞬間。


 世界から音が消えた。

 天を衝く氷の尖塔が、根本から砂のように崩れ始める。

 サクラが手にした時の花から、目を開けていられないほどの真っ白な閃光が溢れ出した。

 それは「刻の頂」を飲み込み、雲海を裂き、山全体を、そして遥か彼方の「さくらの森」までもを白一色の世界へと塗り替えていく。


「……あ……っ」


 サクラの身体を、激しい熱と風が通り抜けていく。

 彼女が大切に持っていたバッグが弾け、中から森の木の実が飛び出した。

 それらは宙を舞いながら、猛烈なスピードで芽吹き、花を咲かせ、そして枯れて土へと還っていく。

 

 それは、止まっていた時間のゼンマイが、一気に解き放たれた音だった。


 光の渦の中で、サクラは見た。

 さくらの森の木々が、一斉に、本当に一斉に、その桃色の花びらを空へと解き放つ光景を。

 「永遠」という鎖から解き放たれた数億枚の花びらが、吹雪のように空を埋め尽くし、世界を桜色に染め上げていく。

 それは、どんな完璧な満開よりも、残酷で、この世のものとは思えないほど美しい「終わりの儀式」だった。


 サクラの意識が、遠のいていく。

 足元に広がっていた水晶の庭園は、もはや形を留めていない。

 重力さえも失われたような光の洪水の中で、サクラは手の中に残った「一輪の花」を、壊さないように、ただひたすらに胸へと抱きしめた。


(これでいいの。これで、みんな……また明日へ行けるわね)


 サクラの身体は、光の粒子に包まれ、遥か高みから落下していった。

 背後では、あんなに威圧的だった「刻の頂」が、朝日に溶ける霧のように、静かにその姿を消そうとしていた。


 静止していた世界が、今、深い呼吸を始めた。

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