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嵐の峠

 洞窟を抜けたサクラを待ち受けていたのは、天を突くような断崖と、耳を切り裂くような風の咆哮だった。

 標高はすでに雲を追い越し、見下ろせば眼下には白銀の雲海がどこまでも広がっている。

 空気は薄く、一息吸い込むごとに喉が焼けるように冷たい。


「あそこが……頂上……」


 雲を突き破り、鈍く光る巨岩の塔が見えた。

 それが、時の花の種が眠るとされる「刻の頂」だ。

 しかし、そこへ至る道は「嵐の峠」と呼ばれる、細く切り立った尾根一本しかなかった。


 サクラが尾根に足を踏み出した瞬間、地響きのような突風が吹き荒れた。

 小さな身体は木の葉のように翻り、サクラは咄嗟に岩の割れ目に指を突っ込んで耐えた。

 爪が剥がれ、指先から血が滲む。

 さくらの森では決して経験することのなかった、剥き出しの自然の拒絶。


「うっ……く……!」


 風はサクラの背負ったバッグを奪おうとし、羽織を激しくたなびかせる。

 一歩足を上げれば、そのまま虚空へと放り出されてしまいそうな恐怖。

 視界は巻き上がる雪と砂に遮られ、銀色の木の葉の光さえも、吹き荒れる嵐の中に掻き消えようとしていた。


 寒さと疲労で、膝がガタガタと震える。

 サクラは岩にしがみついたまま、顔を伏せた。

 これ以上は無理だ、という思考が脳裏をよぎる。

 どんなに決意を固めても、子供の小さな肉体には、あまりにもこの山は巨大すぎた。


 その時だった。


 嵐の轟音に混じって、聞き覚えのある高い鳴き声が響いた。

 サクラが重い瞼を上げると、激しい気流の中を、瑠璃色の翼を持つ大きな鳥が必死に羽ばたいているのが見えた。

 霧の中から声をかけてくれた、あの鳥だ。


『伏せるな、小さな王女! 風を聴くんだ!』


 鳥はサクラのすぐそばまで舞い降りると、力強い翼で彼女を風から守るように覆い隠した。

 それだけではない。

 どこからともなく、小さなリスやネズミたちが岩の隙間から這い出し、サクラの足元を支えるように集まってきた。


「みんな……どうして……?」


 彼らは、さくらの森からサクラの後を追ってきた仲間たちだった。

 時間が止まり、気力を失っていたはずの彼らが、サクラの勇気に突き動かされ、彼女の知らないうちにここまで付いてきていたのだ。


『あなたが私たちのために時間を動かそうとしてくれている。だから、私たちもあなたを独りにはさせない』


 リスたちは自分たちの身体を寄せ合い、サクラの冷え切った足を温める。

 小鳥たちは風のわずかな切れ間を見極め、彼女に進むべきタイミングを教える。

 サクラの胸に、熱いものが込み上げた。

 彼女は独りで旅をしているつもりだった。

 けれど、彼女が森を愛した分だけ、森もまた彼女を愛し、その力が今、嵐の中で彼女を押し上げようとしていた。


「ありがとう……みんな、私に力を貸して!」


 サクラは再び立ち上がった。

 風は依然として猛烈だったが、今のサクラには、背中を押す無数の小さな鼓動が感じられた。

 鳥が風を切り、リスたちが道を示し、サクラは一歩、また一歩と尾根を進んでいく。


 嵐の峠の終端。

 最後の急斜面を這い上がったとき、突如として風が止んだ。

 そこは、荒れ狂う嵐の中心。「台風の目」のような、不思議な静寂に満ちた平坦な岩場だった。


 サクラは地面に倒れ込み、激しく息を乱した。

 全身は傷だらけで、羽織はボロボロだ。

 けれど、彼女を支えた動物たちは、満足げに彼女を見つめたあと、役目を終えたかのように岩影へと消えていった。


 サクラが顔を上げると、そこには空の青よりも深い、透き通った光を放つクリスタルの庭園が広がっていた。

 「刻の頂」。

 ついに彼女は、世界で最も孤独で、最も美しい場所に辿り着いたのだ。


 しかし、喜びも束の間。

 庭園の奥、天を指す尖塔のような氷の柱の中に、彼女が求めていた「時の花」が、静かにその時を待っていた。

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