影の番人
静止した村を背に、サクラが辿り着いたのは、山の六合目付近に口を開けた巨大な洞窟だった。
その岩肌は黒真珠のように滑らかに磨き上げられ、周囲のわずかな光を吸い込んで、不気味な静寂を湛えている。
ここを通り抜けなければ、「刻の頂」へと続く唯一の登攀路へは出られない。
「……暗い。けれど、行くしかないわ」
サクラは銀色の木の葉を掲げ、洞窟の奥へと足を踏み入れた。
カツン、カツンと、彼女の足音が岩壁に跳ね返り、何重にも重なって奥へと消えていく。
木の葉の放つ淡い光が、濡れた壁を照らし出すが、ある地点を境に、光がそれ以上先へ届かなくなった。
そこには、一人の「少女」が立っていた。
サクラは息を呑んだ。
その少女は、自分と同じ薄紅色の羽織を纏い、自分と同じ藤編みのバッグを肩にかけていた。
ただ一点、決定的に違うのは、その少女の瞳が底なし沼のように濁った黒色をしており、表情が凍りついたように無機質であることだった。
「……あなたは、誰?」
サクラの問いに、少女は答えなかった。
代わりに、少女がゆっくりと腕を広げると、背後の闇からドロリとした影が溢れ出し、サクラの周囲を取り囲んだ。
『行かないで、サクラ』
声が響いた。
それはサクラ自身の声でありながら、ひどく冷たく、湿った響きを持っていた。
『このまま進めば、さくらの森は変わってしまう。花は散り、枝は枯れ、冬の寒さが小鳥たちの命を奪う。あなたが愛した“完璧な楽園”を、自分の手で壊すつもりなの?』
「それは……でも、循環がなければ森は死んでしまうわ」
『いいえ、あなたは怖いだけ。本当は、自分が大人になるのが、そしていつか老いて消えていくのが怖いだけ。今のままなら、あなたは永遠に“小さな王女”でいられるのに』
影の言葉は、鋭い針のようにサクラの胸を刺した。
それは、サクラが心の奥底に封じ込めていた、小さな「わがまま」だった。
いつまでもユウの腕の中で守られていたい、変わるのが怖い、失うのが怖い。
その臆病な心が、目の前の「影の番人」を作り出していたのだ。
影の少女が一歩踏み出すと、洞窟の地面から黒い茨が伸び、サクラの足を縛り上げた。
冷たい影の感触が、肌を通じて体温を奪っていく。
サクラの視界が、恐怖で少しずつ暗転していく。
「違う……私は、自分のために行くんじゃない……!」
『嘘よ。あなたは自分が“英雄”になりたいだけ。あるいは、変化の痛みに耐えきれず、自暴自棄になっているだけ』
影はサクラの耳元で囁き、彼女の手から銀色の木の葉を叩き落とそうとする。
光が激しく揺れ、闇がサクラを飲み込もうとしたその時、サクラの脳裏に「静止した村」で見た、あの汲みかけの水が浮かんだ。
あの時、彼女が触れた水の雫。
あれは冷たかったが、その奥で「流れようとする意志」が震えていた。
「……いいえ、影。あなたは間違っているわ」
サクラは、縛り付ける影の茨を素手で掴んだ。
痛みが走る。
けれど、その痛みこそが、彼女が「時間」の中に存在している証拠だった。
「春が続くのは、確かに心地よいかもしれない。でも、秋の紅葉も、冬の静寂も、すべてが繋がっているからこそ、命は輝くの。私が大人になるのは、誰かの子供を守れるようになるため。私が老いて消えるのは、新しい命に場所を譲るためよ。それを拒むのは、愛じゃない……ただの執着よ!」
サクラが叫んだ瞬間、彼女の胸の奥から、木の葉の光を凌駕するほどの真っ白な輝きが溢れ出した。
それは、自分の「消滅」さえも受け入れた者だけが持てる、真の勇気の光だった。
光に照らされた影の少女は、苦しげに顔を歪め、次第に輪郭を失っていく。
『……忘れないで。変化には、必ず痛みが伴うことを……』
最後の囁きを残し、影は煙のように消え去った。
気がつくと、洞窟の奥からは微かに、冷涼な山の風が吹き込んできていた。
足元を縛っていた茨も、跡形もなく消えている。
サクラは、地面に落ちた銀色の木の葉を拾い上げ、汚れを払った。
彼女の表情からは、幼いあどけなさが少しだけ消え、代わりに凛とした強さが宿っていた。
「ありがとう、影。あなたがいたから、私はもう迷わない」
洞窟を抜けた先には、雲海の上に突き出した「刻の頂」へと続く、断崖絶壁の道が続いていた。
風は以前にも増して強く、荒々しい。
けれど、サクラの足取りは、先ほどよりもずっと軽やかだった。
自分自身に打ち勝った少女の背中を、遠くのさくらの森では、決して見ることのできない「本当の星空」が静かに照らし始めていた。




