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王女の決意

 旅立ちの朝、サクラはいつものように鳥のさえずりで目覚めた。

 けれど、そのさえずりは、どこか音を失ったレコードのように、同じ旋律を延々と繰り返しているように聞こえた。

 窓の外には、昨日と寸分違わぬ角度で枝を伸ばす桜と、一ミリも動いていないように見える雲がある。


「……行ってくるね」


 サクラは、小さな藤編みのバッグに旅の支度を詰め込んだ。

 中身は、森の木の実を干したもの、喉を潤すための清らかな水、そして長老ユウから授かった銀色の木の葉。

 それだけだ。

 守り神としての彼女の武器は、剣や魔法ではなく、ただ森を想う清らかな心だけだった。


 離宮の扉を閉める際、サクラの手が微かに震えた。

 この扉の向こう側にあるのは、自分を愛し、守ってくれる完璧な箱庭だ。

 一歩外へ出れば、そこには時間の残酷な牙や、見たこともない険しい闇が待っている。

 サクラは、部屋の隅にある小さな揺り椅子を見つめた。

 そこは、彼女が本を読み、昼寝をし、動物たちと笑い合った「安全な場所」の象徴だった。


(もし、私が戻れなかったら。このままここで、永遠に美しい春を演じ続けていれば、少なくとも『今』は壊れないかもしれない)


 そんな弱気が、影のように足元に忍び寄る。

 しかし、そのとき。

 庭の隅で眠り続けている小鹿の呼吸が、ひどく浅く、今にも消え入りそうなことに気づいた。

 その背中には、散ることのない桜の花びらが、まるで見捨てられた遺物のように厚く積もっている。


「……いいえ。これは『美しさ』なんかじゃない。ただの静かな終わりだわ」


 サクラは強く扉を引いた。

 カチリ、という乾いた音が、彼女の決意を封じ込めるように響いた。


 森を抜ける道すがら、サクラは動物たちに別れを告げた。

 切り株の上でうつむくリス、翼を休めたまま瞳を閉じている青い鳥。

 彼らはサクラが通り過ぎる気配に、微かに耳を動かす。


「待っていて。必ず、本物の風を連れて帰るから。散ることを許される、本当の春を届けるから」


 サクラの言葉に、森が微かにざわめいた。

 それは長老ユウの意志が、風となって彼女の背中を押したのかもしれない。


 やがて、サクラの足元から柔らかな苔が消え、ゴツゴツとした岩肌が顔を出し始めた。

 そこが「さくらの森」の境界線だった。

 一歩踏み出せば、そこから先は桜の加護が届かない、険しい連峰の入り口だ。

 境界の向こう側は、濃い霧が重く垂れ込め、太陽の光さえも灰色に濁っている。


 サクラは境界の最後の一本である桜の木に、そっと額を押し当てた。

 木の肌は、聖域のそれとは違い、外気の影響でひび割れ、冷え切っていた。


「怖い……けれど、行かなくちゃ」


 サクラが境界線を越えた瞬間、彼女の全身を「冷気」が貫いた。

 それは、さくらの森では決して感じることのなかった、肌を刺すような鋭い風だった。

 服の隙間から入り込む寒さに、サクラは思わず身をすくめる。

 振り返ると、そこには暖かな桃色の光に包まれた「永遠の春」が、まるで遠い夢の中の出来事のように輝いて見えた。


 しかし、サクラはもう、後ろを振り向かなかった。


 目の前に広がるのは、迷路のような暗い針葉樹林と、その先にそびえ立つ、空を隠すほどの巨山。

 サクラは銀色の木の葉を握りしめ、一歩、また一歩と、自分よりも大きなシダ植物の葉をかき分けて進み始めた。


 彼女の小さな足跡が、これまで誰も踏み入れたことのない、湿った土の上に刻まれていく。

 それは、止まっていた世界の時間が、サクラという少女を通じて、再び微かに、けれど確かに動き出した瞬間だった。


 上空では、さくらの森の「偽りの太陽」とは違う、厚い雲に遮られた本物の、冷徹な太陽が、彼女の旅路を静かに見下ろしていた。

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