09 冷たい女
09 冷たい女
マリサは客間へ呼ばれた。
扉を開けると、そこには両家の親と、婚約者のライリー、妹のメラニーが揃っていた。
長方形のテーブルの一辺に、メラニーとライリーが座っていた。別の面にマリサの父、その隣に母が並んでいる。向かい側には、ライリーの両親が座っていた。
残りの面に椅子が一脚あった。
マリサは何も言わず、そこへ腰を下ろした。
六人の視線が一斉に集まる。
この席が楽しいものになると思うほど、マリサは愚かでも、おめでたくもなかった。
短い沈黙の後、ライリーが重々しく口を開いた。
「マリサ。今回のことで、君がどれほど冷たい人間なのか、よくわかった」
マリサは返事をせず、正面からライリーを見つめた。
ライリーは一瞬たじろいだものの、すぐに険しい顔を作った。
「なぜ泣かない?」
「……何のことでしょうか」
「おじい様が亡くなったんだぞ。悲しくないのかと聞いている」
(悲しいことと、人前で泣くことは別でしょう)
そう思ったが、口にはしなかった。
悲しくなかったはずがない。
けれど、泣く暇がなかったのだ。おじい様の死を悼む間もなく、葬儀の準備から後片付けまで、すべてを押しつけられた。
それを知っているはずの者たちが、今度は泣かなかったことを責めている。
「まあ、君のような冷たい人間に何を言っても、わからないだろうが」
ライリーが吐き捨てるように続ける。
そのとき、マリサはあることに気づいた。
メラニーがおなかをさすっているのだ。
「とにかく、君のような冷たい女とは結婚できない」
そこで言葉を切り、いかにも重大な決断を下すかのように胸を張る。
「マリサ。君との婚約は破棄する」
その言葉を聞いた途端、マリサの胸の奥で、何かが弾けた。
嫌だと縋りたい気持ちがあった。
理不尽だと叫びたかった。
これまでどれほど尽くしてきたと思っているのか。商店で無休で働き、両家の都合に振り回され、それでも結婚すれば報われるのだと自分に言い聞かせてきた。
幼い頃、両親にかまってもらえず寂しかったとき、ライリーだけは優しくしてくれた。
昔は優しかったではないか。
あの頃の言葉も、笑顔も、すべて嘘だったのか。
そう思った瞬間、目から涙がこぼれた。
一滴では済まなかった。
堰を切ったように、次から次へと涙が溢れ出した。
「マリサ……?」
ライリーの声が揺れる。
けれど、一度溢れた涙は止まらなかった。
おじいさんを失った悲しみ。
婚約者に裏切られた悔しさ。
両親から受けてきた仕打ち。
妹ばかりをかわいがり、マリサの努力を当然のように搾り取ってきた家族への怒り。
あらゆる感情が胸の中で渦を巻き、涙になって流れていく。
けれど、その中に、奇妙な安堵も混じっていた。
(おじい様、ありがとうございます)
おじい様は、マリサに生きていけるだけの金を遺してくれた。
家を出ても困らないように。
誰にも奪われず、自分の人生を始められるように。
そればかりではない。
おじい様は、彼らがマリサを裏切ったときに備え、必要なものをすでに用意していた。
マリサが受けてきた仕打ちに相応の報いを与えるための準備まで、すべて整えてくれていたのだ。
(大丈夫。私には、お金がある)
これから先、一人でも生きていける。
(余裕よ。復讐の準備までしてくれているもの)
悲しみの涙は、いつしか悔し涙へと変わり、さらに喜びと安堵の涙が混じった。
何のために泣いているのか、もう自分でもわからない。
ただ、長い間押し込めてきたものが、すべて流れ出していくようだった。
やがて、ふと疑問が浮かんだ。
(私、どれくらい泣いているのかしら)
まぁいい。気のすむまで泣こう。
気を使うことはない、時間はたっぷりある。
途中から笑うのを我慢する涙になった。
マリサは瞬きをして、濡れた頬を指先で拭った。
(思ったより短かったのかもしれないわね)
室内は、水を打ったように静まり返っていた。
父も母も、ライリーもその両親も、驚いた顔でマリサを見つめている。あれほど彼女に泣けと言っていたくせに、実際に泣かれるとは思っていなかったらしい。
マリサは呼吸を整えると、何事もなかったかのように言った。
「わかりました」
「え?」
「婚約破棄をお受けします。すぐに署名をいたします」
ライリーが目を見開く。
マリサはテーブルの上へ視線を落とした。
「書類をください。署名します」
誰も動かなかった。
メラニーを除く全員が、気まずそうに目を伏せている。
父は咳払いをし、母はハンカチを握りしめた。ライリーの両親は互いに顔を見合わせ、当のライリーは口を半開きにしたまま固まっている。
(あら。準備していないのね)
これほど大仰に人を呼びつけ、婚約破棄を言い渡しておきながら、必要な書類すら用意していなかったらしい。
(しばらく待っても出てこないようなら、私が用意しましょうか)
助け舟を出してやれば、話は早く進むだろう。
だが、そこまで面倒を見てやる義理はない。
マリサは背筋を伸ばしたまま、黙って待つことにした。
沈黙に耐えられなくなったのか、メラニーがおずおずと口を開いた。
「お姉様……悪いのは、私なんです」
「そうなの?」
(だけどね、それは間違い。あなただけではないわ。ここにいる全員が悪いのよ)
メラニーは目を伏せ、今にも泣き出しそうな顔をしている。だが、マリサが何も言わないため、その先を続けられないらしい。
すかさずライリーが身を乗り出した。
「メラニーを責めないでくれ!」
「責めてないけど……」
その声には、責められてもいない者を守る自分に酔っているような響きがあった。
(おもしろくなってきた。笑わないようにしなくては)
マリサが黙っていると、今度は父がテーブルを叩いた。
「おまえのような冷たい女に、メラニーを責める資格などない!」
置かれていた茶器が、かちゃりと音を立てる。
(ええ、そうね。私は冷たい女だもの)
マリサは静かに父を見た。
(だから、この家もあなたたちも、きれいに捨てていくわ)
だが、それも口にはしなかった。
この場で何を言っても、彼らは聞きたいようにしか聞かない。ならば、言葉を費やすだけ無駄だった。それに黙っているほうがおもしろい。
マリサが反論もせず、メラニーを責めもしないため、再び気まずい沈黙が落ちた。
メラニーは困ったように唇を震わせている。
どうやら、自分が謝り、マリサが激怒して責め立て、ライリーがメラニーをかばう――そんな筋書きを用意していたらしい。
肝心のマリサが何も言わないため、誰も次の台詞を口にできずにいる。
やがてライリーが、助けを求めるような目をマリサに向けた。
まるで、この場を収めるのは彼女の役目だと言わんばかりだった。
マリサはその視線に気づいていた。
それでも、助け舟を出すつもりはない。
(それは、さすがにないでしょう?)
そう思いながら、彼女はライリーの目をまっすぐに見返した。
そして何も言わず、ただ静かに、婚約破棄の書類が差し出されるのを待ち続けた。




