08 おじい様の葬儀
08 おじい様の葬儀
翌朝、マリサは普段よりも早く目を覚ました。
誰かに呼ばれたわけでも、物音がしたわけでもない。
ただ、不意に目が覚めたのだ。
窓の外はまだ薄暗かった。
マリサが身を起こすと、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚が広がった。
「……おじい様」
間もなく、おじい様が亡くなったとシリウス家から知らせが届いた。
おじい様の希望通り、引き潮の時刻だった。
葬儀のため、マリサは両親や妹のメラニーと共にシリウス家へ向かった。
父も母も、メラニーも、真新しい喪服を着ていたのだ。
おじい様が亡くなる前から準備していなければ、間に合うはずがない。
三人は、おじい様の死を見越して喪服を新調していた。
それなのに、マリサには何も用意されていなかった。
古びた普段着のまま立つマリサを見て、母が眉をひそめる。
「おや、お前。喪服はどうしたんだい?」
まるで、マリサが自分で用意しなかったことを責めるような口調だった。
マリサが答えるより先に、メラニーが楽しそうに口を挟んだ。
「お姉様は、嫁としてきちんとしていないから、喪服を作ってもらえなかったんですよ。そのように、アリスが言っていました」
「そうだろうな」
父がマリサをにらみながら言った。
「ええ。だからといって、うちで作るのも変でしょう? お姉様は下働きくらいしかできないのですから、喪服なんてなくてもいいでしょうから」
メラニーは、真新しい喪服の裾を整えながら言った。
「そうね。葬儀で人前に出るような立場でもないものね」
母もあっさり同意した。
父はマリサを一瞥しただけで、興味を失ったように言った。
「まあいい。今さらどうにもならん」
マリサは黙って部屋の隅へ下がった。
おじい様を悼むはずの場所で、言い争う気にはなれなかった。
うつむいて立っていると、後ろから肩を軽く叩かれた。
振り返ると、向かいの家に住むターナー夫人がいた。
ふくよかな身体を黒い服に包み、厳しい顔でマリサの家族を見ている。
「あんた、ちょっとついておいで」
「でも、もうすぐ……」
「いいから、おいで」
有無を言わせぬ口調だった。
マリサはターナー夫人に連れられ、向かいの家へ入った。
居間の椅子には、喪服が丁寧に広げられていた。
「昔のものだけどね。一応、手入れはしてあるよ」
夫人は喪服を持ち上げ、マリサの身体に合わせるように前へかざした。
「あんたによさそうだから、これを着ておくれ」
「あの……でも、こんな大切なものを」
「遠慮はいらないよ。どうせ、今の私には入らないからね」
夫人は自分の腹を叩き、豪快に笑った。
「それにしても、あんたは細いねえ。少し大きいかもしれないけど、紐を締めれば何とかなるだろう。ちゃんと食べさせてもらっているのかい?」
「はい。大丈夫です」
「大丈夫な人間は、そんな腕をしていないよ」
袖からのぞくマリサの細い手首を見て、夫人は顔を曇らせた。
それ以上は何も尋ねず、着替えを手伝ってくれた。
喪服は少し大きかったが、夫人が手早く調整すると、きれいに身体へなじんだ。
「うん。似合うねえ――と言うのも、こんな服では変だけどね。よく似合っているよ」
鏡の中には、きちんと喪服をまとった自分の姿があった。
「ありがとうございます。葬儀が終わりましたら、きれいにしてお返しします」
「返さなくていいよ。それはあんたにあげる」
「そんなわけには……」
「いいんだよ。おばさんは、お節介が好きなんだし、この服もあんたの役に立って喜ぶよ」
ターナー夫人はそう言って、マリサの肩を優しく叩いた。
家族からは用意する必要もないと言われた喪服を、血のつながらない隣人が用意してくれていた。それどころか、マリサの身体を気遣ってくれた。
「……ありがとうございます」
声が震え、目に涙がにじんだ。
「泣くなら、亡くなった会長さんのためにお泣き。あんな連中のために流す涙は、一滴だってもったいないよ」
「はい……」
マリサは涙を拭い、ターナー夫人と共にシリウス家へ戻った。
部屋では、両家の女たちがおじい様の亡骸を取り囲んでいた。
「おじい様、もう一度目を開けてくださいませ!」
「愛するおじい様、もう一度笑ってください!」
「おじい様。早すぎます」
女たちは競うように声を上げ、何度も目元へハンカチを当てている。
義母も胸を押さえ、母に支えられながら泣いていた。
けれど、誰の目にも涙は浮かんでいない。
おじい様が生きていたとき、彼女たちはほとんど部屋へ寄りつかなかった。食事を運ぶことも、身体を拭くことも、汚れた寝具を替えることもしなかった。
マリサは声を張り上げて泣く女たちを、冷めた目で見つめた。
(今度、おじい様が目を開けたら、そのときはあなたたちに、たっぷり面倒を見させてあげる)
罰当たりな考えだとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。それにおじい様はおもしろがりそうだ。
やがて、埋葬の時間が訪れた。
おじい様の棺を運ぶための馬車が、屋敷の前へ到着する。
棺がゆっくりと馬車へ載せられると、一同はその後ろに続き、墓地まで歩き始めた。
空は低い雲に覆われ、冷たい風が吹いていた。
マリサはライリーと並び、無言で歩いた。
おじい様の声が、何度も胸の中によみがえる。
――わしのために、幸せになってくれ。
隣を歩くライリーは、マリサに言葉をかけなかった。手を差し伸べることも、体調を気遣うこともない。ただ前を向き、淡々と歩いている。
二人の後ろから、メラニーのすすり泣く声が聞こえてきた。
「尊敬するおじい様……」
少し間を置き、また声がする。
「愛するおじい様……どうして、私たちを残して……」
同じ言葉を何度も繰り返しながら、メラニーは白いハンカチを目に押し当てていた。
その声を聞いたライリーが、ふいに歩調を緩めた。
マリサは横目でライリーを見る。
ライリーは後ろへ下がり、やがてメラニーと並んだ。
「大丈夫か、メラニー」
「ライリー……私、悲しくて……おじい様はよくしてくださいました」
「無理をするな」
ライリーはそう言うと、メラニーの肩を優しく抱いた。
メラニーは待っていたように、その胸元へ身を寄せた。
「ありがとうございます。ライリーがおそばにいてくださって、よかった……」
マリサは立ち止まらなかった。
振り返ることもせず、おじい様を乗せた馬車だけを見て歩き続けた。
胸の奥に、かすかな痛みが走った。
しかし、それ以上に浮かんだのは、昨夜見たおじい様の笑顔だった。
――あいつらに情けをかけたら駄目だぞ。
これまでなら、マリサは見なかったことにしただろう。自分さえ耐えれば丸く収まるのだと、自分自身に言い聞かせたはずだ。
だが、もうその必要はない。
マリサは、顔を上げた。
おじい様を送る葬列は、静かに墓地へ向かって進んでいく。
その日はおじい様との別れの日であり――マリサが古い人生と別れた最初の日でもあった。
おじい様が亡くなり、商店は喪に服すため、しばらく休業することになった。
マリサはシリウス家で葬儀の後片付けに追われていた。
弔問客への礼状の手配、借りた椅子や食器の返却、余った品物の確認、使用人への指示。やるべきことはいくらでもあったが、シリウス家の者たちは見事なほど何もしなかった。
口を開くのは、マリサに用事を言いつけるときだけだ。
「マリサ、こちらを先に片付けてちょうだい」
「弔問客の名簿は、まだできていないのか?」
「花屋への支払いも忘れないでくれ」
マリサは言われるままに動いた。
結局、葬儀の前も後も、すべて彼女に押しつけられている。
(ここまで徹底していると、かえって清々しいわね)
腹を立てる気力さえ、もう残っていなかった。
そうして片付けがようやく一段落した、ある日の夕方のことだった。
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