07 引き潮の別れ
07 引き潮の別れ
「復讐って……そんな。確かに、私は身体を壊しましたけれど……」
これまで受けてきた仕打ちを思えば、憎くないとは言えない。
無理を押しつけられ、満足な食事も休養も与えられず、倒れても怠け者と罵られた。そうしてマリサの身体は、簡単には元に戻らないほど弱ってしまった。
それでも、復讐という言葉はあまりに重かった。
「お前は優しすぎる。だから、あいつらはつけ上がった」
おじい様は息を整えながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「何も、同じ苦しみを味わわせろと言っているんじゃない。お前のものを、あいつらのために差し出すなということだ。泣きつかれても、責められても、渡す必要はない。それだけで、あいつらには十分な復讐になる」
「おじい様が、私に渡したもの……」
「いずれわかる」
おじい様はそう言って、意味ありげに笑った。
「もうすぐ、すべて終わる。それから、ゆっくり身体を治しなさい。誰かのために働くのではなく、自分のために生きるんだ。新しい人生を始めなさい」
「……私に、できるでしょうか」
「できるとも。お前は自分で思っているより、ずっと強い」
おじい様の指先が、マリサの手の甲をなぞった。
「明日の引き潮に乗って、わしは逝く」
「おじい様!」
「そうなんだよ。人間は海へ帰る。潮に連れていってもらうのさ」
おじい様の故郷は海辺だった。
まだ元気だった頃、おじい様は幼いマリサを膝に乗せ、海の話を何度も聞かせてくれた。潮の匂い、白い波、遠くを行き交う船。そして、人は最後に海へ帰るのだと笑っていた。
「まだ行かないでください」
マリサが握る手に力を込めると、おじい様は困ったように笑った。
「そんな顔をされると、決心が鈍るな」
「では、鈍ってください。もう少し、ここにいてください」
「ありがとう。でも、もう十分だ」
おじい様は静かに首を横へ振った。
「あいつらは、自分が汚い分人も汚いと思う。あと少ししたら、家族の誰かと医者を呼んできなさい」
「でも……」
「そして、お前は医者が来たら帰るんだ」
「今夜は、私がそばにいます」
「駄目だ。最後にお前へ迷惑をかけたくない」
マリサがなおも言い募ろうとすると、おじい様は細い腕を持ち上げ、彼女の頬に触れた。
「最後は、マリサのおかげで幸せだった」
「おじい様……」
「それに、あいつらが困るところを想像すれば、死ぬのも少し楽しみになる」
おじい様は悪戯を企む子どものように笑った。
「本当に、何をなさったのですか」
「それは、後のお楽しみだ」
その声は次第にかすれていった。
「マリサ……わしのために……幸せになってくれ」
それだけを言い残すと、おじい様は目を閉じた。
「おじい様?」
返事はない。
けれど、胸はゆっくりと上下している。ただ眠っただけだった。
マリサはしばらくおじい様の手を握っていた。
もっとそばにいたかった。
けれど、おじい様の最後の思いやりをありがたく受け取った。
「……わかりました。人を呼んできます」
名残を惜しむように手を離し、掛け布を整える。ドアのところでしっかりとおじい様を見てマリサは部屋を出た。
母屋へ行くと、廊下で義母を見つけた。
「お義母様」
「何です? お義父様のお世話をしているのではなかったの?」
「おじい様の容体がよくありません。すぐにお医者様を呼んでください」
義母の顔色が変わった。
「そんなに悪いの?」
「はい。急いでください」
「アリス! アリスはどこなの!」
義母が慌ただしく家族を呼ぶ声を背に、マリサはおじい様の部屋に戻った。
寝台のそばに座り、おじい様の呼吸を一つ一つ確かめる。
やがて廊下から、何人もの足音が聞こえてきた。
義母とアリスが、医者を伴って部屋へ入ってくる。
「お義父様!」
ほとんど姿を見せなかった義母が、悲痛な声を上げて寝台へ駆け寄った。
医者がおじい様を診察する間、マリサは邪魔にならないよう壁際に下がった。
「あなたはもういいわ」
義母がマリサを振り返った。
「ですが……」
「後は家族で看ます」
家族で――その言葉が、鋭い棘のように胸へ刺さった。
マリサも家族の一人であるはずだった。
「早く帰りなさいよ。ここにいても役には立たないでしょう」
アリスが冷たく言った。
マリサはおじい様の顔をもう一度見た。
穏やかに眠っている。
声をかけたかったが、別れを惜しめばおじい様を困らせるような気がした。
「失礼します」
深く頭を下げ、マリサは部屋を出た。




